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8月10日 ~遠くて近い未来のお話です~

「なんで……」


 針のように細い雨が降る下で、朱里は、真新しい墓石の前に膝から崩れて落ちていた。


「ずっと一緒って言ったのに……」


 彼が亡くなってから二ヶ月。

 学校が終わると、必ず彼の墓に立ち寄り、日が暮れるまで泣き続ける。

 朱里が何をしても、帰ってこないという事は分かっている。

 無意味と理解していても、やめる事が許されない気がしていた。



「なんであなたが?」


 辰原には、都市伝説があった。

 一定の周期で十六歳を迎える事なく死んでゆく少年少女が現れるという。

 インチキだと思って信じていなかったが、彼が亡くなり、朱里の脳裏を閃光のように都市伝説の事が過った。

 図書館で新聞の死亡記事をあさり、都市伝説が80年前の桐嶋健太と言う少年が犠牲になった頃から始まった事と、辰原に住む15歳の少年少女が何人も亡くなっている事を知った。

 桐嶋健太の事を知った朱里は、驚愕させられる。

 最愛の彼と図書館を訪れた時、


『あれ?』

『どうしたの?」

『あの写真、あなたに似てない?』

『えー全然だよ』

『そうかな? うん。確かに顔は似てないけど雰囲気が似てるような』


 図書館の成り立ちを説明するためのコーナーのガラスケースに入れられた写真や資料。

 その中の一枚、少年が写っている写真に朱里は、奇妙な程、惹かれた。

 愛する人と全くの別人なのに、同じ人を眺めているように安らいだ。

 この写真に写っていた少年が都市伝説の桐嶋健太であり、愛する人もまた彼と同じ運命を辿っている。


 偶然と断じる事が出来るだろうか?


 何かの悪意がこの辰原に渦巻いているのではないか?


 不条理にいきどおり、理不尽を許さないのは人の道理だ。

 何故最愛の人を奪われ、それを受け入れなければならないのか?

