8.記憶の中の美しい水辺
「ッ――……!」
アイトは飛び起きた。湿度の高い呼吸を荒く繰り返して、全力疾走する鼓動を聞いた。
「は……、は、」
夢のなごりが全身でわなないている。背筋を粟立たせた熱い血が引いていく感覚に身震いした。波が急速に不快へと変わり、冷静な自己嫌悪に拍車をかけていく。今のは、今のは、
(――イーヴェ、だった)
そんな馬鹿な。彼女は愛娘だ。一度としてそんな目で見たことはない。たったの十しか離れていないとしても、娘だ。もう永遠に会うことの叶わない、愛するわが子だ。それなのになぜ。悪魔に操られてではない、自らの心を映すはずの、夢の中で彼女に劣情を抱き……あまつさえ。
『あの忌々しい人間の娘を辱めたのは貴様ではないか』
悪魔の声が蘇る。
「違う……! 違う! 違うッ!」
説得力のない不快感を伴って、絶望が虚しく響いた。
案内役の男性を埋葬して弔い、何日かかけて町の悪魔を祓い尽くして村の教会に帰ってきたアイトは、自室で文献にあたっていた。町で出会ったあの堕天使のことを調べるためだ。
「……あった」
あれだけ強力な悪魔だ。高名な天使であったに違いないから、すぐに見つかるとは思っていたが、拍子抜けするほどあっさりとそれらしき記述が見つかった。
「"ルシフェーレ"」
神の玉座を夢見て、神に反逆した大罪の堕天使。見つけてみればなんのことはない……。地域の守護天使であるミヒャーレの双子の兄であり、かつて天界において最も尊く美しいとされた天使のひとり。反逆の末に弟のミヒャーレに討伐され、地の底へ落ち、魔王となった存在。……有名な話である。当然、自分もよく知っていた。どうして今の今まで思い当たらなかったのだろう。
思い返せばあの美しい金髪は、天にあって明けの明星と例えられた彼にふさわしい。そして、翼は十二枚。あの残虐な性格、尊大な言動、さまざま含めて考えると、彼が魔王だというのならすべて納得がいく。
イーヴェをそそのかし、大罪をその手に掴ませた悪魔の名は――ルシフェーレ。地の底を統べる魔王。
(魔王、か)
強大な相手だ。本来自分のような若輩者の追う悪魔ではない。だが奴だけは、この手で消滅させねばならない。それが自らの犯した失態に対する最低限の償いだ。イーヴェの魂への、せめてもの弔いだ。それさえ果たせたならば。
『エディザーンさま?』
窓の外からかすかに声が聞こえた。見ると、泉のほとりにドーラが立っていた。今日も祈りを捧げに来ているのだろうが、なにやら顔色が悪いように見える。窓を開けて彼女を近くへ呼ぶと、それがはっきりとわかった。
「体調が悪いのか?」
問いかけると、ドーラは気恥ずかしそうにはにかんだ。
「実はあのあと、泉で溺れかけまして。私が教会に運び込まれたのを知った母が見つけてくれたのでなんともなかったのですが、体を冷やしたので風邪を引いてしまいました」
「あのあと……?」
町へ出立した日のことだろう。窓から泉に目をやった時、そこにドーラの姿はなかった。まさか、あの時まさに彼女があの水の中で溺れていたのか。
「……すまない。私がもっと気をつけていてやるべきだった」
首から吊ったままの左腕を見ながら言う。この左腕ではろくに泳げもしなかったろう。彼女の母が見つけてくれなければ、どうなっていたことか。
「外は冷えるだろう、入るといい。なにかあたたかい飲み物を用意しよう」
その言葉に一時は遠慮したドーラだったが、顔色の悪い病み上がりの彼女を外に放置しておくわけにもいかなかった。今日はただでさえ天気が悪く、気温が低い。裏口から入れてやって私室に通す。
「ソファーもない部屋ですまないが、よかったら寝台にでもかけていてくれ。飲み物を持ってくる」
言い置いて、炊事場に向かう。彼女が遠慮してしまわないようきちんと二人分飲み物を用意して部屋に戻ると、ドーラは寝台に腰掛けながらも落ち着かなげにきょろきょろしていた。恐縮させてしまっただろうか。しかし、この小さな教会にはそういくつも部屋があるわけではなく、礼拝堂は広いために冷える。人が座れる場所があり、一番あたたかいのがこの部屋なのだ。
「楽にしてくれ。疲れさせるために呼んだのではないからな」
少しの蜂蜜を入れてあたためたバターミルクを手渡すと、ドーラがほう、とため息をつく。
「あたたかい……」
やはり身体が冷えていたのだろう。ドーラの肩からふっと力が抜けたのがわかった。
机の前から椅子を引っ張り出して、寝台の横に置いて腰掛ける。息を吹きかけて冷まし、口元へ運ぶ。蜂蜜のほのかな甘い香りが胸に染み入る。
