3.不意打ち
昨日の出来事が夢なのか、現実なのか……
いつもより少し遅く起きた朝の柔らかい太陽の光に包まれ花は、寝ぼけ眼を擦りながら窓を開ける。
なによりも先にベランダで育てているペチュニアやビオラに水を与える。
うちのアパートのいいところはベランダから川を挟んで向かいの公園の自然がよく見える事だ。
この美しい風景に心奪われ、駅から多少距離があったが、ここに住むことを即決した。
外の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んでベランダにもたれかかり、遠くを眺める。
こうしていると心地よすぎて時を忘れそうになった。
「……ん?」
なにやら隣の方から白い煙が風に乗って流れて来る。
私は咳き込みながら隣を覗き込むと辻本さんがタバコを吸っていた。
「お!」
目があって彼は手を軽く手を振ってきた。
「辻本さん……!」
昨日のそれは、やっぱり夢ではなかった。
いつもはイラッと来るタバコの煙も急に特別なものに感じてしまう。
「辻本さんも今日休みなんですね」
壁に隔たれているベランダ越しに声だけで会話する。
「あぁ。いつも海外を飛び回ってるんだけど、秋まではこっちで骨休め。週末ちゃんと休めるって最高だな!」
タバコの煙だけが私の前を通過する。
自分にとっては週休二日なんて当たり前のことだと思っていたが、バイヤーともなるとそうもいかなくなるんだろうなと、同情した。
「なんでこんな駅から離れてるところに住んでんだ?」
辻本さんが不意に質問を投げかけて来た。
「景色、凄いいいじゃないですか、ここ。私内覧来た時、ちょうど前の公園の桜が満開で、一目惚れしたんです。この部屋に。」
懐かしく思い出す。
「なんだ、俺もだよ。まぁ、短い間の滞在だからどこでもいいちゃ良かったんだけどな、やっぱり自然はいい!」
うんうんと、自分に語りかけるように自己完結している様に、なんだかおかしくてクスクスと笑えた。
「なんだなんだ? なにが可笑しいんだよ?」
顔が見えないだけに何故笑われているか分からない辻本さん。
「ごめんなさい……。凄いわかります。私も自然大好きだから」
眩しい光に目を細めながら公園の木々を見つめる。
暫く沈黙が続き、
「さて、私ご飯まだなんで中入りますね!」
そう言って私は公園に背を向ける。
「おい、なぁ、今日一日俺とデートしないか??」
辻本さんはベランダを隔てる壁をトントンと叩いてきた。
「私に言ってるんですか??」
驚いて思わず聞き返した。
「なに言ってんだ、今俺と喋ってたのお前の他に誰がいるんだよ」
(相変わらず面白いやつだな)
陸は笑いをこらえる。
なかなか返事が返ってこないので念を押す様に、
「なに、今日予定でもあんの? それとも……彼氏がいるのかな?」
「いや……彼氏もいないし、週末なんていつも暇ですけど……」
彼女のか細い声が聞こえてきた。
「じゃ、決まり!! 今9時だから、10時に家の前集合!!」
そう言ってピシャリと扉の閉まる音が聞こえる。
「あっあの!!」
そう叫んだ彼女の声に気づかないふりをした。
急な話すぎてドキドキが止まらない。
『どうしよう、何着よう……? あぁ、女の子らしい服なんて何にもないよ……!』
よそ行きの服などどうせ出番がないだろうと、節約生活をしている私にはデート用の服なんて、全く持ち合わせていなかった。
『やっぱり断ろう……』
そう決意し、軽く化粧だけして辻本さんの部屋のインターホンを押す。
「どうした?」
インターホン越しの彼の声に戸惑いながら、
「あの……私デートしたことなんてないですし、普段着しかないですし……、とにかく今日は行けません。ごめんなさい!!」
辻本さんの部屋にそう言って背を向ける。
その途端『ガチャ』っといきなり開いた扉の奥に彼が顔を出した。
「なんで? 格好なんて、なんでもいいよ別に」
モジモジする私を気遣い、
「よし! 今日は俺が君を一日お姫様にしてやろう! もうそのままでいいからそこで待ってろ、すぐに行くから」
そう言ってまた部屋の中に入っていく。
5分ほどして、お洒落にビシッと決めた辻本さんが現れた。