 なのに、周りの人たちは、割り切ってしまっているように告げてくる。




「同じようないい出会いがある」




「君は若いんだから」




「嬉しいけど、あなたには長い人生があるんだから。息子の事は、忘れていいのよ」




 なんでみんな残酷な事を言うのだろう。

 なんで割り切れてしまうのだろう。

 最愛の人との別れを若いとか、仕方ないとかいう理由で、片付けたくない。

 胸に巣食った悲哀の群れを納得させる事は出来なかった。


「もう帰りなさい」


 慈愛の染み込んだ声が、雨と共に朱里へしみ込んでくる。

 彼のお墓がある寺の住職だった。

 優しい目をした壮年の男性で毎日墓参りに訪れる朱里に、日が暮れてくると必ず声を掛けてくれる。


「悲しんでくれるのは、亡くなった方にとって供養になります。でもあまり悲しんでばかりだと、こちらに未練が残ってしまうよ」


 たとえ幽霊でも夢枕でも、彼と出会えるならそれでいい。

 彼に会えさえすればいいと思うのは身勝手だろうか。

 いや、身勝手でも構わない。

 修羅の炎に焼かれ続けるような日々を漫然と過ごすだけでは、阿澄朱里を構成する要素はことごとく壊れてしまう。

 わがままを貫くか、いっそ全部壊れて分からくなってしまえばいい。


「悲しむ事も大切ですが、笑顔の思い出こそが一番の大切だと思いますよ」


 住職は、朱里の肩に手を置いた。

 お香の匂いと掌の温もりが冷え切った身体に微かな安堵を与え、散り散りになりかけたものを繋ぎ止めてくれる。


「今日はお帰りなさい。ここに居ては彼も心配でしょう」


 朱里は、住職の提案に、素直に従う事にした。

 わがままを言って無理に居座れば、出入りを禁止されてしまうかもしれない。

 もしもそうなったら、彼と二度も別れる事になったら、きっと生きていく事は出来ない。

 だから傍に居たい想いを殺して朱里は、寺を後にし、夜の山道を下っていく。

 山道と言っても低い山だから、傾斜はなだらかで舗装もされているし、街灯も多い。

 町の中心地までゆっくり歩いても三十分ほどで着いてしまう。そのはずなのに朱里は、いつの間にか舗装されていない土の上を歩いていた。


 街灯の代わりに大樹が生い茂り、頼りになるのは雨雲の切れ間から微かに落ちてくる月明かりだけ。

 道なりに歩いていただけのはずなのに。

 明らかに尋常の範疇を超えているが、夢であるという自覚はない。

 胸の痛みは、相も変わらずだから、きっとこれは現実である。

 現実であると認識しても、朱里に恐怖の感情は、浮かんでこない。

 恐れをなくしたのではなく、恐れる必要がないように思えたのだ。


 ふと、もしかしたら、もう家には帰れないかもしれない。そんな予感に支配された。

 だがそれも悪くはないと思ってしまう。

 育ててくれた養父母には申し訳ないが、このまま歩いていけば黄泉へも辿り着けそうで、そうしたら彼が待ってくれている気がする。

 迎えに来てくれているかもしれない。

 またあの人に出会えるのなら、阿澄朱里が持つ全てを手放しても惜しくはなかった。


 彼と過ごした時間は、後悔ばかりである。

 ずっと一緒に居たのに、幼い頃から愛し合っていたはずなのに、まだ口付けしか交わしていない。

 彼にしてあげたい事や与えたいものがたくさんある。

 してほしい事や与えてほしいものがたくさんある。

 



 彼に会えたら。



 

 彼に会いたい。

 



 彼に会わせて。



 

 一歩一歩に願いを込めて、脛で露の染みた草を掻き分けながら森の中を歩き続けると、朱里は開けた草原に出た。

 先ほどまで降っていた雨は止み、足元の草むらは、先程までと違い、雨露で濡れておらず、さらさらと微風そよかぜに乗って泳いでいる。

 空を覆っていた雨雲は消え失せ、月が一つ煌々《こうこう》と照っていた。

 周りの星明りすら掻き消す程の光は、直視すると目が焼けそうに痛かった。

 こんな場所は、辰原にはなかったはず。

 知らない場所なのに、落ち着いてしまっている自分が居る。


「いいところ……」


『君も墓参りかね』


 重い鐘の響きのような声が朱里を突き抜けた。

 ほんの数瞬前まで今まで何もなかった、居なかったはずなのに、今朱里の眼前で巨大な竜がとぐろを巻いている。


『人が来るとは珍しい事もある物だな』


 大木のように太い胴と、獣と爬虫類を掛け合わせたような顔立ちをしている。

よく絵で見る竜の姿そのものだ。

 白い身体は、淡い金色の光を纏い、月明かりすら、霞む甘美な色が瞳を楽しませてくれた。

 夢想の如き光景ながら朱里は、これが現実であると認識していた。

 竜を前に、朱里は、恐怖を感じない。

 畏怖はあったが、同時に親しみを覚えていた。


「あなたは?」

『ここを守っておるだけさ』


 竜の深紅のまなこが視線を落とす。

 朱里が目で追うと、そこには小さな石がいくつか積み上げられていた。

 彼の言う墓参りとは、子供が手作りしたような、細やかなそれに対してだろうと、朱里は察した。


『しかし珍しい。本当に珍しい。少し話をせんか。わしは退屈でね』

「ええ。かまいませんよ」


 朱里が頷くと、竜は喉を鳴らしてから首を伸ばし、目線を朱里と合わせてきた。


『名前は?』

「阿澄朱里です」

『そうか。やはりな』

「やはり?」


 どこかで出会っている?

 だから、この竜を恐ろしいと思わないのか?

 だが生憎、竜と出会うなんて超常的な体験は今日以外していないし、以前にあれば忘れないはずだ。

 ならば、この安堵と親しみは何処から湧いてくるのだろう。

 そんな考察の間もなく、竜が訪ねてきた。


『恋人を亡くしたか?』


 どうして知っているの? と、尋ねる事に意味はない。

 きっとこの竜は、全てを知っている。あるいは見通している

 認めたくない事実を突き付けられたが、いつものように傷心を抉られる感覚はない。


「はい」

『そうか』


 竜から放たれた荘厳な音が大気に染み渡る。

 同情なんて受けたくないと思っていたが、彼のは、むしろ心地が良く、逆立っていた精神が撫でられていく。


『辛かったろうに』

「今は、少し落ち着きました」

『そうか』


 朱里は、改め自分の置かれている状況の奇怪さを思い知る。

 何時の間にか、見知らぬ草原に迷い込んでいたのも不思議だが、竜と向かい合って話したなんて人に言ったら恋人を亡くしたショックで精神を病んだと思われても仕方がない。

 だが朱里は、自分の経験しているこの状況を不自然とは感じていなかった。

 むしろこの気さくな神か、あるいは怪物の事をもっと知りたいとすら願っている。


「あなたはここで何を?」

『友を悼んでおる』

「竜ですか?」

『いや。人だよ』

「そうですか」


 あの小さな墓石の下に眠っている竜の大切は、どんな人だったのだろう?

