2.隣の住人
「どうしてこんな間違いしてるのよ!!」
プンプン怒っているのは、昨日昼休み前に仕事を押し付けてきた、倖田愛だ。
華やかな顔立ちでか弱そうな風貌は会社の中でも男性社員に圧倒的な人気を集めている。
女子社員の中でもリーダー格の愛は自分の思うがままに同僚を使い、上司には仕事の早いできる社員だと可愛がられていた。
なんといってもこの会社の副社長の娘である彼女の権力と言ったら説明するまでもない。
「ごめんなさい……」
私は勢いに押されて訳も分からず謝る。
「急いでやり直して私の机の上に置いといてよね!!」
そう言い放ち、女子社員をたくさん引き連れながら昼休みへと繰り出していった。
「間違えてたのかな……?」
そう資料を確認すると、もともと愛が記入していた数字が原因でミスが起こっていた事に気づく。
「はぁ……」
悔しい気持ちをどこにぶつけることも出来ず目頭が熱くなった。
(今日はお弁当食べる時間ありそうにないな……)
ひたすらパソコンに向かい入力をしていくが、涙で滲んでなかなかはかどらない。
コンコン
ノックの音がする……と思い入り口に視線を向けると、背の高いスーツの似合う茶髪の柔らかい髪をした男性が立っていた。
「はい……」
こぼれ落ちそうな涙を見せまいと、俯きながら彼の元に歩み寄った。
「この資料、飯田部長のデスクの上に置いといてくれるかな?」
そう私の顔を覗き込む。
「わかりました」
懸命に顔を上げ見えたのは、社内で今話題の辻本バイヤーだった。
噂では聞いていたが彼の放つオーラは後ずさりさせるほどの輝きを放っている。
どこかの国の優しい王子を連想させるその風貌に心をギュッと鷲掴みされてしまいそうだ。
そんな不意打ちを受けて力が抜けた瞬間、さっきまで溜まっていた涙がポロリと零れ落ちてしまう。
黒縁のメガネをしていたので、きっと気づかれることはないだろうとさっと下を向き、一礼して席に戻った。
陸は彼女のキラリと光った涙を見逃さなかった。
朝はあんなにも解き放たれて笑顔を浮かべながら、言葉のない草花に優しく話しかけ水をやっているのに、なぜ今あんなに悲しい顔をしていたのだろう……?
気になって仕方のない陸はなかなかその場を動くことができない。
不思議な謎を秘めている花に今もまた心を奪われていた。
甲高い声とともに愛たちがお昼を済ませて戻ってくる。
辻本バイヤーはその声に気づき、早々とその場を立ち去ろうと背を向けた。
私はその背中を見ながら現実の世界へと引き戻されてく。
愛たちはすかさず陸を見つけ、
「辻本さん、ここでどうされたんですか??」
上目遣いを最大限に活用してしなしなと彼に擦り寄っていく。
「ちょっと、届け物があって」
辻本バイヤーは早く立ち去ろうと、取り巻きたちを掻き分けながら進んでいく。
「えー、もう行っちゃうんですかぁ?」
そういながら彼を見送った途端私を睨みつけた。
「ちょっと、ちゃんと終わってるんでしょうね?」
資料をチェックする愛。
「あ、ちょっと、まだ……!」
取り返そうとしたが、愛はわざと資料を床にばらまく。
「さっさと拾って進めてよ! 失敗ばっかしてるくせに、辻本さんと話せたからっていい気になるんじゃないわよ!!」
そう吐き捨て自分の席に戻る。
私は静かに資料を拾いながら溢れてくる悲しい感情を押し殺した。
『なんてことない……大したことじゃない……』
そう思い込ませ、涙よ引っ込め!!と呪文をかけまたパソコンと向き合うのだった。
窓辺に夕日が差し込み、みるみる空は暗くなっていく。
今日一日、またろくなことがなかった……とつい悲観する。
とぼとぼと繁華街を通り抜け、駅に向かった。
満員の電車のドアの窓に映る自分の情け無い顔を見て目を逸らす。
なんて顔をしているんだろう……
もっと笑顔でいればいい運気も舞い込んでくるのだろうか?
周囲が自分に背を向けているのを確認して笑顔を作ってみる。
窓に映った滑稽な顔に情けなさと、可笑しさでまた涙が込み上げてきた。
電車は大きくカーブし乗客が一斉に花のドア側に雪崩れ込む。
「う……!」
苦しくて思わず声が出たと同時に、
『バン!』
と黒い固まりが自分の目の前に現れる。
どこかで見たネクタイだな……そう思って見上げると、目の前には辻本バイヤーが私を人の重圧から守るように立っていた。
「おい、大丈夫か? そんな顔して」
じっと見つめてくる彼に驚き顔を隠す。
「あ、あの……私の事知ってるんですか?」
王子様の様な彼に護られてる事を実感しながら恐る恐る聞いてみた。
「あのなぁ、昼休み会ったばっかだろ? ……それに、君のことはもうだいぶ前から俺は知ってるよ」
ふふと笑いながらいたずらっ子の様な顔をする。
「……え? どう言う事ですか??」
どこかで会ったのだろうかと必死で思い返すが、思い当たらない。
「ついてこいよ、次降りるだろ? すぐにわかるから」
どう言う意味かわからなかったが、間違いなく私の心は弾んでいた。
今日一日の悲しく落ち込む出来事を、布団の中で振り返らなくて済むなら、今だけでもこの王子様に夢を見させてもらおうと思った。
「……はい」
そう言って辻本バイヤーの大きな背中を見つめながら後ろをついていく。
まるで彼が私の帰宅する道を知っているかのように、見覚えのある景色をぐんぐんと家に向かって歩いていく。
私のアパートの前まで到着して、なぜか2階に上がっていく。
もしかしたら、同じ会社だし、住所を調べて送ってくれたのかな……?
いや、何のためにこんな見ず知らずの冴えない部下の為に?
疑問は尽きなかったが部屋の前まで来て、
「わざわざ送ってくださったんですね、ありがとうございました」
と一礼し、夢の世界に自ら幕を下ろす。
すると彼は驚きの言葉を口にした。
「いや、俺んち、お前んとこの隣だから。よろしくな、お隣さん」
そういって何事もなかったかの様に、鍵を開けて中に入っていく。
私はその場に固まって動けない。
(え? なに? どう言うこと???)
そこからあまりの衝撃の事実に、布団の中に入るまでの記憶がなぜかない。
この一枚薄い壁の隣には王子様が寝ているの??
嘘でしょ?
これって……喜んでいい事なのかな?
不運が来る事が体に染み付いている私には、この幸運も何かのトラップなのでは?と警戒してしまう。
いや、もしかしたらオルゴールが見せてくれた幸せな夢なのかもしれない。
でも夢ぐらいみたって、バチは当たらないよね……?
今日一日に怒涛のような展開を見せて巻き起こった出来事に疲れが一気に吹き出し、気がつくとウトウトと眠りについていた。