針谷くん
電車に揺られて花の家に向かう。
意識が戻ってから自分の恋人だと言われていた人がどんな人だったのか…
花は気になっていても、見たことのない過去の扉を開けられずにいたが、陸は花に優しく寄り添い歩幅を合わせて、一緒に重い鉛の様なドアに手を掛けてくれた。
何度思い出そうと思っても思い出せないでいるが、それでも悲しい気持ちにならないのは、忘れてしまっている今の自分も、彼の優しさに包まれ守られているからなのだろうと感じた。
花の家に着くと母が心配そうに外に出てくる。
「ご無沙汰してます、お義母さん。」
会釈して花の荷物を渡す。
「辻本さん、お疲れのところ、本当にありがとうね。少し寄って行きますか?」
一日仕事で疲れているのに、ずっと花の重たい荷物を持って歩いてくれた陸を気遣った。
「いえ…、今日はもう遅いですし帰ります。お義父さんにもよろしくお伝えください。」
そう声をかけ、
「じゃ、花。ゆっくり休んで。」
そう言って、背を向けた。
結局公園に行った後は陸はあまり過去の事に口を開かなかった。
きっとそれは自分を思い遣っての事だと分かっていたが、その夜、花は記憶のない自分と陸の過ごした時間が気になってなかなか寝付けなかった…。
八月も半ばになり、太陽はまだ煌々と地上を照らし出し、物思いに耽る余裕すら奪う様に暑い日差しが降り注ぐ。
すっかり復帰した花は、陸との時間は会社の中だけではあるが、その時間に幸せを感じるようになっていく。
いつも、花の事を気にかけて愛情を注いでくれる彼に、もう記憶など戻らなくても、自分は彼のことが好きになっているという自覚が芽生えていた。
陸は仕事が忙しく、なかなか花と記憶を辿る場所に足を運ぶことが難しくなっていく。
その頃陸にはまた海外に赴任する話が具体的に上がり出し、まだ返事ができずに頭を抱えていたのだ。
いつかは結論を出さなければいけなかったこの問題に、花の記憶が戻らないまま答えを出すことが彼にはできないでいた…。
何も知らず花は今日も仕事を終え、幸せな気持ちで家路に着く。
来週からいよいよ、元のアパートに戻ることを決め、準備に追われていた。
カバンに荷物を詰め込んでいると、あの時の白い封筒が目に入る。
『そうだ、針谷くんからの手紙…かな?忘れてた…。』
いつもらったのかさえわからないその白い封筒の封を切る。
たった一枚のメモ用紙が出てきて開いてみる。
『花へ。
足は大丈夫か?
いい人がいるんだから、ちゃんと護ってもらえよ。
電話の後急いで昨日の場所に行ったら暴漢が三人とも伸びてたよ。
そこに鍵が落ちてたんで届けます。
P.S お前の彼氏、強いな(笑)』
そう綴られていた。
花は何のことだかさっぱり見当がつかなかった。
もしかしたら徹は何か知っているのかもしれないと連絡先を探す。
「お母さん、高校の時の連絡簿知らない?捨てちゃったかな?」
一階のリビングを探し回る花。
「誰にかけるの?針谷くん?」
母の口から徹の名前が出てきたことに花は驚く。
「…何でわかったの?」
びっくりしながら振り返る。
「あなたが意識がない時に携帯に何度も着信来てたのよ。だから一度だけ私電話とって話したの。
そしたら、お友達にあなたが大怪我したって聞いたらしくて…。花の家に行っても出てこないし、連絡しても電話に出ないから凄く心配してくれてたみたいよ?
あなた、一度針谷くんから助けてもらってるんですって?
また同じ様な事が起こったんじゃないかって、彼、気にしてたわよ?」
そんな事があったなんて…。
花は全く何も知らなかった。
徹に助けられたことも記憶になければ、何で自分のスマホに彼の番号が入っていたのかも分からない。
とにかく連絡してみようと、電話をかける。
すぐに出た徹は、
「花か?お前大丈夫か??」
彼の心配が電話口からでも見えるかのように伝わった花は、安心させるために、
「うん、大丈夫だよ。久しぶりだね!」
そう声をかける。
「そんな久しぶりでもないだろ?」
はははと笑う徹に、花は『そうか、知らない間に一度会ってるんだった』そう思い出した。
「針谷くん、明日仕事?休みなら会えないかな?聞きたいことがあって。」
花から誘われることが未だ嘗て一度もなかった徹は、
「な、なんだよ?…まぁ、明日は暇だしいいけど。」
そうモジモジと答える。
「どうしたの?急に大人しくなって。」
ふふと笑う花の声を聞いて、
「いや、なんでもないわ!」
必死に誤魔化す。
「じゃあ明日、一日アパートにいるから都合のいい時、来てもらえるかな?」
笑いを堪える花。
「わかった!明日な!」
そう言って電話を切る。
これで何かまた、新しい手がかりになる話が聞けるかもしれない…。
陸と一緒にアパートに荷物を取りに行った日から全く状況が進展していなかった事にやきもきしていた花は、やっとまた一歩踏み出せると思っていた。