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8月11日 ~嫌悪~

 ――自分がここに居る意味は何だったのだろうか?


 朱里の問い掛けに答える者は、誰も居なかった。

 力が及ばなかった。

 奇跡を起こせなかった。

 人一人の力で救えるのなら、とっくに健太の魂は、救われていただろう。

 十五歳の小娘に出来る事なんて初めからなかったのかもしれない。

 それでも救いたいと願ってしまった。

 出来ると思い込んでしまった。


「朱里」


 沈み込んだ声に呼ばれて振り返ると、健太が居心地悪そうに立っていた。


「あのさ」

「来ないで」


 歩み寄ろうとする健太を制して、朱里は背を向けた。


「今は一緒に居たくない」


 朱里の心根からの吐露だった。

 彼女の抱く戸惑いと、嫌悪が健太の心中にも浸透してくる。

 朱里の期待を裏切ってしまった自覚が、より一層健太を締め付けた。


 ――俺はどうすればいい?


 健太の自問に答える者は、居なかった。

 答えられるのは、一人しかいないのだから。

 尋ねるべきは、どうすればよいかではない。

 

 ――どうしたい?

 

 彼女を悲しませる事だけはしたくない。

 

 ――だから。


「嘘、つくなよ」

「嘘なんて!」


 朱里が何を望んでいるか、彼女は、ずっとその答えを口にし続けてきた。

 もしかしたら自惚れかもしれないが、それでもよかった。

 今日まで守ってくれた朱里に対して健太が出来る事は、朱里の願いをんでやる事だけだった。


「俺には、嘘つかないんだろ?」

「嘘じゃない!」

「俺と一緒に居たくないなんてウソだろ?」

「勝手な事ばっかり言わないで!!」


 健太は、渾身の力で地面を蹴り、朱里が逃れる隙を与えずに、華奢な身体を抱きしめた。

 朱里の両手は、健太を引き剥がそうと懸命に動いている。

 しかし健太は、朱里を離さないようにあらんかぎりの力を腕に込めた。

 きっと朱里は、痛い思いをしている。

 それでも力を緩める事はしなかった。

 この腕を離してしまえば、もう二度と朱里の傍に居る事を許されない気がしたから。


「勝手な事……」


 健太の腕の中で朱里の抵抗が徐々に弱くなっていく。


「ばっかりしないで」


 朱里は暴れる事をやめて、健太の顔を見上げてくる。

 こういう時、どんな表情浮かべればいいのか分からなかった。

 しかし、すぐに気が付かされる。

 笑いも、怒りも、悲しみもいらない。

 相手が望む感情を作るのではなく、正直になればいい。

 今の健太は、ぐちゃぐちゃだ。

 自分の選ぶべき選択や感情を上手く整理する事が出来ない。

 それでもたった一つだけぶれていない想いがある。




 阿澄朱里と一緒に居たい。




 だから柔らかな身体を抱きしめる両腕へ素直な気持ちを乗せた。

 すると朱里の頬は、仄かに紅潮し、先ほどまで支配的だった黒い感情は、どこかへと消え去っている。


 ――ここから先どうすればいいんだろう?


 言葉を間違えると、また怒らせてしまいそうで怖かった。

 けれど、どう選択するのかの答えは、まだ出せていない。


「なぁ」


 ――それなら。


「来世の俺ってどんな奴?」


 話をしよう。

 他愛がなくとも、意味がなくとも、馬鹿な話でも、なんでもよかった。

 気持ちを少しでも整理したいから、色々な事を話してみたい。

 一番聞きたいのは、自分の来世がどういう人間だったか。

 時間が差し迫った状況なのに悠長だし、あえてこの場で聞くような事ではないと分かっていたが、聞かずにはいられなかった。

 唐突な健太の質問に、朱里は、暫し沈黙してから額を健太の胸に預け、


「少し大人しいけど、根本は同じ人って感じ」


 心臓に声を注ぎ込むように言った。

 声を一つ一つ発する毎に、シャツ越しに感じる朱里の吐息が健太の熱を抑え難くする。


「そっか」


 呟きながら健太は、彼女の耳元で囁いた。


「生まれ変わっても俺は俺ってわけか?」

「うん」


 朱里は頷くと、健太の耳元に顔を寄せ、呼気と共に鼓膜を震わせる。


「うん……そうだよ」

「キスはした?」

「うん。キスだけ。それ以上はしてない」

「そっか」

「うん」

「記憶ってあったのかな。前世の。よく言うじゃん。そういうのあるって」

「なかった。彼とは幼馴染だったけど、そういう経験はなかった。でも不思議」

「何が?」


 朱里は、健太の耳元から顔を離すと、まっすぐに視線を合わせて、はにかんだ。


「会って最初の頃は、彼と全然似てないと思ったの。顔も声も」

「期待を裏切ってごめんな」

「違うの。そうじゃなくて!」


 慌てた様子で朱里は、首を左右に振り、


「そうじゃなくて。あなたは、彼とは違う人だけど――」


 ――だけど、何?


