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5.悪魔憑きの悔恨

 町に着いたアイトを迎えたのは、ただただカラスの喚き声のみであった。日が暮れて間もないこの時間、本来ならばまだ人々が寝静まっている時間ではない。しかし人々が表を出歩いている様子は皆無で、誰もがみな家に閉じこもり怯え切っているようだった。


 ともに山を越えてきた男性に案内されるまま最初に悪魔憑きが発生したという家に向かうと、その家の玄関扉には大きくバツ印が書かれていた。おそらくは、魔女狩りに近い行為だろう。この家を襲った悪魔が町に出ることを恐れたものだろうが……正直こんなものに意味はない。それは彼らもわかっているのだろうが、何もせずにはいられなかったのだろう。恐怖が蔓延しているであろうこの町の実情が胸に迫る。


 さあ……まずは一体、この町の恐怖を取り除こう。


 トントントントン。扉をノックする。と、中から怯えたような複数の悲鳴が上がった。驚かせてしまったようだが一家全滅という事態はどうやら免れているらしいことに安堵する。


「驚かせてしまって申し訳ありません。山を越えたところの小さな村で司祭をしているものです。悪魔がそこにいるのならば祓わせていただけませんか」


 声をかけると、しばらくの沈黙の後、返答があった。


「……どうぞ、お入りください」


 案内役の男性にここで待っているように告げて、扉を開いた。


 失礼します、と――その言葉は声にならなかった。


「よこせ!」


「!」


 扉の開いた隙間から、何かが飛び出した。とっさに隣に控えていた男性を突き飛ばし、その得体の知れない何かとの間に割って入った。


 そうしてはっきりと対峙すると、それが人間の女性であると知れた。よこせよこせと正気を失い叫んでいる。迷わずこちらの首を狙ってくる両手を捕まえてねじ伏せようとすると、今度は肩をがぶりと噛まれた。痛い。尋常な力ではない。成人男性でもここまでの咬合力はないだろう。神父の平服であるカソックにはそれなりの厚さがあるが、噛み千切られてしまうのも時間の問題だ。


 今すぐにでもロザリオを取り出して彼女についているだろう悪魔を祓ってしまいたいが、今手を離せば確実に首を折られて死ぬだろう。ちらりと後ろをうかがうが、男性はショックで卒倒していた。残念ながら手を借りることはできなさそうだ。……となれば、致し方あるまい。少々手荒な手ではあるが。


 心の中で詫びながら、女性の両手ごと体を強く押して引きはがす。一瞬出来た隙を見逃さず、膝で強くみぞおちを打つ。そのまま片腕を引いて体を回転させ後ろを向かせると地面に押さえつけて、取り出したロザリオをかざして彼女の自由を奪った。あいも変わらずよこせよこせと喚いているが、動きはほぼ止まった。あとは彼女の体から悪魔を引きはがし、消滅させるだけだ。


「邪悪なるものよ、お前の名はなんだ」


「アアアふざけるな、よこせよこせ、その体をよこせ!」


「神よ、偉大なる主の御名によって今祈りを捧げます……」


「グウアアアアァヤメロヤメロおぉおぉ」


 苦しみのたうち回った悪魔は自らの名を吐いた。聞いたこともない、下級の悪魔らしき名前だ。このロザリオに直接触れてなお体を手放さなかったところを見ると、下級は下級でも少しは骨のある悪魔のようではあるが。しかし、名前さえ手に入れればこちらのものだ。その体から出て行けと命令すると、もはや逆らうすべを持たぬ悪魔ははじかれたように外へ出た。人の形を成していないそれはまさしく悪魔と呼ぶにふさわしい姿だった。


「イーヴェをそそのかしたのは、お前か」


「そんなやつ知ららねえよお!」


 聖書とロザリオをまとめ持った片手をかざしている状態で詰問したが、悪魔は否定した。名を得ているこちらの質問にそもそも悪魔は嘘をつけないので、イーヴェを襲ったのは本当に彼ではないようだ。


 それならばもう、用はない。


 カソックの内側のポケットから聖水のビンを一つ取り出すと、勢いよく振りまいた。まともに浴びたその悪魔は、声を発する間もなく消滅した。ついでに辺り一帯の邪気がほんの少しだけ晴れた。


