7.大罪の堕天使
逃げるように、夢から這い出した。振り返らずに、転がるようにして壁を抜け、ルキの元へ戻った。
「ん、おかえり。――っと、ちょっと?」
悠長な笑顔の彼を引きずるように、その場から走り去る。恐怖に全身を支配されていた。怖かった。最後に見た彼の瞳、それがあの日の悪魔に重なった。
彼のフリをして現れた悪魔……ベリュオル。その瞬間にそれが浮かべた表情と、先ほどの彼の表情が重なり、脳内でフラッシュバックした。正体を明かされたその時に魂に刻み付けられた嫌悪感は、悪魔になってなお忘れることができない。サキュバスとして仕事をするのは平気になったのに、本人の表情はだめらしい。あの日のあれは悪魔による彼の似姿であって、彼ではないのに。彼のことは、今もこんなに好きなのに。
闇雲に逃げていると、背後のルキが呆れたように声をかけてくる。
「急いでるみたいだけど、それなら走るより飛ぶのがおすすめだよ。この町にまだ用事があればの話だけど。もう用事が済んだなら地下に帰ろうよ?」
ルキの言う通りだった。慌てるあまり、ここに来た経緯も忘れていた。彼に会うためにここに来たのだ。彼との再会を果たした今、もうここにいる意味もない。
「……帰り、ましょうか」
「うん、そーね」
彼は指先を地面に向けると、くるくると渦を描くように地下への扉を開いた。
「じゃ、降りるよー」
と――彼が、言うが早いか。
空気を切り裂いて、「何か」が飛んできた。
とっさに突き飛ばされ、石畳の上に尻もちをつく。一方突き飛ばした張本人――ルキは、数メートル向こうまで吹き飛ばされていた。左手を突き出した彼の前面に金色に透き通る盾のようなものが見えたので一応防御姿勢はとれたようだが、衝撃はまともにくらったようだ。
ルキは体勢を立て直しながら、右手にも盾を形作った。そして、鋭く叫んだ。
「イーヴェ! 早くそこの穴から逃げろ!」
彼が声を荒げるなどというのはよっぽどの事態なのだと、付き合いのまだ浅い自分でもわかる。だが、その言葉に従う気にはならなかった。なぜなら、もう飛んできた「何か」の正体がわかってしまったから。
纏っていた眩いばかりの光が解けて、姿を現した彼は、大天使・ミヒャーレ。
「無様な悪魔よ、安心するといい。この私が貴様を見逃し、彼女を滅するなどということは決してあり得ない」
ビリィ、と空気が震える。先ほどの穏やかな口調とは全く違う。これが彼の、悪魔に対する本来の態度なのだ。自分より一回りも二回りも大きい背中は大きく美しい六枚もの翼を携えて、堂々とたたずんでいる。
天界で最も美しく、尊い天使の姿だ。
距離を縮めながら、ルキが肩をすくめた。
「あー……、なるほど。その子びっくりするくらい神様に好かれてたみたいだけど、お前がずっと目をかけてた逸材ってわけね。納得」
「……ああ、そうだ。それを、貴様が奪った」
ミヒャーレが静かな怒気を発するが、対するルキはいつものようにヘラヘラとした笑みを崩さない。
「ええ、違うって。地獄行き勧めたのはベリュオルだよ。僕じゃない」
「その地獄に堕ちた魂を悪魔にしたのは貴様だろう! 彼女の魔力を見れば一目瞭然だ!」
二人は、知り合いだろうか。大天使は明らかな怒気を発している。だが、その端々に何か、見え隠れしている気がするのだ。
「サタニエーレはどこまでも追い詰めて滅してやる。そして、貴様も同じく。今度こそ……今度こそ、お前の存在を無へと葬り去ってやる」
ミヒャーレが、その大ぶりな両腕をまっすぐに伸ばしてようやく抜き放てるほどの大きな大きな剣を抜いた。ぐわん、と鞘は投げ捨てられ石畳に転がる。
その大剣を彼はあろうことか片手で構えると、空いた左手に光を集めて複数の矢を作り出し、ルキに矢じりを差し向けた。
「わーお。容赦ない」
「貴様は確実にここで仕留める。二度と取り逃がしてなるものか」
ミヒャーレが左手をザッと振り下ろすと同時、光の矢がルキめがけて四方八方から風を裂く。
「お、おおお、ホントに容赦ない」
