ラナ
ピュ~っと、それは間抜けな音を立てて少女の半開きの口の中に何かの液体を飛ばした。
想像とかけ離れた事態、そして意外にも大量に入ってくる液体。それが気管支に入ったのか少女は目を見開き、堪らず上半身を起こし咳と共に吐き出してしまう。
「カハッ……ゲホッゴホッ……はぁ、はぁ……え?」
意味が分からないと少女はリエルの顔を見る。騙したのかと表情で訴えかける。しかしリエルは先程の雰囲気のまま、ピュ~、ピュ~と拳銃と言う武器からその少し甘い液体を飛ばしながら口を開いた。
「ほらほら、ちゃんと飲まないと駄目じゃない。死ねないよそれじゃ」
飲まないと死ねない。ならこの液体はきっと毒か何かなのだと、そう思った少女は再び口を開け飲み始めた。拳銃から液体が出なくなり、しばらくして何も起きる気配が無いことに少女が焦り始めた時、なんとリエルは笑っていた。まるで悪戯が成功した子供のように。
「あっはっは! 良いね。信じて、驚き、疑い、焦る」
「っ! 馬鹿に……!!」
「そして怒る。この短時間でそれだけ感情を表せる子が死にたいってのは嘘だよね」
少女の唇へ指を当て怒りの叫びを遮りながら、リエルは殺して欲しいという願いを嘘だとはっきり告げた。どこが嘘だと言うのだろうか。少女はリエルを睨み、液体に濡れ話しやすくなった口を開いた。
「……いきなり来たあなたが、何を知ってるでありますか」
「ん? なんか聞いた事ある語尾だ、大和」
「極東の一部で使われる方言ですね。極東以外の国では偏見があるのであまり良い顔はされないでしょう」
「へぇ。君、それは元から?」
「あの人達の思いつきであります。従わないと殺されるでありますから……」
「従う他無かった、なるほどねぇ」
語尾に関しては随分前にならず者の内の一人の思いつきで仕込まれたもので今ではもう口癖のようなものだ。従わなければ酷い苦痛を伴う殺し方をされてしまうために少女は必死でこの極東の一部で使われている方言とやらを真似してきた。しかし、少女が話したいのはそんなことではない。静かに怒りをぶつけたつもりがスルッと逃げるように話題を変えられてしまった。
「そんなこと! どうでもいいであります! 何が……何が嘘だって言うのでありますか! わたしは……こんなに」
「読心って言うんだ、僕の魔法。言っておくけど独り身の事じゃないよ」
「え?」
「目を合わせた相手の心を読む。それが僕の魔法さ。読むと言うよりは視るって言った方が良いかな。相手の心を視る、それは時に相手自身が気付かない程深い所まで視ることが出来るんだよ」
魔法。その力がどれだけ便利でどれだけ強力な物なのか、ここに囚われてから少女も少しは分かってきたつもりでいた。例えば最初に少女が死んだ時。あれは相手の男の魔法で蹴る力が増幅されていたことで爆発的な威力が生まれたから起きた事だった。他にも炎を操る魔法で燃やされた事もあれば風や土を操る魔法で切り刻まれたり生き埋めにされて殺された事もある。暴力的な使われ方しか見たことが無かったが、あの力を上手く使えば生活が豊かになるであろう事は幼い少女の頭でも簡単に理解出来た。もちろん、優しく、誰かを助けるためにその力を使うことも出来るだろうとも。
そして今目の前に居るリエルと言う男に言わせてみれば、なんと少女の不可思議な不死という現象も魔法によるものであり、そのリエルの魔法は相手の心を視る魔法だと言う。曰く、相手が心で思っている事が本人以上に分かるのだと。
「君は確かに死にたがっている。その言葉に嘘偽りは一切無い。君は、死にたいと心の底から思っている」
「だから最初からそう言ってるでありますよ」
「でもね、それは錯覚なんだ。これまでの君が君にそう思わせているだけだ。死にたいと、殺して欲しいと言う願いの奥の奥。君自身が気付きもしない所で生きたい。普通に生きてみたい、幸せという物を感じてみたいと。そう願う本当の君が居る。その君の本心が生きたいと、幸せになりたいと僕に叫び続ける限り、僕は君を殺さない」
優しく、語りかけるようにリエルは言った。出鱈目だと、何も知らないくせにふざけるなと一蹴することは少女には簡単な事だった。今までならず者達にされてきたことを思えば、二度と覚めない眠りに落ちた方がどれだけ楽か分からない。どれだけ幸せになれるだろうか。そう思っている。それは他でもない少女自身が一番分かっているはずだからだ。しかし彼の、リエルの言う言葉の何かが少女の心に引っ掛かって、否定の言葉を出すのを躊躇ってしまう。
それはつまるところリエルの言う通り、少女は心のどこか片隅では生きたいと願っている、という事ではないだろうか。簡単には納得出来ない。素直に頷く事は出来そうにない。何故ならそれを納得して受け入れる事は今のままの自分を捨てて新しい、いや、知らない自分を受け入れるという事になるから。知らないことを知り受け入れる。それは少女に限らず、誰にとっても酷く難しいものだ。
少女が考え込み口を開くまでの間、リエルは拳銃から四角い、細長い容器の様な物を取り出すとやっぱり撃ち切っちゃったか、と呟きつつ自らのポケットに仕舞い、アネムにより新たに出された容器と取り換えていた。その容器にもおそらくあの液体が入っているのだろう。
