244 私の蜜がエリクサーなわけないじゃないですか
ニーナからの手紙を読み終わった私は、放心状態のまま空を見上げます。
大きな雲がゆっくりと、どこかへ流れている。
あの雲のように、私も風に導かれるままどこかへ雲隠れできればいいんだけど……。
静かに流れて行った白雲の代わりに、眩く光るお日様が姿を現しました。
ぽかぽかした温かな恵みの光が、森に降り注ぎます。
光合成したいから、もっと日光浴がしたいな。
花冠の下の葉っぱを全開に広げて、人間部分の両手と蔓を大きく開きました。
光を受ける表面積が増えたことで、私の葉緑素が喝采をあげています。
ああ、太陽光がおいしい……。
そんな気持ち良い感覚にふけっていると、ふと横から視線を感じました。
顔を動かしてみると、パンディア司祭がこちらを眺めていたようで、目が合ってしまいます。
現実に引き戻されたように、頭の中にとある言葉が浮かんできた。
先ほど読んだばかりのニーナの手紙には、そういえばこんなことが書いてあったっけ。
『イリス様のもとへ、ミュルテ聖光国から調査員が向かうかもしれません!』
──それ、パンディア司祭じゃん!
絶対にそうでしょ。
これからというか、もう既に調査員が私の目の前にいるんだけど!
しかもだよ。
私の蜜がエリクサーですって!?
そんなわけないでしょ!
だってこれ、私から出た蜜だよ?
そんなもの、どう考えても神聖なエリクサーとは似ても似つかないよ。
そういえば、あそこで魔女っこに勉強を教えているパンディア司祭の隣に置いてある小さなあの樽。
あの樽の中身は、さっき私が詰めてあげた聖蜜が入っている。
「ルーフェさんへの家庭教師代の代わりに、あなたの聖蜜をいただければ嬉しいのでございます」
出会って早々、そんなことパンディア司祭が言うもんだから、何も考えずに蜜を出してしまった。
でも、彼女が私の蜜を欲しがった本当の理由を察してしまい、唖然としてしまいます。
魔女っこの家庭教師を引き受けたのは、私から直接、蜜を手に入れるのが目的だったんだ!
どうりで私が蜜を出すところをじっくり観察していたわけだよ。
教会の偉い人に私が蜜を出すところを見られるっていうだけでなんだか恥ずかしかったのに、まさかあの視線にそんな理由があったなんて。
パンディア司祭は、私の蜜がエリクサーなのか、調査していたんだね。
そんなわけ、ないのにねー。
私の蜜がエリクサーなわけ、ないじゃんねえ。
だってこれ、私の体から出てくるんだよ?
口とか、目とか、あとは他の部位からも出るけど、そういうものなんですけど?
植物の蜜って人間にとってはただの美味しい蜜かもしれないけど、植物的にはつまりそういうことだから!
そんなものが、女神様が創った神薬エリクサーと同じなわけないじゃん。
【女神の巫女様】はいったい何を考えてるんだろう。
巫女様はもういい年だったし、そろそろ引退したほうが…………いや、私が会ったことがある巫女様は先代の巫女様なんだっけ。
私が死んでる間に、次代の巫女様になったみたいだから、私が会ったことがある巫女様とは別人になるんだよね。
手紙には、巫女様はニーナと同い年くらいって書いてあった。
きっとまだ子供だから、蜜と神薬を勘違いしたんだ。
私の蜜がエリクサーとか、あり得ないから。
だってこの蜜、みんなの常用の飲料水になってるから。
「さて、そろそろ、ルーフェの、おやつの時間、かな」
蔓を伸ばして、箱にしまってある木製のマグカップを取り出します。
『ルーフェ用』とナイフで小さく掘られたそのマグカップに、蜜を注いでいきました。
「はい、どうぞ」と、勉強している魔女っこに聖蜜を渡します。
これがないと、魔女っこの集中力は続かないのだ。
「もう勉強はいや」と子供のように駄々をこねる前に、お菓子代わりの聖蜜を飲ませる。
それが私の、魔女っこへの教育方法です。
まったく、世話のかかる妹を持つと、姉としては大変だよね。
それでも魔女っこの将来のことを考えると、これは必要なことなのです!
そういえばパンディア司祭にも蜜を渡さないと、失礼かな。
前に私の蜜が美味しかったって言ってくれたから、多分飲むでしょう。
お客様用のマグカップに黄金色の蜜が満たされていきます。
その神秘的な光の輝きを眺めていると、ふと気が付いてしまいました。
──蜜のこの光の輝き、言われてみればエリクサーに似ているかも。
実は、私はイリス時代に、本物のエリクサーを【女神の巫女様】に見せていただいたことがある。
その時、巫女様からこんなことを言われた。
『どうじゃ、聖女イリスともあれば、これと同じものが作れるのではないか?』
歴代の聖女はもちろん、誰一人としてエリクサーを再現することはできなかった。
あの初代聖女ネメア様ですら。
だから聖女イリスにならもしかしたらと思った巫女様の期待の眼差しに耐えられなくて、一応試したことがある。
でもさすがの私でも、エリクサーと同じものを作ることは不可能でした。
そのはずだったのに、なんでモンスターに転生した後にできるようになっちゃってるの!
私、ただ蜜を出していただけなんですけどー!
エリクサーの作り方なんて、まったくわからないんですが!!!!
