8月10日 ~今日の夕ご飯は、大好物です~
朱里と出会ってからの健太は、帰りの道中、常に緊張の糸を張り詰めている。
いつ何時、因果によって襲い来る障害が来ても対応出来るようにと。
しかし今日のそれは、いつもとは違っていた。
普段ならやかましい位に話しかけてくる朱里が、今日に限って妙に大人しい。
から元気な時もあるが、大抵笑っているのに、今ではお気に入りの服に泥を浴びた時みたいに気分が沈み込んでいる。
きっと理由は、佐久間舞香に関する事だ。
「健太君って……」
「俺って?」
「佐久間さんと付き合ってるの?」
――やっぱり。
「同じ質問を佐久間にもされたんだけど」
「そうなんだ」
「モテる男はツラいなぁ!」
わざとらしく照れてみせたが、朱里からの反応はない。
怒ってはいない。
けれど、笑ってもいない。
どんな感情を向ければいいのか、分からずに、虚無を剥き出しにするより他にない。
今の朱里の心情は、並の女心よりも、複雑怪奇に入り組んでいる。
だから、つまらないジョークを口にして誤魔化そうとしてはいけない。
正直に、誠実に、朱里と話さなければならないのだ。
「付き合ってねぇよ」
これは真実だ。
仲はいいけれど、恋仲ではない。
けれど誠実であるには、もう一つ朱里に言わなければならない事がある。
「ただ俺があいつを好きってだけ」
幼い頃から変わらない仄かなで淡い恋心。
高校生が抱くには純粋すぎるこれは、子供が抱く初恋の情に近い。
「そっか」
なのに朱里は、悲哀を露わにした。
好きな男の子が自分以外の女の子を好きだったなんて、可愛い物じゃない。
もっと根源を穿つような深い情念が滲んでいる。
「どこが?」
「どこって?」
「どこが……好きなの?」
朱里に問われて初めて理由を考える。
どうして桐嶋健太は、佐久間舞香を好きなのだろうか?
可愛いから。
幼馴染だから。
優しいから。
一緒に居て、落ち着けるから。
思いつく限りの理由を頭の中で挙げてみるが、どれもしっくりとは来ない。
「なんか分かんないんけど、惹かれるんだ。すごく」
酷く曖昧で稚拙な言葉でしか、舞香への感情を表現出来なかった。
しかし朱里には十分過ぎるほど、気持ちが伝わったようで、また口を閉ざしてしまった。
「朱里……あのさ」
これは聞いてはいけない事なのかもしれない。
きっと朱里が一番触れてほしくない部分のはずだから。
それでも真実を知りたい好奇心は、抗い難い欲求となって健太を襲った。
「俺の事、どう思ってんの?」
健太がそう尋ねた途端、朱里の足が止まった。
健太は、大きく一歩を踏み出し、朱里の進路を塞がるように立った。
「なんで守ろうとすんの?」
ここ数日で嫌というほど思い知らされた事がある。
朱里の行為がまさしく命懸けである事。
どのような手段でかは詳しく教えてくれないが、本来居るべき時代を遡って過去に来て、魔法という自身を著しく削る行為を躊躇なく行使する。
「どうしても分かんねぇ。どうして俺を守ってくれんの?」
そこまで守りたいと思うのなら理由は、一つしかないはずだ。
「間違ってたら悪いけどさ、佐久間に嫉妬してない?」
朱里は、視線を落としたまま無言を通した。
健太が十六歳を迎える前に死ぬ。
朱里は、八十年後の未来を生きている。
本来出会うはずのない二人の接点があるとするならば――
「俺の来世が朱里の大切な人なのか?」
これ以外にないはずだ。
人は、単なる善意で命を賭けられない。
自己の生命を天秤に乗せるなら、必ず見合った対価がある。
終わりの可能性を飲み干してでも叶えたいのは、圧倒的なまでの欲。
それも単なる物欲ではありえず、もっと内側から零れ出すような強烈な欲。
つまりは、愛である。
健太の指摘に、朱里は、押し黙っていた。