 伝説の存在に友と言わしめるのだから、よほど誠実な人柄だったのかもしれない。

 竜の存在を誰にも公言せず、ずっと胸にしまい続けていたからこそ、彼の存在が人類に露見してこなかったのだ。


 人間に見つかってしまえば、きっとひどい事をされていたのだろう。

 希少生物の保護を名目に、檻に閉じ込めて、見世物にされる。

 あげくには生態調査の名目で実験動物扱いされるはず。

 竜の友人が口を噤み続けたからこそ、彼はこうしてここに居て、友を悼む事が出来るのだ。


 どんな人だったのだろう?

 決まっている。

 きっと優しい人だった。

 あの人のように――


『救いたいと願った事は?』

「え?」

『恋人を救いたいと思った事は?』


 竜の言葉に、朱里は茫然とした。

 今まで誰も聞いてこなかった、だけど、いちばん聞いてほしい言葉だったから。


「毎日、思います」

『どんな事でも――』


 自分の持てる全てを犠牲にしてもいい。

 あの人を救えるのなら、それだけの価値はあるから。


「出来ます」


 即答以外を選択する余地などない。


『なら挑戦するかね』

「挑戦?」

『こんなものが目の前に居るんだ。そう出来てもおかしくはないだろう?』


 甘い誘惑なのかもしれない。

 騙されているのかもしれない。

 しかし伝説上の存在が目の前に居て、言葉を交わしている。

 願いを叶える機会をくれると言っている。

 持てる全てを捧げるのだとしても、今の朱里には、分の良すぎる賭けだった。


「どうすればいいの?」

『過去へ行きなさい。そこに答えがある』

「過去に?」


 彼が亡くなる直前に赴き、救えという事だろうか?

 だが竜の口振りから、そうではないと朱里は察していた。

 恐らくもっと以前、もっと過去の話。


『そのための力も授けよう』

「どんな?」

『手っ取り早く魔法と呼ぶとしよう』


 竜が居るのだから魔法があっても問題はないのかもしれない。しれないが、いざ聞き知った言葉にされると、途端に稚拙ちせつに思えてきてしまう。


「あの、なんか、一気に胡散臭さが」

『まぁ……そう言いなさるな。超能力よりはマシだろう』

「どっちもどっちのような」

『ううむ……』


 竜も言葉に詰まった様子で胡散臭い自覚はあるのだろう。咳払いをしてから、気を取り直したように朱里と視線を合わせてきた。

 その瞳の奥には、今までの親しみ易さとは違った光が渦巻いている。


『ただしこれは身を削る力だ』


 相応の犠牲を払う覚悟があるのかい?

 そう尋ねている瞳の光。

 けれど朱里の答えは決まっていた。


「覚悟はあります」


 例え精神が壊れようとも、四肢がもがれようとも構わない。

 今、朱里の置かれている状況以上の苦痛があるはずもないのだから。


『覚悟は認めよう。だが彼を救うには期限もある』

「期限?」

『彼が十六歳になる日まで守り続けねばならん』

「彼って……」


 ――あの人の事?


『お前の亡くなった恋人ではない』


 ――やっぱり。


『彼を救う事は出来ない』


 ――じゃあ誰を?


