8月11日 ～700年前の真実です～
七百年前、薄汚いボロを纏った異人の男が辰原の村を訪れた。
「行く場所がないのです。ここに置いてはもらえませんでしょうか?」
雪のように白い肌と空のように蒼い目をした彼は、日本の言葉をこの国で生まれ育ったかのように流暢に操った。
村の者は願いを聞き届けつつも、最初は、距離を置いていたが、ぞっとするような男の美しさと、人懐っこい好意的な態度で、一家がつもすると村に溶け込んでいた。。
しかし彼には、一つだけ変わった癖がある。
毎夜、深更の頃になると、村の外れで一人、念仏のように何かを唱え始めるのだ。
時には異国の言葉で、時には日本の言葉で。
「混沌の精よ。遍く目玉よ。深淵の汚泥よ。来りて今。来りて今。かの地に。かの地に。根源を開け。開け。開け。アツムトよ。来りて来りて」
村人に「なにをしているのか?」と尋ねられた時、彼は、決まってこう言った。
「故郷の神に祈りを捧げているのさ」
「どんな神なんだい?」
「竜さ」
竜神信仰の盛んな辰原の村人は、自分たち同様の強い信仰を持つ彼をますます気に入り、深夜の奇行を咎める声は、減っていった。
彼が村を訪れてより数年後、辰原にある異変が起こった。
男が毎晩祈っている場所に、小さな穴が開いていたのである。
彼の掘った穴だと村人たちは思っていたが、その穴を覗いても底は見えない。
深淵がどこまで続き、見つめ続けていると、奥底から漂う気配に飲み込まれそうになる。
気味悪がる者も少なからず居たが、これも男の故郷に伝わる信仰なのだろうと、気にも留めないものが次第に増えていった。
やがて村の誰も穴の事を話題にしなくなると、穴は、より深く、より広く、日に日に大きさを増した。
そして最初に穴が出来た三ヶ月後、男が辰原に住みついてから七年が経った頃、村の外れに大きな虚穴が開き、そこから膨大な量の灰色の煤が渦巻きながら躍り出たのだ。
煤という無機物に見えながら、尋常ならざる莫大な生命力を持つ。
個であり、群であり、脅威であり、頂点。
人類の叡智では読解し得ない規格外。
生物という概念からの逸脱。
当時の人々からすれば、神と呼ぶ以外なく、あるいは二十一世紀ですら、紛う事なき神であろう。
灰色の煤は、中空でうねりながら辰原に広がり、村人たちの鼻腔を通って体内に巣食ったのである。
この生物は、人類が知り得る生物で例えるなら群体で動く寄生虫と呼ぶべきもので、佐久間家に伝わる書物から推測するに、無数の小さな子と、それよりわずかに大きい母体が存在すると思われる。
母体は、子を他の生物に寄生させ、子は、母体の指示通りに寄生した宿主を操り、母体に奉仕させるらしい。
宿主を操る寄生虫としては、かたつむりに寄生するロイコクロリディウムなどが居り、これらに近い生態でありながら人間を宿主にすると考えていい。
煤状の小さな子から逃れられた村人は僅かで、煤を吸い込んだ者は、全員が異人の男の言いなりとなった。
惨事を前に助かった者は、ようやく気付かされたのだ。
異国の男が求めていたのは、安住の地ではなく、贄となるべき場所なのだと。
男は、どのような方法でかは定かではないが、自身に母体を取り込み、自分の意志通りに操ったのだろう。
灰色の煤の母体を宿主として、男が寄生したと言うべきか。
当時書かれた資料によれば若い女は、皆男の物となり、それ以外の村人は、奴隷のような労働を強いられ、怪我や病気になった者は、容赦なく殺されていったという。
そして殺された村人たちの肉を異国の男を始めとし、村の全員が喰らっていた。
煤に寄生された村人は、それ以外の食べ物は受け付けず、村人の主食は、役に立たなくなった村人だった。
親や兄弟、時には自身の子供ですら、躊躇なく食べるのだ。
