第二部:[猿]
二:
当時この小さな街で『ピーチブロッサムズ』を知らない人はいなかった、と言っても過言ではないほど、僕らのバンドの知名度は上がった。地元規模でしかなかったがそれでも当時の僕らの実感はそれはもう大変なモノだった。高校卒業してからの約二年、地元で開催される大小様々なイベントに片っ端からステージを設けてもらったお陰で、道を歩けば声を掛けられない日は無かった。
「今頃、カオル相当悔やんでるだろうな。」
これがお酒の席で決まって話題に上がった。
当のカオルは地元を出て、大都市で仕事をしていた。当時はほとんど連絡を取り合っていなかったのでこの情報自体は後になって入手した。
僕は歌を作るときに決まって1人で小さな喫茶店に入った。壁掛け時計を真上に見上げる隅の二人掛けテーブルに腰を下ろしコーヒーを頼んだ。知名度も上がり、ある時店主が僕がピーチブロッサムズのギターボーカルだと気付くと、それ以来いつも特別扱いをしてもらっていた。壁には僕のサインもあった。コーヒーだって頼まずに出てくる。自主制作のCDもどうやら流してくれているらしかったが、僕が来店した際は気を遣ってか一度も流れたことはなかった。
その日も僕は同じように来店し、同じように店主に挨拶をして、同じように席でコーヒーを待った。その日はいつもより少し混んでいるように見えた。コーヒーを運んできたのは店主ではなく見たことのない同い年くらいの女性だった。胸の名札には「百鬼」と書かれていた。彼女は、笑みを浮かべながら「どうぞ」とコーヒーを机に置き、僕は思わず敬語でお礼をした。
ノートに向かってペンを片手にコーヒーを飲みながら、しかし思ったように言葉が出てこなかった。僕はタバコを取り出して、その時テーブルに灰皿が無いことに気が付いた。すいませんと声を掛け、はいと返事して顔を出したのはやはりさっきの彼女だった。灰皿を注文してからすぐに彼女はそれを持ってきてくれた。また同じように笑みを浮かべ、僕もまた同じように敬語で会釈をした。
僕は彼女を新入りだと思った。もっと言うと、近頃どこかから引っ越してきたのだとも思った。なぜなら僕を見て何も気付かなかったから。
当時の僕は有頂天とまではいかないまでも、ある程度の知名度からチヤホヤされる自信があった。そしてそれはやはりその通りだった。街を歩けばいつでも声を掛けられ、年頃の女性の“ファン”も多かった。
中学校から高校にかけて、女性とは一生無縁だと思っていた僕が、それどころか人の注目を集めることすら不可能だと思っていた僕が、今ではまるで嘘のように注目を集めている。特定の恋人がいなくともとても充実していた。満足していた。恋した事もないまま育ってきたけどきっと恋愛よりも尊い環境にあると感じていた。そうして自分の誕生花の花言葉をいつでも心の中に復唱していた。昔僕を見下しているように感じていた人たちに会いたくなった。そして見せてやりたかった。決して僕の腹の中は白くはなかったけれど、それが人間なんだと思っていた。
そんな現状の僕を見ても何とも言わず、嬉々とした態度もなかった彼女がどこかから越して来たと考えるのは普通だろう。ここでも僕は少しだけ彼女を見下していた。
会計をしたのも彼女だった。僕はまた敬語で挨拶をして店を出た。それまで恋をしたことのない僕は女性と面と向かって話すのが苦手だった。男は簡単に心の中で見下せたが、女性はどこか見下しきれなかった。というのも腹の底ですでに最初から蔑まれているようにどうしても感じてしまう所があった。僕がどれほど有名でも、僕がどれほどに堂々としていようと、彼女たちは最初から純粋に目の前の現実を疑ってかかるものだと、また疑ったうえで正解は彼女たち自身のみなんだと思っていた。
僕は新入りの女性の名前の読み方が解らなかったので単に「鬼」の文字だけ認識し、勝手に「鬼子」と命名した。
ある日のバンド練習中にふと僕が「鬼子」の話をしたらサルも木嶋も思ったよりも盛大に興味を持った。彼らにも恋人のいたためしがない事を知っていた僕は、自分と同じ考えじゃないことに少し驚いた。
「綺麗か?名前は?」
そういった詰問を浴びた僕は、鬼という字の入った苗字で読み方が解らなかったということだけ答えた。すると話は進み、その日の練習後に例の喫茶店に三人で行くことになった。僕はその日初めて彼らをその店に連れて行った。
店に入ると店主が挨拶をして、いつもの席に通してくれた。いわゆる顔パスだ、と二人はこそこそ盛り上がっていた。僕がこの店に来るのは、初めて鬼子を見かけた日以来だった。コーヒーを三つ運んできたのは店主だった。そしてついでに二人にもサインの要求をしてからカウンターの方に戻っていった。どうやら彼女は休みらしかった。とは言っても店主に直接聞くのは気恥ずかしかったので、わざわざそれとなく店内をうろついたのちの結論だった。2人は残念がった。その日はそのまま解散した。
帰り道、本屋に寄った。これと言って目当ての本があったわけでもなかったが何の気なしに入った。そこに鬼子がいた。一度しか見たことが無かったので彼女の面影の記憶は曖昧だったがおそらくそうだと思って少し隠れるように別の通路に入った。何も悪いことはしていないので隠れる必要なんてなかったのだが、隠れずにはいられなかった。この間喫茶店にいた人だ、と気付かれること、それから私生活を詮索されること、はっきりしない関係の中でどんな顔でやり過ごせばいいのか、それらを恐れていた。これが過度な自意識だと気付いたのはもっと後になってからだった。
彼女は僕が隠れた通路に入ってきた。少しこっちを見た気がして、ここでそそくさとまた逃げるのも情けないと感じられていよいよどうすることも出来ずに、目の前の本をなんでもいいから手に取った。
結局、彼女は僕だと知ってか知らずか接触することなく帰って行った。至極当たり前だった。僕はただの喫茶店の客で、彼女はそこで働いている店員。それだけのところに何が起き得ようか。僕はさっきまでの自分がバカバカしくなり、手に持っていた、表紙で男女が腕を絡み合わせてる絵が描かれた本を棚に戻して帰った。