8月8日 ~朝起きたら幼馴染が出来ていました~
二〇一六年 八月八日。
「おはよう」
瑞々しい声が降り注ぎ、桐嶋健太は目覚めた。
ベッドの傍らに少女が一人、膝立ちしている。
通った鼻筋に、桜色の艶やかな唇。
ふわふわとした髪が肩まで伸び、宝玉のように輝く大きな瞳は健太を親しげに覗き込んでいる。
胸は程よく膨らみ、腰つきは両手で掴めてしまいそうなほどに細い。
服装は、健太と同じ高校の制服であり、白いシャツには、うっすらと桜色の下着が滲んでいる。
少女は、健太が今まで出会った女性のいずれもが、比類し得ない程に美しい。
けれど健太は、彼女の来訪を歓迎していなかった。
「君は誰?」
何故なら健太と少女は、今日が初対面だからだ。
知らぬ間に部屋へ上がり込んでいる見知らぬ女性に対して、至極まっとうな反応である。
しかし彼女は、名乗るでもなく、我が物顔で居直っていた。
「おはようったらおはよう」
「だから誰よ?」
再度尋ねると、少女は、愛くるしい顔には見合わない、深い皺を眉間に作って窺うように健太を見やってきた。
「幼馴染の顔を忘れたの?」
「幼馴染?」
朝、起きたら幼馴染が出来ていた、なんてあるわけがない。
「んな馬鹿な。なにこれ。どっきり?」
「幼馴染を忘却してる事に、わたしがびっくりだよ」
「もしかして美人局とか?」
「違います」
「あー。父さんが誕生日プレゼントに気を利かせて、童貞卒業用にデリバリー――」
「されてません」
「じゃあなんなの?」
「だから幼馴染でしょ?」
ありえるはずがない。
確かに、朝起きたら可愛い幼馴染が!!と言う妄想を抱いた事はある。
しかし、いざ現実に、その立場に置かれてみると、少年らしい性への欲求よりも、未知への恐怖が勝っていた。
外見が美少女だろうと、法律的には、住居不法侵入の現行犯でしかない。
「初対面の人間に幼馴染と言われてもね。とりあえず警察呼ぶんで。ていうかどうやって入った?」
「おばさんが入れてくれた」
「何やってんだあのババア! 母さん! 警察呼んで!」
「わたし悪人じゃないよ!」
「うるさい! 不法侵入じゃ! お母さん!! ねぇちょっと!!」
再度母を呼ぶと、階下から重い溜息と軽い足音が気だるげに階段を上ってくる。
「どうかした?」
ドアを開き、入ってきたのは少女よりも一回りも華奢な女性だった。
健太の母親である桐嶋玲子は、小柄ながらも母の威厳に満ちた人物で非常事態であれば、彼女が何とかしてくる。その期待に常に応えてくれる母だ。
しかし息子の悲鳴を聞き付けた割には、随分と落ち着き払った登場である。
「この人!」
健太が少女を指差すと、玲子は呆れ顔で嘆息を漏らした。
「幼馴染の顔を忘れるかね。ごめんね。ホント失礼で単細胞な息子で」
「母よ。愛息に対して、そこまで言うか……」
「いえいえおばさん。慣れてますから」
「なんだと!!」
「ごめんねぇ。ホントにバカ息子で」
「母さん!?」
何故初対面の人間とここまで親しく出来るのだろうか。
玲子は、デイサービス施設の施設長しているからか、コミュニケーション能力は高い。
初対面の相手でも友達のように話せてしまう気性だ。
だが不用心な性格では決してない。
「訳が分からん! 初対面で何故慣れている?」
「幼馴染だからだよ」
「だから誰だよ!!」
「健太、馬鹿言ってないで早く朝ごはん食べちゃいな」
「そうそう、食べちゃいな。遅刻しちゃうよ?」
まるで仲のいい嫁と姑のようなコンビネーション口撃。
どうやったのか方法は定かではないが、少女によって玲子は洗脳されているのは明らかだ。
ベッドから飛び起きた健太は、階段を駆け下りてリビングに行く。
そこには母の次に頼りになる人物がいるからだ。
健太の父親、桐嶋重蔵。
名前とは反比例するかのように痩身だが、合気道の有段者でもある。
いざとなれば不審者なんて一捻りだ。
「父さん!!」
非常事態だというのに、重蔵は朝食の並べられたテーブルでコーヒーを啜り、和んでいる。
「騒がしいな。顔だけにしとけ」
「あんた似だよ! そう思うなら十六年前もっといい遺伝子を出しときやがれ! じゃなくて母さんがおかしくなった」
「うちでまともなのは俺だけだろ」
「いや。あんたは一番まともじゃないから」
「なんだって!? あははは!! その通りだな!」
母の次に頼りになる、とは言ってもこの家、は健太と両親の三人暮らしだ。
玲子を百とするなら重蔵の頼りがいは一。
あてにしたのが間違いだったかもしれない。
「おじさんおはようございます」
「おー。朱里ちゃんおはよう」
「やっぱりこっちも仲良いのかよ! あれか? 義父との禁じられた関係的なあれか!?」
「もう健太くん。エッチなビデオの見すぎだよ?」
「あははは。それも悪くないな」
「もう! オジサンったら!」
「あはははは!!」
「父さんまで……いやこの人は平常運転か。元からシナプスの配線狂ってるし。でもそれにしたって……」
重蔵と玲子の対応は、本当に幼馴染に対する物であるかのようだ。
十数年を共に過ごさなければ出せない空気感が、朱里と呼ばれた見知らぬ少女と健太の両親の間に流れている。。
理解の及ばぬ現実を前に健太が呆然と立ちすくんでいると、困惑の元凶が子犬みたいな顔で無邪気に問い掛けてきた。
「どうしたの健太くん?」
「だからさぁ……」
「なんですか?」
「なんで朝起きたら幼馴染が出来てんだああああああ!!」
これは、桐嶋健太が過ごしたちょっと不思議な日々の物語である。