8月10日 ~いざ進め! サフランのために!~
隣町の大谷町駅前にあるデパートの地下に、目当てのサフランはある。
小袋に入った十グラムぽっちで七千円。
財布にあった今月の小遣いが全て吹き飛んでしまった。
さすがの玲子も買い物代は、返してくれるが、機嫌を損ねたら、その限りではない。
サフランの入ったビニール袋を憎らしげに見つめながら健太は、朱里と共に辰原行きのバスが来るバス停に立っていた。
電車でも辰原に帰る事は出来るが、自宅へ帰るだけならバスを利用した方が安く済む。
「なぁ朱里。なんで黄色い色を付けるだけのこやつは、こんなに高いんだろうな」
「数グラムでも何百何千輪分っていうサフランのめしべが必要なんだって」
「へぇ」
「しかも手摘みなんだってさ」
「そりゃ高いわ――」
健太の感嘆の声を打ち消すように、金属の擦れ合う甲高い音が轟いた。
視界の右端で捉えたのは、バス停の標識をなぎ倒しながら突っ込んでくる青いセダンの姿。
油断していた。
――やばい!
身体は、臨戦態勢を整え切れていない。
――動けない。
――轢き殺される。
――ごめん、朱里。
覚悟を決め、死を受け入れようとした瞬間、健太の身体が突き飛ばされた。
轢かれたのか?
地面に倒れ込みながら疑うが、不思議と身体に痛みはない。
では何が起きたのか?
答えは、健太の視線の先にあった。
朱里が突っ込んでくる車の直線状に立っている。
健太を庇ってくれたのだ。
助けに行こうとするが、身体が動いてくれない。不意に突き飛ばされた上に、地面に倒れ込んでいる格好だ。
今から朱里を助けに行く事は、諦めるしかない。
悔しくも健太には、朱里の無事を祈る以外なかった。
対する朱里は、暴走する車を前に冷静さを失わなかった。
右手を突き出し、車へと念を送る。
とまれ。
とまれ。
だが車が、どれほど念を込めても、その動きを止める事はなく――
「朱里!!」
なんで止まらない?
「大丈夫か!?」
そう叫んだのは、青いセダンを運転していた男だった。
車は、朱里と接触する寸前で止まり、朱里は腰を抜かしたのか、しりもちをついている。
「急にブレーキが利かなくなって。怪我は?」
車から降り、朱里に手を差し出したドライバーを押しのけて健太は、朱里の両肩を掴んだ。
「朱里!! 怪我は!?」
「ないよ……大丈夫」
見た目にも怪我はしていない。
嘘をついているようにも見えないから朱里が無理をしているという事もないだろう。
「よかった……」
健太が安堵したのも束の間、それから先は、朱里の無事を喜ぶ事も、感慨に浸る暇もなかった。
ドライバー自身の通報で駆け付けた警察に、健太と朱里も事情を聞かれ、ようやく解放された時には夜の八時を過ぎていた。
「朱里ちゃんも健太も大丈夫だったのね?」
玲子は、珍しく過保護な母親みたいに戸惑いを露わにし、
「二人とも怪我がなくて本当によかった」
いつもやましい重蔵は、どっしりとした物静かな面持ちで微笑みながら、一言。それ以上は、何もなかった。
健太と朱里が遅い夕食を終えた頃、既に夜の二十二時を回っている。
自室のベッドの上で数時間ぶりに一息つけた健太は、事故の瞬間を思い返していた。
朱里は、健太を突き飛ばし、その後魔法で車を止めようとしていたはず。
だが車は全く止まらず、朱里が轢かれる寸前で、ようやくその動きを止めた。
健太は、来客用の敷布団の上で膝を抱えながら背を向けている朱里を見やる。
「朱里、あの時の車なんだけどさ」
「うん」
「魔法が使えなくなった?」
「……うん」
健太の問いに、朱里は力なく頷いた。
轢かれる寸前に、魔法で車を止めたのではない。
ドライバーがブレーキを踏んだから車は止まったのだ。
身を削る力であるのは理解していたが、今日はまだ一度も魔法を使っていない。
疲れていたから使えなかったとは、考えられなかった。
「回数制限とかあるの? 何日間に何回とか」
「そんなはずはないと思う」
「ゲームだとMPとかあるからさ」
朱里は、勉強机の上に置かれたデジタル時計を指差した。
すると時計は宙を舞い、磁石に引き寄せられるように朱里の手中に納まった。
魔法自体は、使えている。
それならば――
「なんであの時は?」
どうして使えなかったのか?
魔法を使うには、何かの条件が必要なのか?
条件があるとして一番適当なのは、健太の命の危機であろう。
しかし、それがキーならば、あの瞬間、魔法が使えないのは不自然だ。
さらなる問題は、朱里自身が魔法と呼ぶ力について、理解し切れていない事である。
健太の疑問に、明確な答えを朱里は返せていない。
彼女にとっても、この事態は全くの想定外なのだろう。
互いの命にかかわる事だから、これ以上の沈黙を許す訳にはいかない。
「朱里。やっぱ話してくれないか? どうやって過去に来たのか。魔法の力をどうやって身に着けたのか」
「それは……」
「朱里が触れてこなかったから俺も積極的に知ろうとは思わなかった。でも今日みたいな事がまたあったら困る」
「だね。健太くんを守れなかったら」
「じゃなくて! 俺の代わりに朱里が怪我したら大変だろ?」
「私は別に――」
「別にいいとか、どうでもいいとか言ったら怒るからな」
本当にそう言ったら、頭の一つも叩いてやる。
釘を刺すように朱里を凝視していると、彼女は萎れながらも頷いた。
「……うん」
「どうして教えてくれなかったんだ?」
「理由は、二つ」
「二つ?」
「一つは、詳細を話すなって口止めされたらから」
一体、誰に?
尋ねたいところだが、健太は敢えて問いを飲み込んだ。
きっと、もう一つに理由にかかわるのだろう。
「もう一つは?」
「もう一つは……今までの話以上に信じてもらえないと思ったから」
朱里は、今から八十年後の未来を語り始めた。