肉を喰らい尽くせば骨を、それも無くなったら地面に落ちた血糊を。
やがて人肉を喰った村人たちの糞は、辰原の土を腐らせ、至る所から青い果実の成る木が生えてきた。
青い果実が成ると異国の男も村人たちも、人肉を喰らう事は止め、今度はこの果実を喰らい始める。
やはりこれ以外の食べ物は受け付けず、灰色の煤に寄生された者たちは、青い果実なしに生きられなくなっていた。
この頃になると異国の男は、自身を「王」と呼び、凶暴さに拍車がかかっていく。
村中の女は、おろか、子供ですら犯し、老人は、余興のための玩具となり、若い女は、皆が男の子を孕んだ。
煤を吸い込まなかった極一部の村人たちは、地獄のような暮らしに耐え切れず逃げるか、元凶である男を殺そうとした。
しかし逃げた者も、立ち向かった者も、皆その日の内に青い果実の肥料となったという。
男の支配から数年が過ぎ、煤を吸っていない村人の生き残り村人は、一人の青年だけになる。
これが後に佐久間を名乗る家の長男であり、元々辰原の村長を務めていた一家でもあった。
彼は、煤を吸い込んだ人間のふりをして生き延び、機会を待っていた。
ある日の夕刻、青年は、異国の男の住む元村長の家に、夕食用の青い果実の運び役を任された。
男は、昼間から酒を飲んで泥酔しており、普段は女を必ず二人か三人置いているのだが、それも居ない。
二人きりとなった絶好の好機を青年は、逃がさなかった。
青年は、狩りを得意としており、弓の名手であったという。
異国の男に支配された直後から何時か使う時が来ると、床下に隠していた弓矢を使い、青年は、男の喉笛を射抜いた。
ちなみにこの弓矢は、現存し、今でも佐久間家が保管している。
青年は、殺した男の血の一滴も残さず喰らい尽くすと、青い果実の成る木を全て切り倒した。
恐らく彼は、気付いていたのだろう。
異国の男の体内に、村人を操る灰色の煤の母体が居る事を。
灰色の煤が生きていくために、青い果実が必要である事を。
唯一の食糧を失った村人たちに、青年は、自らの肉を喰らわせた。
青年が母体を取り込んだ事で、村人たちに自分を食べるように指示を出したのか。
それとも食欲という人の三大欲求が、極限の飢餓を経験する事で煤の支配を逸脱したのか。
生き残った村人は、一人余さず青年の肉を喰らい、彼から零れ落ちた血が大地に浸透していくと、腐り落ちた土が元に戻っていったという。
村人たちは、正気に返り、青年を喰らってしまった事実に消えぬ後悔を背負っていく事となったが、青年は、村人たちに遺言の手紙を残していた。
『自分の遺骨を大虚に埋め、墓にしてほしい』
村人たちは、青年の遺言の通り、大虚を埋め立てて――何故か発生直後よりも、深くはなくなっていらしく、数日ほどで埋め立てられた――墓を作ると、そこを中心として実りがうねるように村中へ広がっていった。
それ以降、辰原では、青年と同じ歳の頃、若くして亡くなる者が現れ始めた。
彼らは、青年の生まれ変わりであるとされ、竜神と共に強く信仰されたという。
そして私もまた、その少年と出会ってしまった。
意外にもそれは、あの異国の男の血をもっとも特に濃く引く桐嶋家に生まれたのだ。
重蔵さんと玲子さんは、元を辿ると、どちらも異国の男の直系である。
重蔵さんの家は、最初の男に孕まされた女の。
玲子さんは、最後に孕まされた女の。
けれど二人とも、とても気持ちの良い好人物であり、二人の息子である健太くんも、私にとっては、舞香の実の兄弟に思える程可愛い。
何故あんな良い子が過酷な因果を背負わなければならないのか?
あんなに素晴らしい家族が因果に選ばれてしまったのか。
せめて愛娘が彼の心を癒し、願わくば、彼の血がこの町で生き続けるように願うほかない。