「大丈夫ですか」


 いまだ地面に伏したままの女性を仰向けにさせて肩を叩くが、反応はない。顔色も悪く、脈も微弱で、あまり状態はよくなかった。悪魔に生気を奪われたのだろう。


「失礼しますよ」


 膝の裏と肩に手を回してぐっと抱き上げる。ほんの少し開いたままの扉の隙間から声をかけて、彼女を家の中に運ばせてもらう。


「あ、あの、妻は……」


 彼女の夫らしき男性が、恐る恐るといったように尋ねる。青白い顔で眠る彼女を寝台に寝かせながら、アイトは答えた。


「心配ありません、悪魔は消し去りました。二、三日も栄養のあるものを食べて休めば、元の生活に戻れるでしょう」


「! そうですか……! ありがとうございます」


 男性の傍らには二人の幼い子供たちもいて、その二人も喜びの声を上げた。よく見ると、彼らの身体にはところどころ痛々しく引っかき傷や噛み跡が残っている。


 しゃがみ込んで、一言断ってその傷をあらためる。間違いなく、悪魔に憑かれた母親がつけた傷だろう。手加減のないそれらの傷は痛々しい。


「痛かっただろう。よく耐えたな」


 また聖水のビンを一本取り出して、彼らの傷を清めてやる。もちろんそれでただちに快癒する訳ではなかったが、邪気を清め、彼ら自身の回復力を高める力はあるだろう。


 傷の痛々しさに反して、彼らは気丈に笑った。


「いつかママは戻ってきてくれるって信じてたから、痛くなんてなかったよ」


「ね。また仲良し家族に戻れるってちゃんと信じてたもん」


「……そうか」


 ふ、と笑みを返す。


 家族か。家族の絆とはかくも尊いものか。朝のドーラの言葉が蘇る。信じるものは違っても、大切な家族だと。つらいこともあるが、耐えられると。


 幼い頃から天涯孤独の身であった自分にはわからぬことだ……と思いかけて、ふとイーヴェの顔が浮かぶ。そうか、彼女は間違いなく、家族だった。


「これからも家族みんなで、仲良くな」


「うん!」


「ありがとう!」


 立ち上がると、彼らに別れを告げて、踵を返す。外に置いてきた男性が心配だ。背後からは女性の夫が何度も感謝を述べる声が聞こえたが、家の扉を出る直前、子供たちの歓声が上がった。よかったよかったと泣く様子からして、母親が目を覚ましたのだろう。もう安心だ。


 パタンとドアを閉めると、案内役の男性を揺り起こす。無理やり目覚めさせるのは申し訳ないが、この不穏な町の往来で眠る彼を放置していく訳にもいかないのだ。


「すみませんが起きてください。次のところへ向かいましょう」


「ぅあ、あ……?」


 寝ぼけ眼をこすって男性が起き上がる。先ほどの一件はよほど肝を抜いただろうに、呑気なことであった。


「次の悪魔を祓いに行きます。案内をお願いできますか」


「あ、ええ、はい……ひょっとして俺、気を失っちまってました?」


「ええまあ、ひょっとしなくても」


「うおお、こりゃまたご迷惑をおかけいたしました」


 いやーお恥ずかしいと頭を掻きながら男性は立ち上がり、次の現場へと案内してくれた。


 そこで悪魔を一体、そしてまた次の場所で一体、と悪魔を退治して回るうちに、いつの間にか夜は更け、そして明ける直前になっていた。一番闇の深い時間帯だ。西に沈んでいく下弦の月だけが闇夜を薄く照らしている。


