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6.呼吸

 


「や、やっ、た」


 ルキからの補給を終えたイーヴェは、夜の明けぬうちに再び地上での生気調達に挑戦していた。そして、成功した。


 夢の中から這いずり出ると、男性は元通り寝息を立ててぐっすりと眠っている。ルキからの任務はこれで完了だ。


(これでようやく、神父さまに会いに行ける!)


 ぐっと感動をかみしめた。

 一刻も早くルキに報告しようと、地下に降りる。彼に造られた身体だからなのだろうか、彼がどこにいるのかはなんとなくだがわかるのだ。


「ルキ!」


 落下するままにルキの執務室へ飛び込むと、やはりそこに彼がいた。我ながらうまく着地ができたと思いつつソファーに座る彼を見上げると、ルキは呆れたようにこちらを見ていた。


「君さあ、普通にドアから入ってくる気ないの? まあ、僕の上に落ちてこなかっただけ進歩なのかもしれないけどさ」


「一刻も早く、報告したいと思って」


「いくら急いでても上司の執務室にノックもせずに入り込むマヌケは君くらいだよ。しかたないなあ、報告を聞こうか」


 ルキは服の襟元を正すと、ソファーに座りなおす。美形なので、そんな何気ない仕草もいちいち様になるルキであった。


「あのねルキ、私ちゃんと生気調達できましたよ!」


「お」


「相手の人も起きてこなかったし、吸いすぎて命まで奪ってしまうようなことにはならなかったし! ね、これって成功でしょう? もう神父さまに会いに行ってもいいでしょう?」


「ふふ、よく頑張ったねイーヴェ。いいよ、君の大好きな神父さまを探して会わせてあげる」


「やったあ! ありがとうございます!」


「お安い御用だよ」


 ルキは手のひらの上に分厚い本を出現させると、パラパラとめくった。


「えーと、君の神父さまの名前は?」


「"アイト・エディザーン"さまです」


「"アイト・エディザーン"……」


 彼がその名前を呟くと、本のページがひとりでにザアアと開いた。ルキは小さな文字がびっしりと並ぶそのページに目を滑らせる。


「……お、いたいた。これだね。小さな村で司祭やってるアイト・エディザーン。現在二十八歳」


「それです!」


「よし。連れて行ってあげるよ。えーと、教会の所在地は、と、……、あー……」


 目を滑らせるうち、ルキがみるみる「しまった」という顔になった。何かまずいことでもあったのだろうか。尋ねると、ルキは苦虫を噛み潰したような顔で、否定の意を返した。


「いや、まあ、ちょっとこの辺りには近づきたくなかっただけ。だけど約束したことだから、連れて行くよ」


 ルキがアイトに関する記述を指でなぞると、その指と紙の間に黒い糸が引いた。そしてその糸を細くよって、ぐるぐるとイーヴェの左手首に巻き付けた。


「なんですか、これ」


「君と神父さまを繋ぐ糸。これが、彼の居場所を教えてくれる」


 行こう。ルキがイーヴェの手を引いた。そして窓枠に足をかけると、その大きな翼でもって風をつかんで飛び立った。


「きゃあっ」


 自分の羽を広げてついていこうとしていたイーヴェだったが、到底不可能だ。彼の飛ぶこの速度を前にしては、イーヴェの翼などただの空気抵抗にしかならない。


「その羽はおとなしく畳んどきな。その代わりに君は神父さまがどこにいるのか教えてよ」


 地上に向かって羽ばたきながら、ルキはイーヴェを抱えなおした。イーヴェが手首に目線を落とすと、糸の先が顔を出して前方の方角を指し示していた。


「む、むこうの方にいらっしゃるみたいです」


「むこうね。了解」


 風をつかみ、風を切ってルキは飛ぶ。地下の地面をぐんぐん引き離してあっという間に地上まで飛び上がると、石畳の上に着地した。


「あっ!?」


「ん?」


「すみません、出直しましょう、ルキ! ここの町は今危ないみたいなんです」


 そこは教会のある小さな村ではなかった。先刻、ミヒャーレと遭遇したあの町だ。ここに、彼も来ていたとは。イーヴェは運命のようなものを感じながらも、アイトとの再会は先延ばしになることを覚悟した。


 夜が明けている。雲も少し晴れている。先刻この町を訪れた時より状況は改善しているようだが、天使らがもうこの町を出たとも限らない。見つかれば戦闘になるのは必至だった。


