第三部:[犬]
三:
何となくあの喫茶店に行き辛い気持ちになっていた。別段何も起こっていないのだが彼女に会う事がどうも恥ずかしい事のように思われてしょうがなかった。それでも僕が自分のルーティーンを変える義理など無いと思い、変な汗を背中に感じながら入口のドアを開けた。
店主がいつものように席を案内してくれた。あまり目線をきょろきょろすることも出来ずに真っ直ぐ席についた。その日はそれほど混んでいなかった。例によればいつも通り店主が持ってきてくれるものだと思っていたところに、あの小柄な女性がコーヒーを持って近付いてきた。僕はそわそわし始めた。
前回同様、彼女は微笑みながらコーヒーをテーブルに置いた。僕は前回よりも小さい声でお礼を言った。彼女は戻っていきそこで一つ溜め息をついたのも束の間、また彼女がこっちに向かって来た。僕は口に含んだコーヒーを吹きそうになったのを堪えた。
「灰皿いりますよね?」
僕はお礼を言う以外に気の利いたことも言えず、また気の利いたことなど言う必要ないというようにムキになりつつ受け取った。
「この間、本屋さんにいました?」
唐突に彼女はそんな問いを投げかけてきて僕は心臓を口から吐き出しそうになってしまった。喉まで来た心臓を飲み込み、僕は「はい」とだけ答えた。
「あの本私も持ってますよ。面白いんですよ、展開が。」
“あの本”が僕には思い出せなかったが、おそらくあの日やけくそに手に取った本だろう。どうにか適当な返事を返すと、彼女は満足そうな顔で戻っていった。
そこにサルと木嶋が入ってきて、真っ直ぐ僕のところに来た。そして力の抜けた僕の横に座るやいなや興奮しながら話し始めた。
「今度の日曜日時間あるか?カオルが休みで帰ってくるらしい。」
あまり同じように興奮は出来なかったが内容は理解した。
「久しぶりに集まろうぜ。いやあ懐かしいなあ。」
2人がそう盛り上がっているところに鬼子がコーヒーを運んできた。そして僕にしたのと同じように微笑み戻っていった。
「彼女?この間言ってた」
僕は1つ頷いた。そこで2人はまた別の件で興奮し始めた。2人は彼女をひたすらに褒めちぎった。問題の名前こそ彼らは見逃したが、そんな事より彼女の容姿が気に入ってしょうがない様子だった。彼女に対して妙な意識を持ってしまった僕は彼らの気持ちが少しわからなかった。
「彼女と話した?」
僕は小さく頷いた。話したと言えるほど話していないのでそれはもう極々小さく頷いた。しかし彼らはそれに気付かず事を大きくした。
「羨ましいが、ケン、ここは俺たち邪魔はしないぞ。応援してるからな。」
サルはそう言って僕の肩を叩いた。そして日曜日の事を再確認したのち帰って行った。
それから少しよく考え、ようやくサルの言った“応援”の意味が分かった。すなわち彼らは僕が彼女に恋をしている、と思ったに違いない。と、当時の僕は思っていたが、どうやらあれは「恋人を作るチャンスだ」という意味らしかった。それに気付けず自分の中で、“彼女に気がある”のか“何とも思っていない”のかの押し問答をしている時点ですでに僕の心は彼女にあった。
「また読んだら教えてくださいね。」
彼女は会計時にそんな事を言った。なぜかわからなかった。僕はそういった男女間に起こりうる事象には必ず理由があるものだと思っていた。つまり、僕から好きな気持ちが出てそれが彼女に伝わっているのか、あるいは彼女が僕に気があるのか。バンドとしてしかチヤホヤされたことのない僕の中に後者の選択肢は無いも同然だった。そうなると自動的に僕からそういった感情が出てしまっていたことになった。いや、そんな事はない。別に何とも思っていない。ただ、女性と面と向かって話すのが苦手で、その上変なところで見かけてしまったからちょっと変な感じになっただけだ。僕の理論はこうだった。
きっと“天下無敵の孤高の人”だと思っていた自分があまりに容易く“一般女性”に同じ目線で話し掛けられたそのリアリティに幻滅していた。それと同時にその距離の身近さに少し安心もしていた。その二つを受け入れきれずに煩悶していたのが当時の僕だった。
それ以来ますます喫茶店に行き辛くなり、また懊悩の夜を過ごした。
日曜日。久しぶりに四人が揃った。カオルは相変わらずの大人っぽさに磨きがかかったようにどこか違う空気をまとっていた。それもそのはずでカオルはすでに結婚までしていた。カオルの生活やバンドの現状についての話が主だったが、サルが突然、僕に恋人が出来たなどと言い始めた。僕は必死に反論した。カオルはただ笑っていた。それは見下しているというものではなく単純に祝おうとしている笑みに感じられた。その日はそれを皮切りに散々もてはやされた。事実と異なる事でもてはやされるのがどうにも居た堪れなかった。
一か月ぶりに喫茶店に寄った。店主も彼女も少し驚いたような顔をした。
カオルと会ったあの日を境に、すなわち事実ではないことをもてはやされたあの日を境に僕は処決した。それは彼女に声を掛ける、というたかが知れたものだった。しかし僕にとっては一大決心だった。その決心に至るまで沢山考えた。沢山の状況設定をし、沢山の可能性を並べた。沢山の理由を探り、沢山自分を省みた。
彼女を考えた。しかし一向に答えが見えてこなかった。見えてきたように思えても、それは憶測の域を超える事はなかった。当然だ。全ては僕の中だけでしか動いていなかったわけだから。それを知るべく、彼女に近付く事を決心した。この時点でもまだ僕はこれは恋ではないと信じていた。
「久しぶりですね。」
テンプレート的なセリフが彼女の口から飛び出した。これは想定の範囲内だった。僕は適当な返事を返した。でも以前よりも少しはきはきと。コーヒーを受け取った僕に彼女は「どうでした?」と問うてきた。これはきっとあの本に関する質問だと分かったのと同時に、彼女は僕があの本を買ったものだと思っている事も理解した。以前の僕だったらきっとなあなあにしてやり過ごしたであろうところで、僕はあの日その本を買っていない旨を説明した。僕にしては随分と長いセリフを喋ったような気がして、背中に汗がどっと流れた。彼女はその話を理解し、また戻っていった。
初めて“歌を作る”という目的以外でこの店を利用する僕のこの日の目的は彼女の名前を聞くという極めて些細な果断だった。おそらく会計時が最後のチャンスだと思うと、コーヒーはまったく味がしなかった。
ほんの10分程度で席を立つとレジに向かった僕を迎えたのは幸いにも、あるいは不幸いにも、彼女だった。
それはレシートを受け取る際に、ポケットの中で拳を作りながらだった。
「あの、名前、、なんて読むんですか、、?」
「あ、ナキリです。百鬼カナメです。」
「あ、ナキリ、、、珍しいですね、、。」
僕がそう答えた後、彼女は笑い、僕は店を出た。
たったこれだけのやり取りが永遠のように長い時間に感じられた。握っていた手は汗でぐっしょり濡れていた。なんとも情けなくなった。散々人を小馬鹿にし、自分の知識に縋り付き、「天下無敵」だと思っていた自分は結局1人の女性の前にまったく怖気づいてしまっていた。それでも偉大なる第一歩を踏み出したような達成感もあった。叫びたいような心持で家に帰った。