8月11日 ~大虚~
辰原神社に辿り着いた健太と朱里は、眼前の光景を現実として受け止める事が出来なかった。
神社があったはずの場所にあるのは、巨大な虚であった。
底の見えない漆黒の虚は、神社の敷地を全て飲み干したにも関わらず、食い足りなそうに大口を開けている。
これがきっと佐久間家に伝わる巻物に書かれていた大虚だ。
健太は、朱里の手を握り締めて呟いた。
「俺、考えないようにしてた事があるんだ」
「何を?」
「何かが来た大虚は、辰原町のどこにあるのか?」
そして大虚の封じるように神社が作られたのなら――。
『わしは見たんだよ。あの日、大虚に灰色の煤が逃げ込んでいくのが確かに見えたのだ』
大虚の底で眠るモノは――。
「どうしてここに!?」
背後から轟く声に振り返ると、そこには辰原神社の神主である朝倉が居た。
彼の自宅は、神社の敷地と別にある事が幸いしたのだろう。
無事を喜ぼうとした健太だったが、
「早く逃げなさい!!」
朝倉は、死を喉元に宛がわれているかのように、声を荒げた。
崩落が広がるかもしれないから近付いたら危ない。
こっちへ来なさい。
そういう感情から発せられた言葉ではないと、健太の本能が叫んでいた。
朝倉の恐怖は、大虚の根源を知っているからこそ、大虚の意味を知っているからこそ浮かび上がるものだ。
「知ってるんですか? 大虚の事」
「君を縛る因果だ」
「え?」
「君は長く生き過ぎた。因果を回避し続けて、制御が出来ないほど強大な修正力になってる」
「まさか……俺の魂がこれを」
「君の魂の器を滅した原初の要因。それを呼び寄せてしまったんだ。早く逃げろ!」
「逃げろって……」
健太の素肌を雪の結晶が突き刺さるような冷たさが這いずった。
目を凝らして、ようやく映る微細な煤が一つ、大虚から立ち上ってくる。
大虚から漏れ出す濃厚な負の気配は、この一つから発せられていた。
すると、後を追うように十が。
その後を追って百が。
さらに続いて千が。
万に、億に、兆に膨らむ煤の群れが竜の腹のように渦巻いて地上へと昇ってくる。
たったの一つでも耐え難い嫌悪が、兆を超える群れの分、大気の中に溶け出していく。
「俺がこいつを呼んだのか?」
健太の因果が引き寄せた物。
健太の魂が呼び寄せた物。
辰原に破滅をもたらす物を魂が呼び寄せるのだとしたら――
「ふざけんなよ。こんな迷惑な自殺ありかよ」
ここで殺されれば灰色の煤は、帰るのだろうか。
それとも七百年前のように人々に寄生して辰原を支配してしまうのか。
どちらにせよ待っているのは、健太にとって、絶対的な死の因果。
逃れようがないと、逃れてはいけないと、常に寄り添い、追いかけてくる。
死という概念を象った膨大な異形を前に、思考すらもおこがましく、健太の脳を空白が犯していく。
「ここを離れて町へ行け!!」
朝倉の絶叫が健太の意識を目覚めさせた。
「朝倉さん……」
「大虚から離れれば、それだけ煤の影響力も薄れるはずだ。とにかく逃げるんだ!」
逃げれば、確実に灰色の煤は、健太の事を追いかけてくる。
こんな物を連れて辰原の中心へと行けば、甚大な被害が出てしまうのは想像に容易い。
灰色の煤とは、人の体内に巣食い、人食いに変えてしまう尋常ならざる生物なのだ。
いくら自分を守るためとはいえ、そんな危険は冒せない。
ならばいっそ自分だけがここで食われてしまうのが――
「しっかりして!!」
朱里の怒号が轟き、健太の右腕が強く引かれる。
「あんなものに、あなたを殺させるわけにはいかない」
つんのめりながらも朱里の駆け足に追い縋るように、健太の足も回転を増していた。
振りかえって確認すると、灰色の煤は、地面スレスレを渦巻きながら飛翔し、健太と朱里を追いかけてきている。
朝倉は、健太たちとは反対方向に走り出すと、
「助けを呼んでくる! とにかく逃げるんだ!!」
いつの間にか、姿を夜闇に溶かしてしまった。
朝倉は、自分だけ逃げ延びようとする卑劣な人間ではない。
絶対に宣言通り、助けを呼んできてくれるはず。
そう信じて健太は、手を繋いだまま朱里を追い抜き、先頭を走った。
とにかく朝倉の言う通り、町の中心へと逃れるのだ。
忠告通りに動かないと、朝倉が助けを連れてきた時、巡り会えなくなるかもしれない。
健太と朱里は、渾身の力で走り続けて、辰原町でも一番の大通りである倉敷通りに辿り着いた。
道なりに北上すれば、辰原町の中心地まで一直線で行ける。
夕食時の帰宅ラッシュという事もあり、多くの人々や車が通りを行き交っていた。
歩道を駆ける健太と朱里に迫る灰色の煤の異形を前に、すれ違う人々は、悲鳴を上げ、驚愕を露わに逃げ惑っている。
灰色の煤は、今のところ健太以外に関心を示している様子はないが、いつ町の人々に寄生をするか分からない。