「おまたせ!」
「お待たせって……、本当に無理です! 私こんなんだし……」
辻本さんは俯いた私の手をぐっと握る。
「いいから! 任せとけって! 全部俺のおごりで、今日は楽しもうぜ!!」
強引に私をアパートの外に引きずり出し、準備よく既に呼んであったタクシーに飛び乗った。
「まずはメガネを外そう」
そっと私のメガネに手をかける辻本さん。
陸はスーパーへ向かう花にぶつかった時、一瞬見えたメガネをかけていない横顔は、間違いなく磨けば光る子だと確信していた。
なんだかワクワクが止まらない。
これが恋愛感情なのかは定かではなかったが、自分の手で花の報われない日常に光を与えたいと思う気持ちは間違いなかった。
「ちょっと……」
そう軽く拒んだ私を押し切ってメガネを取り上げる。
「辻本さん、私視力悪いから!」
白くぼやけた世界に不安が隠せない。
「ちょうどいいから暫くこれは俺が預かってるよ」
そう言って美容院にタクシーをとめる。
「ここ、俺の友達の美容院なんだ。おいで」
そっと手を差し伸べる辻本さんは本物の王子様の様だった。
その手を取り、私は車から降りる。
美容院から、ブティック、靴屋に、アクセサリー店……
次から次へとお店をはしごして最後にコンタクトを作りにお店に入る。
初めてのコンタクトに戸惑いながら目に入れて目の前の鏡を見た。
「……え? これ……私?」
鏡の中の自分はまるで見たことのない、幸せな別の人生を歩んできた別人に見えた。
「お前……、そうだ、俺名前ちゃんと聞いてなかったな」
今更だったなと恥ずかしそう聞く辻本さん。
「花です……。古谷花」
ツヤツヤした口元から出た名前は陸の彼女へのイメージそのものだった。
「ぴったりないい名前だな、花」
頭をポンポンと叩く。
父親以外の男性に名前で呼ばれることが慣れない私。
顔が赤くなっていることを辻本さんに気づかれていないか心配になる。
「さて、あっという間に夕方だけど、ディナーはどこにいたしましょうか?」
隣にいる王子様に釘付けになりながら自分をこんなにも変えてくれた彼にもうこれ以上の贅沢は望まなかった。
「辻本さんがいつも行ってるお店に連れてってください」
にっこりと笑みが零れた。
「承知致しました、花お嬢様」
ふざけて頭を下げる辻本さんと一緒に居られることが変に嬉しかった。
陸からすると人助けをしたような…そんな気持ちに近かった。
二十歳の花とは七つも離れているのだから。
自分の行きつけのバーに花を連れて行く。
顔見知りになっているバーのマスターは、
「おい、陸。女の子連れてくるなんて珍しいな。しかもこんな若くて可愛いお嬢さん」
ハハハと笑いながらシェイカーを振る。
「花にぴったりの一杯お願いできるかな?」
陸はマスターにウインクする。
しばらく考えたマスターは
「承知致しました!」
そう言って花の前に差し出されたのは桜色のカクテルだった。
「わぁ……綺麗! ありがとうございます!」
そう言って口につけるとふんわりと桜の香りがする上品な味わいだった。
一気に飲み干す花。
「おいおい、大丈夫か?」
「私、結構呑めるんですよ、お酒!」
花の頭の中では酎ハイ2缶位のイメージだった。
ところが想像以上にまわるカクテルに、呂律がおかしくなる。
「なんだよ、たった一杯でできあがってんじゃないか。」
陸はカウンターからボックス席に移してもらい、彼女に水を飲ませた。
「なぁ、大丈夫か?」
そう覗き込むと頰をピンク色に染めた花は、
「うんっ!」
と子供のように返事をする。
『こりゃダメだ……』
そう思って早々に帰る支度を始めた。
「らめ!!」
そう彼女に制止され、再び座る陸。
暫く花をじっと見つめる。
嬉しがったり、悲しがったり、コロコロ表情を変える彼女を見ているだけで飽きなかった。
「花……」
「はい?」
幸せそうな表情にドキッとする陸。
「……目、つぶって?」
花はなんの疑いもなしに瞼を閉じる。
陸は目を閉じた花をじっと見つめながら唇を重ねた。
花はうっとりと身をまかせる。
小さな店の角で二人はいつまでも唇が離れることはなかった……