 イーヴェがルキの袖を引いたが、彼は特に撤退をするつもりはないらしい。


「まー、厄介ではあるけど、気づかれないように神父さまに会って帰ろうよ。たぶん、僕ら悪魔が教会に忍び込むよりはずっと簡単なんだからさ」


 確かに、彼の教会には対魔用結界が張られている。実際、ベリュオルという悪魔でも入れなかったようだし、下級悪魔であるイーヴェが突破することは不可能だろう。


 だとすればこれは好機なのだ。これを逃せば、次に彼が教会から出るのはいつになるかわからない。


「……わかりました」


 手首の糸は一つの民家を指し示している。おそらくそこに彼がいるのだろう。


「行こう」


 ルキに手を引かれて民家の前まで移動する。外から声をかけてみるが、返事がない。普段は早起きなのに、まだ眠っているのだろうか。


「眠ってるなら好都合だよ。夢の中で会えるんだから、とっさに祓われる心配もない。行っておいで」


「……はい」


「あ、言っておくけど、夢じゃない現実で直接人間と交わったりしたら、そいつ確実に生気吸い尽くされて死ぬからね。で、当然その魂は地獄行きだから。あはは、生殺しでかわいそうだけど頑張って~」


「ご心配なく。お顔が拝見できたら、それで十分です」


「またまた、強がっちゃって」


 ルキはにやにやと笑っている。あの死に様を知っているにもかかわらずそんな冗談が言えるとは人格を疑う。いや、知っているからこそなのか。いくらまともな性格に見えても、彼もやはりれっきとした悪魔なのだ。


 無視して、扉の中に入り込む。


 手首の糸に導かれるまま壁をすり抜けると、そこに彼がいた。


「神父さま……」


 眠っている。夢にまで見た彼の姿だ。


 顔をのぞき込むと、そこには疲労の影が色濃く浮かんでいた。尋常ではない血と、死の気配も漂っている。きっと水を浴びたのだろう、髪の毛がまだ少し湿っていた。投げ出された右手には包帯が巻かれている。


 痛ましい姿だった。


 そっと額を合わせると、彼の夢の中へ入り込む。


 うつつから夢へと深く潜っていくと、どんどん景色が暗くなっていく。地面に足がついて辺りを見回すと、真っ暗な空間の中で、呆然と彼が立っていた。触れたらくずおれてしまうのではないかとさえ思わされた。


 静かに、一定の距離を保って、彼の視界に踏み込む。

 彼の緑の瞳が揺れて、焦点は合わないながらもこちらの姿を捉えた。


「神父さま」


 呼びながら一歩ずつ近づいていくと、彼からの返答があった。


「誰、だ?」


 ああ……そうか。夢の中で自分の姿は、相手の理想の女性像に変換される。自分が彼の理想像であるはずはないのだ、当然。


「……、あなたを癒す存在でありたいと願っています」


 今の自分にできるのはそれだけだった。


 彼は焦点を合わせることをあきらめたのか、瞼を下ろしてその場に座り込んだ。

 彼の理想の姿をしているはずなのに、視線すら留めていてくれないようだ。


 おおよそ異性を異性として見ている気配のない彼の、理想の女性像とはどのようなものなのか気になるところだが、少なくとも顔は確認できそうにない。身長は彼よりやや低く、体型はごく平均的、ということはわかったのだが。


 しかたがないので彼の隣に座り込み、こてん、と肩に頭をもたせかけた。


 彼の周囲から漂っていた死と、血の気配。あれは誰のものだろう。一人のものか、複数人のものか、それはわからないが、どちらにせよあれだけ濃い気配だ。その現場は凄惨な状況であったろう。それを見たことが、彼のこの状態に関係しているのだろうか。


 そんなことを考えていると、彼がこちらに顔を向けた。

 今度はぼんやりとだが焦点が合っている。ようやく、自分の好みの女性が隣にいることに気が付いたのだろうか?