しかし健太も同様に口を開かず、退かない。
攻防は、実時間にして一分、体感ではその数十倍の長さに及び、先に折れたのは朱里であった。
彼女は、鉛のように重ったるしく唇を開く。
「私の彼氏があなたの生まれ変わりなの」
腑に落ちる予想通りの回答だったが、寂しく感じるのは、
――やめよう。
その理由についての推理を健太はやめた。
――考えない方がきっといいんだ。
「じゃあ彼氏のために俺を助けたいってわけか?」
健太の問いに、朱里の答えは自嘲を伴って繰り出された。
「もう死んでるの」
「死んだって……」
「あなたの魂の器は、十六歳を迎える事はなく死んでいく。そういう因果に囚われている」
朱里の恋人も十六歳を迎える事なく、命を落とした。
最愛の人を残していく無念。
最愛の人を失う無念。
どちらも悲しみ、どちらも傷付いたのだ
「あなたが何かしたわけじゃない」
朱里が唇を噛み締めると、プツプツと血の粒が滲み出てくる。
「悪意に何かされたんだ」
辰原で行われた狂気。
それが健太の魂を縛り、朱里の恋人をも殺したのだとしたら、どうすれば因果を断ち切る事が出来るのだろうか。
もしも健太が生き延びられれば、朱里の恋人も生き返るのだろうか?
もしも健太が死んでしまったら、朱里はどうするのだろうか?
また身を削り、過去へと飛び、同じ五日間を繰り返すのだろうか。
やがて精神すらも削りつくし、血肉の塊になってしまうまで。
もしかしたらこれが初めてではないのかもしれない。
健太に合わせているだけで、これが何度目かの挑戦という可能性もある。
「だから私は、健太くんに誓える事がある」
朱里の進もうとする道に待っているのは、希望などではない。
それらしいメッキで舗装された汚泥の道だ。
「命に代えてもあなたを守るから。あの人のためだけじゃなく、あなたのためにも」
きっと信じているのだ。
もしも朱里という自分が磨り減って無くなってしまっても、来世を健太や恋人の魂をまた過ごせればと。
「生まれ変わりがあるから命を無駄に出来るってか?」
健太には、朱里の決意が、ひどく苛立たしかった。
「くだらねぇ。んな都合のいい事あるかよ!」
死んでしまったら、例え生まれ変わっても今の自分は無くなってしまう。
「命粗末にするやつが生まれ変われるかよ!」
腹が立つのは、そればかりではない。
「生まれ変わって一緒になりましょうなんて――」
こんな台詞を言わせてしまう今の自分が。
「生まれ変わりがあっても実現するか怪しいだろ?」
そんな決意をさせてしまった来世の自分が。
「俺も守ってくれるなら朱里もきちんと生き残れよ」
もう苦しめたくない。
こんな地獄からすぐにでも開放してやりたい。
「じゃないと俺も目覚めが悪い。死んだ方がマシだ」
「そんな事言わないで!!」
「俺に言わせたくないなら、お前が言うな!!」
それでも彼女を救う道があるとするなら、彼女の目的を果たさせてやる事だけなのだ。
彼女を救う手段は、健太が生き延びる以外にない。
「一緒に生き残るぞ」
健太が微笑みかけると、朱里は、はにかみながら笑みを浮かべた。
「うん」
上手く行く。
上手くやれる。
朱里とならきっと出来る。
そんな感慨を吹き飛ばすように、スマホから帝国のマーチが鳴り響いた。
「なんだか。雰囲気ぶち壊しだな、これ」
「また随分とまた懐かしいね」
玲子から電話がかかってくる時は、決まって面倒な買い物を頼まれるから、この手の音楽が相応しい。
「この時代じゃ、まだシリーズ展開中だぜ」
「そっか。あれシリーズのラストはね――」
「言うなよ!」
「ごめんごめん。でもなんでこの音楽?」
「母さん専用の着信音」
「ひどい……」
「でもさ、らしいだろ? ちなみに少しまでゴジラのテーマだった」