「健太くんの事も、同じように大切な人になった」


 ――ありがとう。


「最初は、あなたの中に、あの人の魂を見てたけど、今はそうじゃない」


 桐嶋健太の人生において、


「あなたを……桐嶋健太を見てる」


 こんなに嬉しい言葉はない。

 朱里の健太に対する感情は、恋とは違う。

 きっと、もっと強い気持ち。


「だからあなたの魂を因果から解き放ちたい」


 腕を通して伝わる朱里の体温が上がっていく。

 朱里は、健太の胸に額を預けた。


「最初はね。あなたを助ければ彼が生き返るんじゃないかって期待もあった。でも今はそうじゃない。ごめん。私もよく分からなくて」


 健太は、困惑に震える朱里の身体を抱き締めた。


「いいんだよ」


 逃げられないように懸命だった先程とは違い、今度はガラスのように脆い少女の想いを壊してしまわないように。




 ――俺だって分からない事がたくさんあるけど。




 朱里のふわふわと空気を含んだ髪を撫で、




 ――君を悲しませる事だけはしたくない。




 気持ちがちゃんと伝わるように。

 願いを込めながら朱里を力一杯抱き締めた。

 この想いがどうか、君の心に微かでも安らぎを与えてほしいと。

 そして自分自身を救いたいと願えるように。


「俺も、まだ答えを出せてないけど――」


 健太が死を選ぼうとする気持ちが魂の因果によるものなら、生きたいと思うのは健太に流れる異国の男の血の呪いかもしれない。

 あるいはどちらの思いも、桐嶋健太という一個の人間が十六年近い歳月をかけて作り上げてきた人格からかもしれない。

 しかし団蔵が言うように、たとえどんな影響を受けていようと、最後に決めるのは、健太の意志だ。


「今までの俺が見てこられなかった十六歳より先の世界を、見たい……いや見せてやりたいとも思ってるんだ」

「誰に?」

「俺自身。そして俺の魂に」


 朱里のためにも、その道を選びたい。

 それでも考えてしまうのは辰原の事だ。


「でも街を犠牲にはしたくない」


 大好きなこの町が自分の犠牲で成り立っているなら、それが役目ならやはり逃げたくはない。

 自分が生き延びても辰原が死んでしまうなら――


「怖いんだ」

「怖い? 何が怖いの?」

「もしも俺が生きる事を選んだら、この町に注がれる豊穣の血が途絶えたら、この町はどうなるんだろうって」


 今まで健太が目にしてきた物は、健太が常識と思っていた全てを粉々に壊してきた。

 阿澄朱里。

 友の墓を守る竜。

 辰原の災。

 灰色の煤。

 狂気の異国人。

 喰らわれた英雄。

 これらの存在全てが証明しているのだ。

 健太の因果と辰原の繁栄の関係性を。


「いろんな奇跡を起こせる町だ。俺たちはそれをずっと見てきた。もしも血が途絶えたらどんな影響が出るか計り知れない」


 自分の常識が壊れてしまうだけならいい。

 だが辰原に暮らす三万の人々に関わる事ならば、安易に一人の意志で決める事は罪ではないか?

 そう思えてしまうのだ。


「怖いんだ。どんな事が起こるか」

「でも見てみたいとは思わない? 十五歳よりも先の世界を」


 見てみたい。

 叶うのならば、その先の世界を。

 どちらにしても、もう時間はない。

 今日がこのまま無事に終わってくれるなら誕生日まで残すは明日だけだ。


「明日までに決めないとな」


 泣いても笑っても明日が最後だ。

 明日を生き延びるか、そう出来ないのかで全てが決まる。

 まだどうするかを決めきれてはいないが、確実に言える事がある。


「どんな結果になっても俺、後悔だけはしたくない。違うな。俺、後悔しないよ。何があっても。朱里に出会えただけで十分だ」


 これだけは変わりようのないたった一つの想い。


「私もあなたに出会えてよかった」


 きっとこれだけは何があっても変わらない。変えたくない。

 そう願いながら抱き締めていた朱里と身体を離した瞬間、冷たい汚泥のような不快感が健太の胸を貫いた。


 ――なんだ!?


 咄嗟に健太が見やったのは、辰原神社のある方角だ。

 そこから健太に向けて、耐え難い何かが注ぎ込まれている。


 殺気。


 敵意。


 憎悪。


 人生でこれらの感情を向けられた経験はないが、いずれでもないと断言出来た。

 人間という種のもっとも深層の部分を嫌悪で激しく振るわせる何か。


「神社から何か感じる」

「健太くん?」


 きっと魂を縛る因果に関する事だと、健太は悟った。

 健太の生存に深く関係する何かが辰原神社にある。


 ――行かなくては。


「健太くん!?」


 朱里の制止を振り切って、直感に導かれるまま健太は、辰原神社を目指して走り出していた。

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