 彼はまたしばらく黙り込んでいたが、やがてぽつりとつぶやいた。


「……エワンナ?」


 ……、誰の名前だろう……。


 今のこの姿は、そのエワンナという女性のものなのだろうか。だとしたら、きっとその人が彼の理想の女性その人なのだ。


 違うとも答えられずにいると、彼がふわりと破顔した。


「ああ、やっぱり君だ。俺はすっかり嫌われたものとばかり思っていたが……またこうして会えるなんて」


 穏やかな彼の笑み。大好きな笑顔。しかし、それが自分に向けられたものではないと思うだけで、こんなに苦しいものか。

 彼の砕けた口調から、彼女とはとても親しい間柄であることも伺える。


 きゅう、と胸が痛くなる。


「エワンナ……」


 不意に抱き寄せられ、愛おしむように彼がその名前を呼んだ。


 その瞬間、あたりの暗闇が音を立てて崩れた。

 眩しさに目を細める。真昼の屋外の景色らしい。木々と、草むらと、群生する花。背後からは川のせせらぎが聞こえる。夢だというのに、風と共にむせ返るような緑の匂いがした。

 街生まれ、箱庭育ちの自分にはなじみの薄い風景だ。


 そっと離れた彼ともう一度向かい合う。心なしか、若返っている気がする。服装も神父のそれほど格調高くはない。そして常は冷静な緑の瞳に、水面の光が熱っぽく映り込んでいる。よく見ると、そこに自分の姿が映っていた。


 深い色の髪を短く切りそろえた、そばかすのあどけない、きれいな人。――自分とは、似ても似つかない。


 とどめを、刺された気がした。


 彼の胸ぐらにすがり、ぎゅっと縮こまった。何も言わずに抱きしめてくれるその優しささえ苦しくて、ぐりぐりと頭を押し付けた。そうすると、彼の腕に一段と力がこもる。


 苦しいですと訴えると、彼は大げさなほど素早く腕を解いた。


「すまない。つい」


 目をそらすと、口元にこぶしを当てて考え込むような動作をする彼。険しく寄せられた眉はしかし、どこか困っているようでもあった。瞳にゆらゆらと揺れる光を見て、ああそうかと納得した。


 自分は夢に入り込んだサキュバスだ。そして彼は人間の雄だ。

 そこに構築される間柄には、一つとして例外は存在しない。


「アイトさま」


 呼ぶと、彼が振り返る。そのまま彼を背後の木に縫い留めるようにのしかかった。


「目を閉じて」


 告げて、キスをしようとした。


 ……しかし、彼は苦しげな表情でそれを止めた。


「すまない、エワンナ。君も知っての通り、俺は聖職者を目指す身だ。司祭の妻帯は許可されていないし、そうである以上無責任なことはできない」


(――ああ……、そうだ)


 これが、彼だ。


 たとえ心から愛したひとに迫られようとも、サキュバスの魔力にあてられようとも、彼は不誠実なことはしない。そして自身の恋のために、人々を救う司祭となることを諦めたりもしない。


 責任感が強く、公明正大。神を愛し、世界を愛し、自分の持てる限りのすべての力で、他者を救おうとする。


 そういう人なのだ。

 そういう人だからこそ、好きになったのだ。


 脳裏であの日の悪魔が笑う。


『ああそうだ、イーヴェ。愛しいお前に一つ教えておこう。私は……――貴様の想う神父などではないぞ。ふふふ、はははは! あははははは!』


 笑う。悪魔が、ベリュオルが笑う。目の前の愛しい彼の姿で、声で笑う。


 形ばかり似ていても、全く違ったのだ。物腰が穏やかでも、最初から根本的に違っていた。それなのに、あの日の自分はそんなことにも気づかずに。


「お許しください、神父さま……」


「何を懺悔すると言うんだ、エワンナ」


「私は、あなたを想っているつもりで、自分のことしか考えていませんでした。恋に盲目になるあまり、あなたの姿で甘言を吐く悪魔に、この身を捧げてしまいました」


「! あ、くまに……身を……?」


 彼が目に見えて青ざめた。それを見て、はっとする。彼にとって今自分は「エワンナ」なのだ。


「ああ、神父さま違います。私は、私は――」


 動揺して、無意識に胸の前で手を組んだ。神様に祈る動作だ。いつも、そうすると不思議に心が落ち着いたのだ。……もう一度繰り返す。無意識だ。今の自分がどういう存在なのか、熟慮した末の行動ではない。