「そういえば、今って二〇一六年だから、新作公開された時だっけ。あれのラストはね」
「だからネタばれやめろよ! まだ見てないんだよ!!」
「ごめんってば……君の名は、ってアニメ知ってる?」
「それ公開前じゃねぇか!!」
「あれ実は、すごい事に――」
「マジで怒るぞ!!」
「マジで?」
「マジで」
「ごめんなさい。もう言わないから許して」
「まったく。もしもし、母さんなに?」
『サフラン買って帰ってきて。いつもの国産のやつね。十グラム』
やっぱり玲子は、悪びれもせず面倒な注文を言いつけてきた。
料理好きなのは結構だし、腕も伴っているのだが、材料に関しては細かい所で妙な拘りのある人だった。
ハンバーガーを作る時は、アメリカの料理だからとアメリカ牛しか使わず、かと思えばテリヤキバーガーの時は、日本の料理だからと国産牛を使う。
サフランにしても、健太からすれば米に黄色が付くだけで、カレー粉でも代用出来る代物という印象しかない。
「それ隣町のデパートにしか売ってな――」
『じゃあよろしく』
そう言って玲子は、一方的に通話を切ってしまった。
面倒だが、買って帰らないと夕飯を抜きにされる。
自分の分だけ寿司を取り、健太と重蔵には何も食べさないなんて事はザラだ。
「どうしたの?」
そんな理不尽な事情を知らない朱里は、岩盤のように硬直した健太の表情を訝しげに覗き込んできた。
「おつかい。国産のサフラン買って来いって」
「そう言えば冷蔵庫に魚介類がたくさん入ってたから。パエリアかな」
パエリア。
蠱惑的な単語の響きに、健太の表情を笑顔が咲き誇った。
「パエリア!? そうか! サフランと言えばパエリアだ!!」
「たぶん……そうだと思うけど」
珍しく気圧された様子の朱里を尻目に、健太の闘志は膨らんでいく。
「急いでいくぞ! 最高級のサフランを我が手にするのだ!!」
「う、うん……」
「語尾にはサーを付けろ!!」
「サ、サー」
点けたての着火剤のような健太のハイテンションに、朱里は距離を取りつつも興味深げに眺めている。
「好きなんだ。パエリア」
「ああ。なんで?」
そう聞き返すと、朱里は「あー」と暫し答えを選びながら、
「なんでもない」
押し黙ってしまった。
こういう反応を去れると、少々力付くでも聞き出したくなってくる。
「俺には、嘘つかないんだろ?」
「隠し事は、多いけどね」
「じゃあ、これ以上増やすなよ」
「いじわるだな、健太くんは」
痛い所を突かれたのか、朱里は気恥ずかしそうにしながらも、
「彼氏もパエリア好きだった」
懐かしむように、嬉しそうに、そう言った。
――女の子だな。
無論出会った頃からそう認識しているが、ここまで『らしい』表情というのは見た事がなかった。
「作った事あるの?」
「うん……おいしいって言ってくれた。焦がして失敗しちゃったんだけどね。それでもおいしいって言ってくれた」
「そっか。きっと美味かったんだよ」
「お世辞だと思うけど」
「いんにゃ。同じ魂の俺が言うんだから間違いないって! 魂に刻み込まれtくぁぱえ理科好きか。どっかの前世でイタリア人だったな」
「スペイン料理だよ」
「スペイン人だったんだな」
「好きな割には知らなかったんだね」
「うるさい」
他愛のない会話の応酬だった。
友達同士ならば、誰もがするくだらない話。
けれど朱里は、嬉々とした幼子のように無邪気に、楽しんでいるようだった。
もしも健太の来世が生き返るなら、また朱里のこんな笑顔を見てみたい。
彼が健太ではなくとも、魂が同じなら、魂の中から朱里の事を見守れるはずだ。
「先帰るか? ちょっと時間かかるし」
「一緒に行くよ。私はボディーガードなんだから」
「そうだな。頼むよ」
朱里と愛し合える来世の自分に、健太は、僅かばかりの嫉妬と大いなる羨望を抱いた。