「なら……どうしろと言うのでありますか? これ以上……わたしに何を失えと……」
「君はもうこれ以上失うものなんて無いよ」
否定の代わりに俯き、苦し紛れに出た呟きに対して返ってきた言葉に、そして頭に感じる暖かい感触に少女は思わず顔を上げた。
「君が願った通り、裏路地を這いずり、ならず者に玩具にされて生を消費する可哀想な不死の少女は死んだ。僕の村に来ると良いよ。君はこれからラナと名乗ると良い。ラナ・ヒルフェンとね。無力に苦しみ何も出来ないと絶望する過去の君に別れを告げて、君の新しい人生をこれから歩んで行くんだ。ゆっくりでも良い。確かに生きることは苦しいかもしれない、けど楽しいんだよ。知らないだけさ。もし、君が僕の村で暮らしたうえでまだ死にたいと心の底から願うなら、その時は僕がこの手で殺してあげよう。本当の、約束だ」
「ぁ……」
少女はもう何も言えなくなっていた。知らず溢れて来た涙が視界を歪ませる。だって知らない、知らなかったのだ。優しい、心に染み込むような言葉も。暖かく、自分を撫でる手のひらの感触も。慈しむような、見ているだけで安心してしまえるくらいに柔らかい笑顔を向けられた事だって、ただの一度も無かった。だと言うのにリエルはこの短い時間で少女に全て与えてみせた。それだけでなく今までの、生活と呼ぶのすら馬鹿らしくなるようなそれを捨て去って名前も、新しい居場所もくれると言う。一緒に来いと、お前はもう家族だと、そう言うのだ。どれだけ強く願っても差し伸べられる事の無かった救いの手が一人の男によってこうも簡単に差し出されている。
身体が勝手に震える。感じたことの無い温かな感情の昂りに心が吹っ切れそうになって今まで塞き止めていた何かが溢れ出しそう。しかし少女はそれらを必死で抑え込み、震える両手にギュっと力を入れ涙声になりながら最後の抵抗を試みた。
希望を見せて、救われたと思った途端に突き落とされるくらいなら。救われない方が良いと。救うくらいなら救い切ってみせて欲しいと。そうじゃないなら見捨てて欲しい。それを拙いながらに伝えようとして。
「こんな所で生きてきたであります……」
「うん」
「名前も歳も生まれた意味も……何も、何も知らないであります……」
「君はラナ。歳なんか知らなくても良い。生まれた意味なんて実はみんな知らないものさ。これから君自身が見つけて行くんだよ」
「何も出来なかった……これからもきっと、何も出来ないでありますよ……?」
「そんなこと、やってみなきゃ分からないよ。それに出来なくたって良いじゃない。したいことをすれば良い。出来ることなんて、そうしていく内に増えていくものなんだ」
「お金だって、役に立つ物だって、何も持ってないであります……」
「お金なら僕が持ってる、頼りになる家族や仲間も居る。困らないさ」
「きっと……迷惑も……いっぱい、かけてしまうであります……」
「家族の誰かの問題は家族全員の問題、僕の家族にそれを迷惑に思う人は居ないんだ。良い家族でしょ?」
「っ……わ、わが……ままも、たくさん……たくさんっ……言う、かもしれないで……あり、ますよ……? だから……!」
ふわりと、不意に何かに引き寄せられる感覚がした。強く、けれど優しい感覚。気がつけば少女はリエルの腕の中に居て、不思議と全身の力がスッと抜けていくのを感じた。耳元で囁くように、素直になれない困った子供を諭すように話すリエルの声が聞こえる。心地良い感覚。
「良いんだよ。子供はわがままで良いんだ。そのわがままを聞いてあげるのが僕達大人の役目なんだから。君が今までしたくても出来なかった事、して欲しくても誰もしてくれなかった事。それがきっと数え切れないくらいあるはずだ。迷惑だって良いんだ。わがままで良い。甘えちゃいなよ、君は子供なんだからね」
もう、少女に堪える術は残されていなかった。今までの人生の中で無理矢理に塞き止めていた感情が爆発して止まらない。少女はリエルに抱かれながら声を上げて泣いた。泣いて泣いて、泣き続けた。苦しかったこと、辛かったこと。今まで何をどうしてもどうしようも無かった、その小さな身体で、心で、到底受け止められなかった理不尽を思いのままに叫んだ。その度にリエルは相槌を打ちながら宥めるように、落ち着かせるように優しく背を、頭を撫で続けた。
おそらく、これからも少女には辛いことや苦しいことは訪れるだろう。それは生きている限り全ての人に訪れる物だ。避けては通れない。しかし少女にとって今まで以上に辛い何かが訪れる事など無いようにも思う。
(もう、独りじゃないんだ……!)
独りじゃない。少女の身体を抱く力強く優しい腕が、暖かな身体がそれを何よりも物語っている。それだけでもう十分だった。これだけの物を貰いながら差し出された手を取らない選択など、出来るはずも無くなっていた。
この日、スラム街で暮らし不幸を重ね続けた不死の少女は人知れず死に、リエル・ヒルフェンの娘、ラナ・ヒルフェンという少女が誕生した。