 突然、足元から光が舞いあがる。その光は、悪魔の身にとっては炎と同じだけの殺傷能力を持っていた。


「ッ――!」


「イーヴェ!」


 彼が呼んだ。同時に、両手が彼によって捕まえられ、引きはがされていた。光は止まり、霧散して、肌は少しやけどのように赤くなっていたが、大けがには至っていなかった。


 肩で呼吸をしながら、瞳孔がきゅうと小さくなっている緑の瞳と見つめあう。悪魔も人間のように呼吸をするのだ……。今まで意識したことのなかったどうでもいいことが、心によぎる。そのくらい、一瞬頭が真っ白になるくらい、怒涛の数瞬だった。


「イー、ヴェ……」


 もう一度、彼が呼んだ。


 ……そう、呼んだ。目の前の悪魔の、本当の名前を。


「――はい」


「イーヴェ、なんだな。そうだ、その祈りの光は、イーヴェだ。どうして見間違えたりしたのか」


 いつの間にか、彼は普段の神父服を着ている。風景も、あの小さな村の教会の礼拝堂だ。彼の自我の年齢が戻ったのだ。

 それと同時に、彼の目に映る姿が生前の「イーヴェ」のものへと変わったようだ。


「なんだか久しぶり……のような気がするが。私は教会を空けていたんだったか……? すまない、記憶がはっきりしないようだ」


 これが夢であることすら、彼はわかっていない。先ほどまで川のせせらぎが聞こえる場所にいたのに、今ここに座っているという不自然さにもなんら疑問を抱いていない。


 彼はステンドグラスを見上げていた。質素な教会だから、他に見るものもないが、それだけはこの教会の規模に似合わず立派なものだった。


 描かれているのは、神によって創られた原初の男女が、魔王サタンが姿を変えた蛇にそそのかされて、禁断の果実を口にしてしまう場面だ。それは人類の"原罪"。それをもって人間は楽園を追放され、産みの苦しみと労働の義務から逃れられない存在となったのだ。


 ひりひりとやけどの痛むのを感じながら、彼の横顔を眺めていたが、やがて彼は目を閉じてぐったりと椅子の背にもたれかかった。大丈夫ですかと顔をのぞき込もうとするが、彼は力なくそれを押しとどめる。


「すまないが、放っておいてくれ。たぶん疲れているのだと思う」


 ふ……、とつかれたため息の重さに思い出す。そうだった、彼はサキュバスの魔力に当てられているのだ。今までの人間と比べるとあまりにも穏やかな変化なのは、彼が悪魔祓いで、その魔力に耐性があるがゆえなのだろうか。


「なにか、お手伝いできることはありませんか」


 思わず口を突いて出た。自分でも驚いた。

 彼の性格を思えば、申し出など迷惑だ。つい先ほど懺悔したばかりだというのに。彼の様子がつらそうなのでふと尋ねてしまった。


「す、すみません」


 慌てて謝ると、彼は瞼を持ち上げて、緑の瞳でこちらを見ていた。怒ってはいない。なんというか、眠たげだ。悩ましげ、ともいう。一つ屋根の下で五年も過ごしたにもかかわらず、一度も見たことのない彼の表情に目を奪われていると、その顔が間近に迫る。


「わ、……」


「肩を、貸してくれると助かる……」


 頬に、彼の柔らかな髪が触れた。ブルネットの、やや癖のある、清潔に切りそろえられた髪だ。肩の上には、彼の頬の温度がある。


「お好きなように、どうぞ」


 それだけ言うのがせいいっぱいだ。はじめて、想い人にこうまで無防備に寄りかかられて、心の底まで冷静でいられる人間がいるのならばぜひともお目にかかりたい。


 彼が寄りかかりやすいような体勢を取りながら、長いことそうしていた。眠っているのかと思えばそうではなく、時々頭を置きなおして、深くゆっくりな呼吸を規則正しく繰り返している。


「神父さま……」


 そろそろ、現実で目が覚める時間だろうか。彼が目を覚ます前に夢から抜け出して、姿を消さなければ、起きた瞬間に悪魔の気を察知してとっさに祓われてしまうかもしれない。


 名残惜しいが離れようと、彼の肩に手を置いた。すると、その手をぎゅっとつかまれた。その力の込め方が、彼のゆっくりな呼吸とそぐわず、うろたえた。


 身を引こうとすると、彼が顔を上げ真正面から見つめあう。どろりと溶け落ちそうな熱を帯びた緑が、苦しげな表情の中ですがめられた。


 高い体温。


 ひゅ、と鋭い呼吸音。


 目覚めの気配がした。

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