ルキは笑みを浮かべ、なんと盾を捨てたかと思うと、目にも止まらぬ速さで空間をあちこち指先でたたく。すると、ちょうどその場所に飛んできた矢が次々と弾かれていく。矢の飛んでくる軌道を先読みし、到達の一瞬前に防御壁を築いているのだ。
「お前のバカみたいに強い聖の光は、生半可な防御じゃ防げないからね。大きくても薄い結界じゃあ弾けない。忘れていないよ……ミヒャーレ」
まただ。二人の言葉には何かがちらつく。
「その穢れた口で、我が名を呼ぶな」
矢の回避に気を取られている隙をついて、ミヒャーレが悪魔の懐へ突進する。両手でまっすぐ水平に構えたその剣は、間違いなく彼の眉間を貫く軌跡を描いていた。が、ルキとてそう簡単に負ける訳にもいかない。矢を全て弾ききり、一瞬で立て直した両手を前面に掲げ、大天使の渾身の一撃を止めた。
しかしそれらは全て、ミヒャーレの策略のうちだった。ミヒャーレはさらに剣に力を籠める。ルキも両手で防御壁を作り、それを受け止めている。――そこへ、先ほど弾いた矢が大きく旋回して、再びルキを狙った。
さすがのルキも、笑みをひきつらせた。
イーヴェは立ち上がって駆け寄り、一本でも身代わりになって止めようとしたが……到底間に合わない。光の矢は、次々にルキを襲い、眩く光をまき散らした。
「ルキィッ!」
喉が引き攣れそうな中、声を絞り出す。ああ、だめだ。いくら彼が強い悪魔といえど、天界一の天使の光をああまでまともに受けては。……がくりとうなだれて、地面に膝をついた。
「……あーもう、ホントにホントに容赦ない」
――ルキの声がした。
光の中から現れた彼の背には、真っ黒で大きく美しい翼が……十二枚。アッシュブラウンの豊かな長髪が緩くその背に流れていて、その髪の流れを分ける鋭く禍々しい角が長く長く天を指していた。纏う衣服も翼と同じく真っ黒だが、それでいて、鈍い光沢がその布の超凡さを如実に示している。
真昼の光の中、ルキは笑う。新月の夜の色より深い黒を纏って、明けの明星の瞳で笑っている。
「もうちょっと隠しておきたかったのに、バレちゃったじゃん」
高位の悪魔……どころの、話ではない。天界で最も神に近い天使であるミヒャーレでさえ、翼は六枚。
その事実が何を示すのか。――それは、明確である。
かつて、ミヒャーレよりもさらに神の近くにいた"ルキ"。そう……、はるか昔、神の玉座を夢見て、神に反逆した大罪の堕天使――"ルシフェーレ"。伝説に残るその堕天使は、ミヒャーレに討伐されて地の底へ堕ち、それでもなお魂は朽ちずに、そこで魔王になったと伝わる。
「忌々しいサタンめ。ようやく真の姿を表したか」
吐き捨てるようにミヒャーレが言う。ルキはうっとうしそうに髪を流しながら、ひどいなあ、と苦笑して見せる。
「忌々しいとかさーあ? お兄ちゃんに向かって」
「黙れ」
伝説によると、彼らは双子であると伝わる。天において最も尊く美しい天使のひとりであると称されたルシフェーレ。そしてミヒャーレは、彼の双子の弟だった。双子にもかかわらず、兄より未熟な存在として彼は生まれた。
「貴様はただの敵だ。天の玉座を夢見て神に反逆した身の程知らずの愚か者に、兄を名乗られるいわれはないな」
「ふふーん……お前って体は大きいくせに心は繊細だよねえ」
見透かしたような、ルキの瞳の明星。言葉はとげとげしいが、彼の言っていることは的を射ていた。ミヒャーレの言葉に見え隠れしていたものの正体。それは裏切られた愛情、その裏返しだったのだ。
「黙れ!」
慕っていた兄による突然の裏切り。そしてそれを討伐したのがミヒャーレ本人であるというその結果。それだけで、この兄弟を襲った悲劇の残酷さは察するに余りある。ルキも一見冷血であるように見えるが、イーヴェにしてみればそれが演技であることなど疑う余地もなかった。
『あーあー君といると調子が狂うよほんと。弟のこと思い出しちゃうからかな。君みたいな子、本来なら地獄に来るような魂じゃないしさーあ?』
思い出すだけで調子が狂うほど、深い思い入れのある弟。地獄に来るような魂ではない弟。そこに見えるのはただ、弟への愛だ。先ほども防御に徹するだけで、攻撃のそぶりすら見せなかったことからも明らかだ。――ルキは今でも、弟を思っているのだ。