「パンディア司祭も、どうぞ」と、蜜が入ったマグカップを渡しながら、心を落ち着かせます。
それにしても私の蜜に興味をもったらすぐに調査員を送るなんて、今代の【女神の巫女様】は先代の巫女様と同じで、自分が気になったらすぐに手を打つお方みたい。
前の【女神の巫女様】は6年前に交代したらしいから、ニーナと会った巫女様は私とは面識がないことになる。
それでも私が知っている【女神の巫女様】の面影を手紙から感じられて、なんだか懐かしい。
──でも、待って。
ニーナの手紙が正しければ、【女神の巫女様】のくだけた年寄り口調を他人に知られたのは、聖女イリス以来だという話だ。
でも、それっておかしいよね。
だって私が知っている【女神の巫女様】は、先代の巫女様なのに…………。
日が沈み、光合成ができなくなった頃。
魔女っこへの指導を終えたパンディア司祭が、帰り際にこんなことを言ってきました。
「あなた様の聖蜜はとても美味でございますね。飲めば飲むほど、力が満たされるようでございます」
「気に入って、いただけたのなら、嬉しい、です」
「是非とも、我がミュルテ聖光国と大口の契約を結んでいただきたいのでございます。そうすれば、教皇聖下もお喜びになること間違いなしでございます」
そんなこと言っても、私はわかっていますよ。
本国に私の聖蜜を持ち帰って、研究するつもりなのでしょう。
しかもそのことで本当に喜ぶのは、教皇聖下のさらに上の存在である【女神の巫女様】であることを私は知っているんだから。
でもガルデーニア王国とグランツ帝国だけじゃなく、ミュルテ聖光国にも蜜を売るとなると、これから忙しくなるかも。
というか私の体、もつのかな。
精霊に近い存在になったおかげで、なんとかなっているけど、ちょっと心配。
心配といえば、市場についても気がかりがあります。
すでに王都では聖蜜が高騰しているって話だったけど、このままだともっと値上がりしちゃうんじゃない?
インフレしそう…………チューリップバブルとかになったら目も当てられないんだけど。
蜜バブルだけはごめんです。
そうなっても、私は悪くないからね!
パンディア司祭を見送ると、魔女っこが不安そうにしながら私の顔を覗きこんできました。
「なんだかアルラウネ、その手紙を読んでから変。なにか嫌なことでも書いてあったの?」
どうやら魔女っこを心配させちゃったみたい。
いけないね、私のほうがお姉さんなのに。
「なんでもないよ。それよりも、ルーフェに、朗報があるの」
少しでも魔女っこの悩み事を取り除いてあげたい。
はぐれ魔女である魔女っこにとって一番の悩みの種といえば、魔女王キルケーについての話題だ。
「魔女王は、ミュルテ聖光国に、討伐されるみたい。もしかしたら、もう捕まってるかも」
「それ本当!? あの魔女王が……」
魔女王キルケーは、とんでもなくしつこい人です。
倒したと思ったら、また立ち上がってくる。
しかも配下も暗躍しているから、たちが悪い。
現状、友好関係を結んでいる魔王軍よりも、魔女王のほうが厄介な存在なのは間違いないです。
そんな魔女王が、ついに教会によって捕縛されるかもしれない。
それは聖女イリスとしても、そしてアルラウネとしても、とても喜ばしいニュースなのです。
私は、魔女っこの頭を蔓で撫でてあげる。
「これで魔女王とは、もう二度と、会わないで済む、かもね」
そうなれば、命を狙われていた私も、そしてルーフェも安心して暮らせる。
静かな植物ライフを、今度こそ送ることができるのだ!
「魔女王、といえば…………」
ひとつ、気になることがある。
魔女王が持っていたという『女神の羽衣』の存在を、私は知らなかった。
どうやら『女神の羽衣』があれば、魔の者を弾く聖魔結界を無効化できるのだとか。
それ、私も欲しいんですけどー!
その羽衣さえ手に入れれば、私も王都に自由に入れるってことだよね。
なにそれ、超重要アイテムじゃん!
魔女王がそんな貴重な物を大事に持っていたのも納得だし、それと交換なら魔女王の命を助けてあげる選択をした【女神の巫女様】の気持ちもわかる。
でも、ちょっと不思議だよね。
何百年も前にミュルテ聖光国から魔王軍に奪われたはずの『女神の羽衣』を、どうして魔女王が所持していたんだろう。
「魔女王と、魔王軍、それに女神の羽衣……やっぱり共通点は、ないよね」
きっと私が生まれる前のことだったのでしょう。
なら、私たちにはなにも関係のないことのはず。
だからこれ以上は気にしないでいいよね。
そう思っていたのに、その考えはすぐに覆されました。
「魔女王と魔王軍と羽衣の共通点…………もしかして魔女の里の、あの羽衣?」
魔女っこが、何かを思い出したように呟きます。
とはいっても、いくらルーフェが魔女とはいっても魔女の里で育っていないんだから、たいした情報は持っていないはず。
何を思いついたのか、魔女っこは頭についていた私の蔓をギュっと握ります。
そうして胸の前に蔓を移動させると、衝撃の言葉を発したのです。
「魔女王が持ってる羽衣なら、わたし知ってるよ」
────え?
魔女っこ。
私の聞き間違いかな。
ねえ……いま、何て言ったの?
「魔王軍が魔女王に渡した羽衣でしょ? わたし、それ見てたから知ってる」
魔女っこが、『女神の羽衣』を見たことがある?
私だって見たことないのに、どういうこと!?
混乱する私をよそに、魔女っこはさも当たり前といったように言葉を続けます。
「だってその羽衣のおかげで、わたしはアルラウネのところに帰って来られたんだから」
私は知らなかった。
この騒動のきっかけは、実は過去の私たちが発端だったということを。
チューリップ:ユリ科。和名は「鬱金香」。香りがウコンに似ていたからそんな名前が付いたらしいです。そんなチューリップは時と場合と経済状況によって、球根一つで家が建つほどの価値になったこともあったとか。
次回、どうやら元をたどれば私がきっかけらしいですよです。