「そういえば……」
バターミルクの薄黄色の水面から目線を上げ、ドーラに問いかける。
「あなたが信仰に目覚めたきっかけというのはなにかあるのだろうか」
「ああ……そうですね……」
ドーラは遠い目をした。そしてその視線は、窓の外の泉へ。
「私が女神さまを信じるようになったのは、四つの頃です。両親に連れられて、初めてこの協会を訪れた時のことでした。なにかに呼ばれた気がして、両親の目を盗んであの泉に近づいたのです」
彼女が四つということは、アイトがまだこの教会にいないどころか親元にいた頃の話だ。
「するとそこにはキラキラと光が満ちていて、どこからか女の人の声がしました。『私の愛し子、ようやく会えましたね』と。その時私は、その方が母とは別の意味で私の命の創造主であらせられるのだと、漠然と理解しました」
「……ふむ……」
アイトは眉間をぐりぐりと人差し指の背で押した。
「この教会に連なる天使であるとは思わなかったのか?」
「だって女性の天使様はいらっしゃらないのでしょう?」
「…………」
確かに、そうだが――。自分の信じる神を唯一神と崇めてきたアイトにとって、にわかには信じがたい話であるし、女性の天使もいるのだと思った方がまだ納得できるのだが。
「…………」
「あっ、す、すみません、ここの聖職者の方にこんなお話……」
「いいや、私が尋ねたんだ、謝ることではない。なんにせよ、世の中には私の知らないことがまだまだあるということだな」
言いながら、彼女の話をそっと自分の奥にしまいこむ。今すぐには受け止められなくても、ゆっくりと咀嚼すればわかることもあるだろう。
「私は神に仕え、人々の幸せを祈る者。たとえ異教の神を信じていたとしても、それによってあなたが今幸せだというのなら、それはそれで構わないんだ」
そう、彼女は先ほど、泉で溺れていたところを母に助けられたと言っていた。娘が教会に担ぎ込まれたと知って、心配して迎えに来ていたのだろう。たとえ信じるものが違えども、親子である彼女らは幸せに愛し合うことが出来るのだ。
(……親子)
あの夢から目が覚める最後の瞬間に見た、イーヴェの瞳が脳裏をよぎる。自分たちも、血こそ繋がっていなくとも親子として愛し合うことが……出来ていると、思っていた。いや思い込もうとしていた。だが、あの悪夢の日にすべては変わってしまった。そしてあの町でイーヴェの夢を見た日から、自分の思いさえわからなくなった。イーヴェの想いのみならず、自分の思いも、もしかしたら、親子の情とは違ったというのだろうか。
「……エディザーンさま。お顔が真っ青です」
心配そうなドーラの声で我に返る。
「ああ……、すまない、考え事に耽っていた」
アイトは頭を振ると、バターミルクを飲み干した。ドーラはそれを眺めながら、なにかほかの話題をと考えて言葉を差し出す。
「そういえば、墓所に新しいお墓がありましたね。ここしばらく村で亡くなった方はいらっしゃらないし、エディザーンさまと同じ姓が記されていたので、気になって……」
……ドーラは気づいていないが、話題が変わっていない。それは間違いなく、イーヴェの墓碑だ。
「あなたは、文字が読めるのか」
この村の住人は、基本的に文盲だ。地域で唯一教育機関のある、街に住む人間でさえ、文字が読めることは稀だ。だから油断していた。新しい墓があると気づかれても、行き倒れた旅人を弔ったのだと……また嘘を重ねるつもりでいた。
「ええ、我が家は街にある神学校の副学長さまと、親戚関係にあるそうなのです。それで、我が家の子供はみな十六になると特待扱いで教育を受けさせてもらえるのです。父も姉もそうでした」
ドーラはまつげを伏せている。
「神学校で、学んでいたのか……あなたが」
それは、異教の神を崇高する彼女にとっては拷問にも等しいことであったろうに。
「はい。異教の信徒であることは、ひたすらに隠して。父も母も、私がそこで異教の信仰を捨てることを期待したようですが……私はとうとう耐えられず、学校の寮を飛び出してしまいました。それで、家族の元に帰ってあなたたちの神には信仰を捧げることが出来ないと説明していたのを、村の方に聞かれていて」
「それで、先日の騒ぎに繋がるのか」
「お恥ずかしい限りです」
アイトもまた、街の神学校に通った人間であった。そこには二つの学部があり、聖職者を養成する学部と、神の信徒に一般教養を授ける学部とに分かれている。ドーラが通ったのはおそらく後者であろう。どちらにせよ、日に何度も神への愛を確かめる機会があることには変わりないから、彼女にとっては耐え難い苦痛であったことだろう。