「だめだ」
想像以上に人が多い。
「町に居たら他の人達が」
ここで灰色の煤が寄生を始めてしまったら、何人が犠牲になるか、健太には想像もつかなかった。
町の人に犠牲を出す前に、どうにかして怪物の進行を止めなければならない。
まず思い浮かぶのは、七百年前のように母体を殺す事。
統率の取れた行動をする今の灰色の煤には、母体が存在している。
新しい母体が誕生し、それが群れを統率していると考えるべきだろう。
ならば母体を見つけ出し、これを叩くのは一番の解決策だ。
しかし、とても容易な事ではない。
億か、あるいは兆に及ぶ無数の煤の中から、母体を探し当てるのは不可能と言っていい。
となると、必然的にもう一つの選択肢を取らざる得なくなってくる。
「俺が死ねば――」
「それじゃ解決にならない!」
朱里の一括が萎れかけていた健太を奮い立たせようとしてくれる。
「あなたの魂が呼び寄せた物なら因果を断ち切らない限り、あれは消えない! しっかりして!!」
きっとこれは報いなのだ。
安易な答えに逃げようとしたから、安易な答えがこうして姿を成したのだ。
断たねばならない。
呼び寄せてしまった以上、健太がこれを断たなければならない。
「分かった……あれをやっつけないと」
灰色の煤が何者かも分からなかった七百年前とは違う。
佐久間家の調査によって灰色の煤が寄生虫的な生態を持つ生物である事は解明されている。
生物である以上、生体活動という概念を持っている以上、殺せるという事だ。
「どうにかしてやっつけないと……」
一つの母体を特定して殺すのは、不可能でも、一度に大量の煤を殺す事が出来ればいずれは母体をも殺せるかもしれない。
ならば面で攻撃すれば可能性はある。
健太は、朱里の手を振り解き、立ち止まると、迫り来る煤を指差した。
「朱里! あいつを魔法で吹き飛ばしてくれ! 母体は分からないから、なるだけ多くを!」
「分かった!」
朱里が眼前に迫る灰色の煤に両の掌を向けて力を込めると、収束された大気が弾頭のように放たれた。
強烈な破裂音を伴って飛翔する砲弾の直撃に、一纏まりの渦だった灰色の煤は、空中で散り散りになる。
――殺せた?
しかし散らばった粒は、寄り集まっていき、再び巨大な灰色の渦を象ろうとしている。
「そんな……」
渾身の一撃が通用しなかった朱里の落胆は大きい。
健太としても、これほど効果が薄いのは予想外であった。
だが立ち止まる訳には、いかない。
因果を断つと決めた以上、呼び寄せてしまった悪意を討つ義務が健太にはある。
健太は、朱里の手を引いて町の中心を目指して大通りを北へ向かって走り出した。
幸いな事に、まだ再生には時間がかかるらしく、灰色の煤は動き出していない。
少しでも遠くへ逃げれば、多少なりとも時間を稼げるし、対抗するための策を考えなければならなかった。
どんなに不可思議に見えても、あれは生物だ。
人間の体内に巣食う寄生虫的な性質。
食料となる青い果実を作り出し、その上で繁殖する。
あれが一個じゃなくて群れの集合体。
あのどこかに母体が居る。その母体さえ倒せば子は、生きていけない。
問題は、朱里の魔法が連射の効く代物ではないという事。
あの大群に消耗戦を仕掛けても押し潰されるのは、こちら側だ。
考えろ。
考えろ。
兆の軍勢の中からたった一つの母体を見つけなければならない。
まもなく十六年を迎える人生の中で、思考を最高速度でフル稼働させる。
刹那、健太の視界に影が差しこんでくる。
咄嗟に見上げると、青いセダンが一台、宙を舞っていた。
――どうして車が?
灰色の煤の散らばった一部が路上に止まっていた車を健太に投げつけたのだ。
――間に合わない?
咄嗟の事で健太の肉体は、回避行動に対応出来ず、自身に迫る車体を目で追い続ける事しか出来なかった。
――死ぬ?
避けきれない。
その直感と同時に、健太の真横から衝撃が襲った。
朱里が車の放物線上から健太を突き飛ばしたのである。
しかし健太を庇った朱里に避ける時間は、残されておらず――
「朱里!!」
降り注いできた車の直撃に朱里の身体は、ゴムボールのように跳ね飛びながら地面に叩きつけられた。
健太が駆け寄り、抱き起すが、その身体には、いつもの弾けるような元気も、溢れるような力強さもない。
「朱里。おい」
呼びかけても応答はない。
口元に耳を近づけると細く呼吸はしている。
擦り傷だらけではあるが、大量の出血などは見られないし、体温も下がってはいない。
だが動かせる状態じゃないのは、素人目にも明らかだ。
灰色の煤の目的は、あくまで健太のはず。
ここに置いていけば朱里は、助かるかもしれない。
とにかく遠くへ誘き寄せようと決意したその時、
「ケンちゃん?」
この修羅場に似つかわしくない温かな声がした。