それなのにどうして、彼らはすれ違ってしまったのだろう。そこにはきっと、なにか、理由がある。
「ま、なにを言っても今更だ。確かに僕はもうお前の兄ではないし、そもそも大罪人を前にして、見逃す訳になんかいかないんだろうからね」
ルキは片手を肩の高さに掲げると、その手のひらに赤黒いもやを収束させる。最初は形を成さなかったそれが、だんだんと球の形になっていく。
「この姿なら、思う存分戦えるってやつだ……。お前、自分で自分の身を危険にさらしたようなもんだよ?」
彼は一つそれを作り出すと、さっと円を描くように、地面と水平に腕を振った。すると地面に魔法陣が出現し、そこから無数の同じ球体が周囲を囲むように浮かび上がる。
「かかってこいよ……ミヒャーレ。今度の僕に死角はないぞ」
ルキの笑顔は悪魔的だ。これまでにイーヴェが見た、どんな笑顔よりも。
ミヒャーレは地を蹴った。大剣を振り上げ、兄の頭上に迫った。そこに迷いはない。一撃で仕留める覚悟が見て取れた。
「ふふ」
ルキが笑った。
――音もなく、闇が広がった。
「来いッ、イーヴェ!!」
笑い声から一転、鋭いルキの声が響いた。突然広がった闇の中からルキの腕が現れて、イーヴェの腕を取る。
「貴様ァッ!」
ミヒャーレの鋭い怒気が背後から迫る。腕はルキに引かれたまま、次の瞬間には地の底へ向かって落ちていた。
「あ……」
暗闇から抜けて、地獄の空を落ちていた。さすがに自室へそのまま繋ぐ時間はなかったのであろう。頭上には真っ赤な空の広がる中を、ルキはしばらくそのままで落下していたが、やがて十二枚の翼でゆったりと羽ばたきだした。
逃げ出せた、らしい。
「ひどい目に遭った」
独り言のようにルキが言った。だからあの地域には行きたくなかったんだ、とも。ミヒャーレの守護地域だったからだろう。大胆不敵を地で行くルキが、今は闘志をなくして死を待つだけの獣のようだった。その肉体には傷一つないが、精神はひどく疲弊したことだろう。
自分の翼で羽ばたきながらも、イーヴェは大人しく腕を引かれて、ルキについていく。
かける言葉は、見当たらなかった。
彼がイーヴェを抱えたまま戻ってきたのは、いつもの執務室ではなくいわゆる私室であった。シンプルで、シックな家具で調えられているのは変わらないが、途方もなく広かった。"魔王"の自室であるのだから、当然か。
ルキは依然として、憮然とした顔をしている。
「『このあたりの管轄してる悪魔』だなんて全くの嘘じゃないですか」
イーヴェが言うと、ルキはさらにふてくされた。
「なに? 人聞き悪いよ。"このあたり"の範囲を限定した覚えはないけど。つまり地獄全体、僕にとっては"このあたり"。君の勝手な勘違い」
「…………」
うまく言いくるめられた気がするがぐうの音も出ない。ずるい。とイーヴェはこっそりふくれた。
「だからまあこれからは安心して魔王に祈りなよ。僕を思い浮かべて祈るんだ。そしたら気まぐれに助けてあげるかもしれない。……少なくとも、祈っただけでそういうやけどさせたりはしない」
ルキはイーヴェの脚を指さす。そこにはアイトの夢の中で負ったやけどがある。
「それほどひどい傷ではありませんよ?」
「そういう問題じゃないだろ。こっちおいで」
ルキが不機嫌そうな表情で、寝台の上にイーヴェを招く。不機嫌ではあるが、先ほどよりは少し覇気を取り戻しただろうか。大人しく彼に従い、寝台に乗り上げる。ルキは脚を伸ばさせて、やけどの程度を検めた。
「もしかして、癒しの術とか使えてしまったりするのですか?」
「そんな訳ないでしょ。僕アクマだよ」
とっさにピシャリと反応が返ってくる。
「でも、ほら、魔王様ですし」
「魔王だからこそ、そういう聖なる力は使えないよ。まあ天使だった頃も使えなかったけど。回復術なんてのは、この世の理を覆す禁忌の技だから」
禁忌だなんて大げさな……。そうルキに返すと、彼はわかってないなと不機嫌さを上乗せした。
