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その果実は

「いただきますっ」


 林檎を食べることが出来る。そう分かった途端、食事をすること以外の全てを忘れてしまったかのように早口で習慣になっているあいさつを済ますと、さっそく小さな口を大きく開いて丸かじりしようとする。


ふぁ()……ふぁふぁい(かたい)っ!」


 ガッと擬音が聞こえそうな勢いで林檎に歯形をつけた少女は堪らず口を離してしまった。

 手に持った感触で薄々気づいてはいたが、林檎は想像よりも数段硬く、少女の弱いあごでは上手く丸かじり出来そうにない。

 程度はあれど果物は柔らかい物。うっすらとそう思い込んでいたのがいけなかったか。


 餌を食べる寸前『待て』をされ続けた子犬のように一瞬しゅんとしてしまう。俯き、長い髪が顔にかかっていてその表情は(うかが)えないが、しかし僅かに覗く口元だけは堪えきれないといった風にゆるりとしている。

 少女自身、久々に口角が上がるのを押さえられないのを感じていた。


 ――あぁ。

 これが林檎か。


 林檎には歯形をつけることしか出来ていない。食べることはまだ出来てはいなかった。

 それでも、小さくつけた歯形から伝った雀の涙程の滴は確かに少女の舌に触れていた。

 空気に長く触れ酸化してしまった林檎の芯とは違う。虫に喰い荒らされたり腐っていたりでダメになってしまったものなどは論外だ。

 もしかすると採れたばかりなのかもしれない。

 少女がそう思ってしまう程に、赤く、丸々とした林檎からはふわり。と甘酸っぱい香りが漂い嗅覚を満たしている。

 林檎から出た蜜は、舌に僅かに触れた程度の滴ですら、その特有の優しい甘味とほのかな酸味が絶妙に混ざり合い少女の味覚を強く刺激した。


 もしもこれを口一杯に頬張れたら。


 少女はそう思うと、我慢出来ないとばかりに再び林檎に口をつけた。先程と違い歯で表面をシャリシャリ、シャリシャリと削り取るように食べる。

 口の中を果肉が、果汁が満たしていった。


 それは時間にすると十数秒くらいの、短い時間だったかもしれない。

 それだけの時間だとしても、少女にとっては間違いなく救われた時間だった。


 今までどれだけ餓えていただろう。どれだけ探しても探しても、結局は得るものは無く、時間に追われスラム街へ帰り草を食むことでそれを誤魔化していた。

 これからももしかしたら、いやきっと。餓えに苦しみながらひもじい思いをし続けるのだろう。

 そこにこうして生き続けるだけの何かがあるのかと問われたとき、今までなら答えることは出来なかったと思う。

 答えられないまま、生きていくのだと思っていた。


 餓えたままなのは変わらない。これからどうしたらいいかも、分かっていない。それでも。

 ただ、ほんの小さなもので良い。その小さな幸せを見つけるために生きてみたい。

 林檎を食べながら、今はそう思えた。


 少女は餓えていた。苦しみ、もがき、絶望の果てに手にした林檎は、まさに希望だった。

 だからこそ、少女は気付くことが出来なかった。

 林檎が転がって来た。それがどういうことか。

 ()()()()()()()()()()()()()()林檎が、どういう意味を持っているのか。



 食事は唐突に終わりを告げることとなる。


「何をしてる」

「ぇ……?」


 少女の細い腕を掴む別の腕。

 林檎が一杯に入った袋を持った男が、冷たい目で見下ろしていた。

 袋から落ち、転がって行ってしまった自身の林檎を追ってやって来たのだろう。

 疑うべくもない。少女が食べていた林檎。それはこの男の物だった。

 男は少女が手に持つ林檎に目を留めると掴んだ腕に力を込める。


「いっ!? ぅあっ」


 痛い。腕に走った骨が軋むような痛みに思わず顔をしかめる。林檎から手を離し、取り落としてしまった。

 ころころと数回地面を転がった林檎は、それまでどこか誇らしげですらあったその見た目を見るも無惨な物へと変えてしまう。

 それを呆然と眺める少女に、男は再び問う。


「何をしている?」

「え……あ、あの、わたし……は……」

「スラム街の奴だな? 来い」


 男はまるで汚いものを見るような目付きで少女を眺めながらそう言うと、現状に理解が追い付かない少女の腕をぐいと強く引っ張り無理矢理に立たせ、引き摺(ひきず)るようにして路地を進み始めた。

 このままだとマズい。突然の事態に軽く混乱している少女に理解出来たのはそれだけだった。


「あ……あの! わたし、表通りには行ってません。行ってないんです! 何もしてないですから! だから」

「うるせぇ!!」

「ひっ」


 一喝。たったそれだけのこと。たったそれだけのことで、少女は完全に萎縮し、何か話そうと口を開いても声にならず、カタカタとその身を震わせてしまう。


「表通りに行ってようが行ってなかろうがそんなことはどうでもいいんだ。何もしてない? 俺の林檎がっつり食っといて何もしてないとは言えねぇだろうがよ!」


 少女の腕を強く引きながらズンズンと路地の奥へ進んで行く男は声を(あら)らげる。


「まぁ林檎食ってようが食ってまいが変わんねえがな。お前はもう終わりなんだよ」


 少女は事ここに至って、初めて自身の思い違いに気付く。それも酷く重要なものだ。

 表通りに出てはいけない。これまで何度もスラム街の住人達の話に聞き耳を立ててきた。その時の内容からもそれについては間違いない事だった。

 しかし少女は何故表通りに出てはいけないかについて考えたことは今まで一度もない。

 それは表通りに出なければ良いだけの事と、その話題から半ば無意識に意識を逸らしていた事が原因だ。


 表通りに出れば悲惨な末路を辿ることになる。

 それは確かにその通りだった。しかしそれは()()()()()()事が直接的な原因などではなかった。

 彼等彼女等は、表通りに出たことで()()()()()()()()()()()。見つかってしまったがために、悲惨な末路を辿ることになってしまったのだ。


 盛大な思い違いに気付き、少女が自身の身に起きている事態を把握している間にも男は路地を進み、目的の場所を目指す。

 たしか表通りに出た者達は都市に巣食うならず者達に差し出されると聞いた。そうすれば、ならず者は表通りで暴れる事も無いのだと。

 それならば今向かっている所は、きっと。


 少女は神を信じていない。信じることでその神様とやらが誰にでも救いをくれると言うのなら、何故少女がどれ程自身の境遇を嘆き、苦しみ、救いを求めても手を差し伸べてくれなかったのか。

 しかし今、少女は神の存在をにわかに信じるしか無かった。この世界にはきっと神様とやらが居て、少女に執拗に理不尽を強いるのだ。そうでなければ。


(あぁ……神様。わたしは……わたしはあと何回……)


 そうでなければ少女はきっと。


(地獄に落ちれば良いんですか……?)


 壊れてしまうだろうから。


 表通りの方角から転がって来た林檎。

 それは少女がどれだけ餓えていようが、気力と体力を使い果たして動けなくなってしまおうが、決して手を出してはいけないものだった。

 少女は林檎を無視し、一目散にスラム街の方へ逃げなければいけなかった。


 少女に微かな救いを与え、決定的な絶望を与えた。

 いつか少女は思った事があった。

 表通りに出た先。そこにあるのは1%にも届かない絶望的な希望。そして確実な私刑。

 まるで同じだ。


 かつてアダムとイヴは手を出してはいけないその実を口にし、罰を受けたと言う。

 少女にとってあの林檎は、アダムとイヴが口にしたのと同じ。


 名実ともに、正しく、禁断の果実と言うべき物だった。

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