愛の執念
花より一足先に出勤していた陸は完全に仕事の顔に戻っていた。
いつも二人は2F商品部のフロアの中の一角に曇りガラスで隔離されている小部屋で働いている。
元々花は1F経理部にいたのでほとんど前の部署との関わりは無くなっていた。
花の異動は異例で、バイヤーである陸の権限で特別に行われたものだった。
ところが、また、今日経理部からの異動があると、商品部の中でも話題になっていた。
花の異動に関しては曇りガラスの向こうで行われている事なので周りには分からないが、部屋の外での二人の雰囲気を見ていると、よっぽど陸からの信頼をかっている仕事の出来る秘書だと思われていた。
それほどに、仕事の場では何があっても二人は私情を表に出すことはなかったのである。
今度はどんな人が来るのか…そう騒がれていたが、扉を開けて入ってきたのは副社長の娘である倖田愛だった。
彼女は見た目の華やかさとは裏腹に、黒い噂が絶える事はなかった。
出世を目論んでいる男性社員は、彼女の美しい容姿にも惹かれ言いよるものも少なくはないが、逆に副社長に睨まれ左遷されたり、根拠のない悪い噂を撒き散らされ辞めて行くものも中にはいた。
商品部一同は静まりかえり、『なぜ彼女がここに来たのか…?』そう誰もが思っていた。
花と陸は彼女の姿を見て凍りつく。
彼女の後ろから副社長が顔を出し、陸の前に現れる。
こっそりと、
「娘の言う事には弱くってな…。何でもいいから使ってやってくれないか?」
副社長は陸の肩をポンと叩きお願いする。
「いや、困りますよ。特に今は人員も足りてますし…。」
困った顔で訴える。
「君の秘書、経理部から来たんだろ?その子と交換はどうだね?」
陸はすかさず、
「とんでもない!!今となっては私の右腕ですから!」
必死に抵抗する。
「…とにかく、何かしらあるだろう?人事部には適当に言っといたから、頼むよ!」
そう言い捨て、愛を置いて逃げるように立ち去る。
「…仕方ない…。おい、吉田。彼女に何か仕事あてがってくれ!」
吉田浩介は青ざめた顔で愛を見る。
ニコッと不敵な笑みを浮かべ吉田の隣にドカリと座り頬杖をつく。
愛の態度に同僚達の彼女に対する印象は最悪なものになる。
それでも動じない愛には絶対無敵の副社長がバックについている。
みんな無言で自分の仕事に戻って行く。
花と陸もまた曇りガラスの向こうに消えて行った。
愛は二人の動向が気になって仕方がない。
なぜあの女が陸に気に入られているのか…。
経理部にいた時は自分が犬のように使っていたのに…!
震える拳を握りしめる愛。
陸は花に一昨日、副社長とのやり取りは一切話していなかった。
暴漢に襲われたのは愛の仕業だったと知った時、警戒は強めなければならないと考えてはいたが、まさかこんなにも早く愛が近くに現れるとは思いもしなかった。
「花…、今日は一緒に帰ろう…。」
仕事中にも関わらずそんな話をしてくる陸に、花はよっぽど心配してくれているのだろう…と察する。
「今日の段取り、明日に回せるものと、帰ってからでもできそうなのは省いてもう一度スケジュール見直してくれるかな。」
忙しなく陸は動き始める。
「はい、分かりました。」
花は陸に感謝した。
本当は愛の顔を見ただけで花は冷や汗が出るくらい恐怖を感じていたのだ。
その日は二人はブースからあまり出ないようにした。多少の残業はやむを得なかったが、二人で帰るところを誰かに目撃されてもまた厄介なので、商品部のフロアから誰もいなくなったのを確認して二人は会社を出る。
いつも通り電車に乗り込み、駅で降りる。
駅前の商店街で目に付いた帽子を買って花に被らせる。
「倖田さん、俺んち知ってるんだ。念には念を入れて、これ被ってくれ。」
マスクも手渡され、コクリと頷く。
何か自分の知らないところで、愛が動いている事を予感させ、花は恐怖に震える。
案の定、見覚えのある黒い車がアパートの前に止まっていた。
陸は花を覆い隠すように階段を登っていく。
後ろから誰かが階段を登る気配を感じるが振り返らない。
陸の部屋に花を押し込みすぐに扉を閉める。
「花、今日はウチに泊まれ。」
そう言って陸は窓の外を伺う。
黒い車に愛が乗り込み去って行くところを確認してホッと胸を撫で下ろす。
「花…。倖田さんの事で、話があるんだ…。」
陸は重い口を開いて花に話し始めるのだった。