『だが彼の前世を二〇一六年八月十三日まで守る事で、彼等の魂を救えるのだよ』

「魂?」

『彼あるいは、彼女は、因果によって、辰原という町に囚われている。その因果を断ち切る以外に、彼の魂を救う道はない』

「因果って、なんですか?」

『詳しくは教えられん。知りすぎる事で、彼を救えなくなるかもしれん』

「知らずにどうやって?」

『お嬢さんの知る都市伝説に絡むという事だけは、確かだ』


 理由は、定かではないが、これが竜の与えられる精一杯のヒントなのだろう。

 後は、朱里自身で調べるより他にないし、朱里の力で乗り越えるしかない。

 そもそも彼本人を救えるわけではないという今回の提案を朱里が受けるのか、どうかである。

 彼と同じ魂であるとは言え、朱里にとっては全く面識のない人間だ。

 赤の他人を救うために、全てを投げ出すのか否か。


「彼は、もう帰らないんですね?」

『そうだ。君の知っている彼を助ける事は出来ない』


 輪廻の中で最愛の人の魂が天寿を全うする事なく死に続ける。

 今までも自分と同じ思いをしてきた人が居て、これからも同じ思いをする人が現れ続ける。

 朱里の愛した彼を救う手だてはない。

 しかし彼の魂を救う事が出来るなら――。


『どうする? それでもやるかね』


 もう彼は帰ってこないけど、それでも泣き暮らすよりはいい。

 未来のために出来る事があり、その機会を与えられたのなら。


「やります。泣いて過ごすより、たとえ魂だけでも彼を救うために時間を使いたい」


 決意表明と同時に竜が口を開き、輝く白い牙を剥き出しにする。

 恐怖はなかった。

 食べようとか、噛み殺そうとしているのではないと分かったからだ。

 その核心通り、竜の喉の奥から拳大の蒼い光の珠が、朱里の元へ蝶のように舞い飛んでくる。

 朱里が迎えるように両手を伸ばすと光は、右手の人差し指の先に止まり、刹那、指先から堪えがたい熱が流れ込んできた。

 怯みそうになるも、歯を食いしばり、堪えていると、熱の流入と比例するように光の珠が萎んでいく。


『ならば行きなさい。ただし忠告がある』

「忠告?」

『因果を断ち切るためといえ、真実を知り過ぎん事。お嬢さんが過去に来た経緯や、わしとの事をあまり詳しく彼に話さん事だ』

「どうして?」

『彼を救えなくなる』

「なぜ?」

『きっと全ての真実を知れば、彼は死を選ぶだろうからな……』


 夥しい熱量に目が眩み、視界が暗くなっていく。

 それからどれほどの時間がたったのだろう。

 ようやく体内を走る熱の奔流が収まった所で、朱里が瞼を開けると、鬱陶しいぐらい照りつける朝の陽光が網膜を焦がしてくる。

 周りの景色を見回してみると、街灯の数が少なく、彼のお墓がある寺からの帰り道である山道だった。

 街灯の数が少なく、道路の舗装も真新しい。


 一晩でこれほど景色が変わる事があり得るのだろうか?

 朱里は、山道を駆け上って、確かめたい事があった。

 寺の墓地に辿り着いた朱里は、彼の墓石を探してみる。

 あるべきはずの墓石は、形が異なり、全く別の家名が掘られていた。

 念のため墓石を一つ一つ確かめてみるが、どこを探しても見つからない。

 続いて朱里は、寺から山道を一気に駆け下りて、町の様子を確かめた。

 まず向かったのは、自宅だ。

 駅から歩いて十分にあるマンションの二階であるが、


「ない」


 マンションそのものが見当たらず、あるべきはずの場所は、月極の駐車場になっている。

 ここに来るまでの道中の街並みも、朱里の住んでいた辰原とは多くが異なっている。

 もっと背の高い建物が多かったはずで、高層マンションも点在していたが、今ではどれも一軒家やアパートといった背の低い建物ばかりになっている。

 通っていた高校も立地自体は一致しているのだが、校舎の外観がまるで異なっていた。

 眼前にある辰原は、朱里の知る辰原とは異なりすぎている。

 それだけではない。


 ――竜との出会いは夢じゃない。


 断言出来るだけの現実感が胸に残っている。

 ならばここは、過去の辰原だと、断じても良いのではないだろうか。

 あり得るはずのない現象を信じられるに足る材料がそろっている。

 さらに頭の中で声が聞こえるのだ。

 男の声でも女の声でもない。人手もあるかもわからないが声は確かにこう言っている。

 

『願いを想えば、魔法が叶える』


『代わりに、その身を削られる』


『畏れぬならば、振るうがいい』


 朱里は、右手を空に掲げて願った。


 ――この手に風を。


 願うと同時に、掌の中心を目として、微風が寄り集まり、ささやかな風の渦を作り出す。

 しゅるしゅると手の内で擦れ合う風の音が、朱里に尋常外れの奇跡を知らしめた。

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