「……そういえばあなたの姉君も同じ学校に通ったと言っていたな。彼女もあなたの信じる神の信徒なのか? もしそうならば、彼女もまた相当な苦痛を味わったものと思うが」
「いえ。姉はエディザーンさまと同じ神様を信じています。そういえば年の頃もちょうど同じくらいです」
ドーラは青い瞳をぱちくりさせて、アイトの顔をまじまじと見た。色味は違えども、イーヴェと同じ、物怖じしない無垢でまっすぐな瞳だ。
「私と同じ年頃の女性か。どの方だろう。あなたに似ているのか?」
「そうでもありません。濃いブラウンの髪で、そばかすがあって、年齢の割には少しあどけない印象の人です」
アイトはここの村人をひとりひとり思い浮かべたが、思い当たる節がない。
「そんな女性がこの村にいただろうか……?」
「そういえば、最近はめったに教会には顔を出していないようなので、ご存じないのかもしれません。エワンナ、という名前なのですが」
「!!?」
エワンナ。その名前にアイトの肩がびくりとはねた。アイトが驚きを示すのを初めて目の当たりにしたドーラはむしろ、彼のその反応に驚いていた。
「え、ええと、姉をご存じなのですか?」
困惑しながらドーラが問うと、アイトはあからさまに瞳を揺らして動揺した。
「ああ……まあ……そうだな、彼女は神学校での同期にあたる。学部が違ったので学校内でのかかわりはほとんどなかったが、そう、いい友人だった」
濃いブラウンの髪にそばかすの、同じ年頃であどけない女性……、同名の他人ではない。間違いない。あのエワンナだ……。めったに教会に顔を出さないというのはおそらく、そこにいる神父が好ましくない記憶の中にいる男と同一人物であると知っているからだろう。
いい友人――ドーラはそれで、なにかを察したようだった。
「そうですか、あの……お気になさらずに。姉は元気ですよ。優しい旦那様の元へ嫁いで、今は子供も二人……」
そこまで言ってしまってから、ドーラはしまったという顔をした。アイトがまた動きを止めたのが見えたからだ。
「う、あの……えーと、でもおてんばなところのある人ですから、なかなか家の中で家事だけして過ごす生活というのは慣れないみたいで、不満も多いみたいですよ。その……」
ごにょごにょとドーラは口ごもる。なにを言えば今の失言がなかったことにできるかと考えたが、無理難題もいいところであった。
その間アイトはドーラをよそに瞑目し、心中で数を数えていた。十、まで数えて、短く息を吸うと、ふーっと肩の力を抜いた。呼気とともに雑念が落ち、いつも通りの冷静を取り戻す。
「すまない、気を遣わせてしまったな。確かにいろいろなことがあったが、私も、あなたの姉君の幸せを心から願うものの一人だ。元気で暮らしていると聞けて嬉しい。これは本心だ」
……嘘はついていないが、半分自分自身に言い聞かせる言葉であった。
ものの数秒でいつも通りの顔を取り戻してしまったアイトに、ドーラは表情を心配の色に変えた。
「エディザーンさまは、お優しい方ですから、それが本心であるのはわかります。でも……、その、いくら聖なるお仕事をしていらっしゃるからといって、そうして本心を隠してしまわれなくてもよいのでは……? 聞かせないでほしかったと、私を叱りつけたって許されると、私は思うのですが……あの」
すみません、出過ぎた指図でしょうか。ドーラはぎゅっと肩をすくめて縮こまった。その拍子に彼女が右手に持つバターミルクの水面が大きく揺れたので、アイトはとっさに彼女の右手ごとそれをつかんで抑えた。彼女もそれで気づいてはっとして動きを止め、水面が平静を取り戻すまで二人、呼吸さえ止めてじっとしていた。
ゆらゆら、ゆら……ゆら……、……、…………。
「……、危なっかしいな、君は」
ふ、と苦笑の気配を含んだ息を吐いて手を放す。一秒遅れて、ドーラも肩の力を抜く。
「すみません、ありがとうございます」
心底ほっとしたドーラの表情。それがなんとなくおかしくて、アイトは今度こそ本当にくすっと笑みを漏らした。
「あっ。わ、笑うことはないのでは?」
「ふ、すまない」
エワンナとドーラは……確かに姿形はそれほど似ていない。性格もさほど似ていない。だが、このあどけないところはそっくりではないか。ころころと表情を変え、その中でも特に、笑顔を多く浮かべる。思わず、こちらもつられて笑ってしまうような笑顔を。
「けなしているのではない、好ましいと思っているんだ。許せ」