「だってそうだろ。万能の癒しの力がこの世にあったら、死ぬ人間なんていなくなるじゃないか。子を産み働く若い人間もいずれ老人になる。その老人が永遠に生き続けたら、子も産めないし働けない、でも場所と食料は必要な存在がどんどん増えていくんだよ」
「そんな言い方!!」
「でも、そういうことだよ。生きていくってそういうこと。だから僕ら天使と悪魔は年を取らないし、めったに生まれないんだ。もし新しく生まれる命があるなら、死ぬ命も必要だ。そうじゃなきゃ、世界は回らない」
残酷かもしれないけれど、それが現実。ルキは長いまつ毛を伏せ気味に呟いた。それは諦めの表情に近かった。
イーヴェは、ぶつけたかった感情をぐっと飲み込んだ。魔王のくせに、彼だって救えるものならば救いたいのだろうと、察してしまった。こんなに優しい彼がなぜ、神の玉座を夢見て反逆などしたのだろう。
「命を延ばすのは、気まぐれな神様にだけ与えられた特権。僕らにできるのは、奪うことだけ。それは永遠に変わらないんだ」
ルキは脚のやけどを指でなぞった。イーヴェは小さく飛び上がる。
「痛い?」
「そりゃあ痛いですよ!」
何を考えているのか、この男。いや、何も考えていない。絶対に何も考えていない。まじめな話をするのに飽いてつい傷に触れたに違いないのだ。優しい、は前言撤回しよう。言うなれば気まぐれ、だ。
彼は悪びれない。
「んー。痛いのか。ご愁傷さま」
「それだけですか」
「使えないしね、回復術」
だったらなぜ傷を診たのだ。しかも今痛かったのはルキのせいではないか。謝れとまで言わないがご愁傷さまはないだろう。
「帰ります」
自室へ戻ろうとすると、ルキに手首を掴まれた。
「まあまあ、冷やしてあげるから待ちなって」
ルキは指先をやけどの上にかざすと、空中に水の塊を生み出した。それはまるで氷嚢のように、肌に触れてなお形を保つ。悪魔の魔力のなせる技だった。すっぽりと水の塊に覆われて、ようやく患部が冷やされる。
「こういうのは応急処置が大事だって、君の神父さまは教えなかったの? このくらいの傷ならまあ綺麗に治るだろうけど、悪魔だからってどんな傷でも元通りって訳にはいかないから気をつけなよね」
突き放したかと思うと、またこうして世話を焼く。彼は不思議な悪魔だった。
「なに、その顔。なんか僕変なこと言った?」
「いえ……本当に、気まぐれなんだなって」
「なんだそれ」
きょとん、とした顔から一転。ははは、とルキが珍しく大笑いした。
「君さっきからぐるぐると、なに考えてるかと思えばそんなこと? てっきり僕、堕天のこととか魔王のこととか問い詰められると思ってたんだけど」
普段は人間に近い姿をしているルキ。今は角も翼も魔王のそれだ。問い詰めたいのは、山々なのだが。
「だって、結局はなにを聞いたって……私の目の前にいるルキが、私にとってのルキですから」
たとえ問い詰めたところで、ルキはいつもの笑顔になにもかもを隠してしまうと思ったのだ。自分の事情など話しはしないだろう。それなら、そんな自虐のかたちに作られた物語など聞く必要はない。ルキはきっと、正しい心で堕天したのだと自分が信じていればそれでいい。
ルキは笑む。
「困った子だなあ、君。ほんと昔の弟そっくり。そんなに買いかぶられちゃあ、僕も期待に応えなくちゃいけないな」
……気のせいだろうか――、ルキの背の翼が、光を弾いて一瞬、純白に光った気がした。
「原初の愛し子に、祝福を」
ルキの手に包み込まれた両手に、ほのかな熱が生まれた。両手が解放されて見てみると、左手の親指に金色の指輪がはまっていた。
「これは……」
「君の魔力を増幅させる指輪。今まで使えなかった術も少しは使えるようになる」
どう? 僕って、優しいアクマ?
ルキはおどけて見せた。不敵なその笑顔は、いつも通りの彼の笑顔だ。
イーヴェは笑った。
「そういうことを言うから、台無しなんですよ。優しいルシフェーレ」
「ふふ」
ありがとう、とお礼を言うと、どういたしましてと声が返る。ここは地獄の中にある、美しい世界だった。