窓の外の泉に目を向ける。よくエワンナと待ち合わせをしたあの場所も、水辺だった。川が流れていて、群生する花が季節によってさまざまに入れ替わる美しい場所だった。自分の中の、キラキラした美しい思い出は全てあの場所に埋まっているのだろう。懐かしい、と思った。彼女の笑顔が、記憶の中でふわりと咲いた。そうしてつい、回想に意識が落ちかけて……目の前のドーラの存在を思い出した。もう、日は暮れかけていた。
「すまないな、長い間引き留めてしまって。よかったら家まで送っていこう」
「え、あ、ああ、……はい。よろしいのでしょうか?」
「もちろん。繰り返すようだが、隣人のために働くことは私たちにとっては喜びなんだ」
ドーラが手の中の冷めきった飲み物を飲み干すのをのんびりと待って、教会を後にする。小さな村だからそう遠くはない距離だったが、あのような騒ぎから数日、しかも病み上がりの彼女を一人で帰らせるのはよくないことだった。道行く人たちに挨拶をしながら、彼女の家まで歩く。
「……エディザーンさまには、奥様がいらっしゃったのですか」
道中、ドーラがそんなことを口にした。藪から棒に、と思いつつも、神父の妻帯は許可されていないことを教えて否定する。ドーラは続けた。
「あのお墓、奥様のものなのかなって、思ったんです」
「ああ……」
なるほど。気にかかっていたのか。少し答えに詰まる。姓が同じであると気付かれた以上、行き倒れた旅人というのは少し白々しいが、娘のような存在、と答えてしまうと、イーヴェのことを知っている人間に伝わった時に、彼女のことだとすぐにわかってしまうだろう。彼女は新しい場所で悪魔祓いをしていることになっている。それはまずい。幸いドーラは教会から縁遠く、神父の名前は知っていても、その同居人の存在までは知らない。だから、白々しい嘘を強引に吐き通すことにした。
「あれは、行き倒れた旅人のために建てた墓碑だ。私の姓と綴りは同じだが、彼女は『アディソン』。読みは違う。おそらく特に血縁関係はない」
「そう、なのですね」
ドーラはあからさまにほっとした顔をしてこちらを見上げた。青い瞳に、夕焼けの光が浮かんでいた。どんな優れた画家でも、この美しさを描き出すことはできないだろう……と一瞬その光に見入った。
気付けば、ドーラが足を止めていた。そのまましばらく彼女はその瞳で見つめてくれていたが、やがてはっとして正面の家に向き直った。
「私の家はここです。変なことをお尋ねしてしまってすみません、ここまで送ってくださってありがとうございました。大したお構いはできませんが、よろしければおあがりください」
ドーラが木製の簡素なドアを引く。その申し出を気持ちだけ受け取って辞退した。
「まだ礼拝堂の掃除も終わっていないし、いろいろとすることがあるからな」
そう告げると、ドーラは残念そうに引き下がる。本当に表情が豊かだ。つい、ほだされそうになる。
「ありがとう。今度は、なにか手土産を持参してお邪魔することにするよ」
「はい。約束ですよ」
戻った笑顔を見届けて、彼女の家を後にした。帰る道も、すれ違う人々に挨拶をしながら帰る。中には、卵や野菜などを分けてくれる人もいた。神父は人々のために祈るのが仕事だが……その実、特にどこからも資金の援助を受けているわけではないので、食物などは村の人々の厚意に頼らざるを得ないのが現状である。自分たちも決して余裕のある生活ではないのに、たくさん取れたから、食べきれずに腐らせてしまうともったいないから、などと言い添えて食物を分けてくれる彼らには感謝の日々だ。
教会に帰ると礼拝堂の掃除を終えて、明日の礼拝の準備を終えて、一日を終えた。ベッドに入って目を閉じると、まぶたの裏にエワンナの姿が浮かんだ。あの美しい水辺で笑っている。イーヴェやドーラとは違う意味で、天真爛漫な女性だった。時々途方もないわがままを言ってみせては、冗談だと笑うのだ。そして小さなわがままならば押し通す。手をつないでほしい、とか……あの花を頭に飾ってほしい、とか……ほんの小さなわがままだ。しかしそれを叶えてやると、花のつぼみがほころぶようにふわりと笑うのだ。
『アイト、大好きよ』
そばにいられるだけでいいと、彼女は隣でただ笑っていた。あの美しい季節はもう二度と、巡ってこない。
(……もう、終わったことだ)
アイトは天井を見上げ、手の甲を額に当てた。彼女が避け続ける限り、きっと二度と会うことはないだろう。だから、思い返す必要などない。
その恋心は……記憶の中の美しい水辺に、埋めてきたのだ。