「すみません、こんな時間まで。ただでさえ山を二度も越えてお疲れでしょう。あとは私が探しながら回りますので、もう家に帰って休まれてください」


 男性にそう告げると、彼はなんのなんのと笑って力こぶを作って見せた。


「ここまで来たら、精一杯お手伝いさせていただきますよ。悪魔祓いのお手伝いも楽しくなってき」


 ころん。


 あっけないほど軽い音がした。


「……え、?」


 状況が理解できないまま、意味をなさない声が空中でさまよった。


 目の前にいた男性の、首から上が突然消えていた。


「っ、は、?」


 一瞬の後、勢いよく血を吹き出したその身体がこちら側に倒れ込んでくる。思わずとっさに受け止めると、その背後の薄い霧の中から、影がゆらゆらと浮かび上がった。


 敵だ。


 冷静な思考がようやく息を吹き返す。何事にも動じず表面の冷静を保てることが自分の取り柄だったはずだが、あまりにも突然のことに、思考が三秒ほど停止していた。


 この緊迫した状況の中で三秒の空白は命取りだ。


「く!」


 音もなく放たれた一閃。後ろに飛び退いてかわすが、反応が遅れたために喉元にかすった感触があった。傷は深くはない。おそらく。なにせ男性の返り血で全身濡れていて、自分の出血量がわからなかった。


 次の攻撃を予期してぐっと足に力を込めるが、二撃目は一向に訪れない。


 攻撃を仕掛けておいて、それきり佇むだけの影を見据えながら、未だ抱えたままだった男性……の遺体を地面に下ろす。


「何者だ。ただの下級悪魔ではないな」


 影に問うと、クク、と喉を鳴らして笑う気配がした。


「ご名答。地獄広しと言えども、この私を超える存在はいないと言っていい」


 霧の中から姿を現したそれは、身の丈ほどもある大きな鎌を持った小柄な老人だった。これがこの世で最強の悪魔か? ……否。その身体は人間のものだ。先ほど祓ってきた悪魔と同じように、人間の身体を乗っ取り操っているにすぎない。


「邪悪なるもの、姿を見せろ」


「ふふふ……それが相手にものを頼む態度か? これだから人間は、下等な種だというのだ」


 笑う悪魔を今すぐに人間の器から引き離したいところだが、真名がわからない以上まともな手出しが出来ない。ロザリオを構えはするが、まるで隙のない悪魔にそれを触れさせるのは至難の技に思えた。


 脂汗が額に滲んで、浴びた血液が目に向かって流れていく。視界を奪われないよう片手で拭うが、思いのほか粘性の高い血液は思うように拭い去れない。


 熱かったその液体は夜の空気に冷やされて、身体中から体温を奪いつつあった。


「苦しめ、苦しめ人間。二度と貴様相手に油断などせぬ。貴様はじわじわと確実に、なぶり殺しにしてやるのだ」


 二度と……。一度、会ったことがあるというのか。こんなにも凄まじい殺気を纏った悪魔に。そして取り逃がしたのか。そんな馬鹿な。自分は今までに一度も悪魔と対峙して取り逃がしたことなどないはずなのに。


「何者だ、お前は何者だ!」


 取り出した聖水をビシャリと浴びせかけるものの、すぐに湯気となって蒸発してしまう。まるで堪えた様子がない。拳を握りしめるとビンが砕け散り、手のひらに無数の傷を作った。それでも拳を開くことが出来なかった。


「ああ良いぞ、その顔だ。屈辱と憎悪で歪み、怒りを発露させた良い顔だ。人間の癖に達観した貴様の無表情が気に入らなかったが、今の貴様は他の人間と同じ、自分本位の醜い顔をしている」


 黙れ! 喉を押し広げたその声を、必死で噛み殺した。だめだ。挑発に乗ってはならない。それこそ相手の思うつぼだ。自分にはこの町を守る使命がある……こんなところで我を失っている場合ではない。


 短く深く息を吸って、吐いた。全身にじわじわと冷静が戻ってくる。


「なんだ、つまらぬな……。ならば、私が何者かがわかれば、我も忘れて怒り狂うか?」


 言ったきり、老人がばたりと倒れた。そしてその肉体から、悪魔の本体の姿が現れた。


 その姿を認め――絶句した。


 あの日、消滅させたはずの……美しい翼を持つ堕天使だった。


「なぜ、お前が、」


「この私が人間風情に消滅させられる訳がなかろう。それもこんな、幼い駆け出しの悪魔祓いごときに」


 薄い月明かりの中、ゆったりと浮かべられた笑みは妖艶ですらある。神の最高傑作とでも言うのだろうか、その造形にはなんの欠点もなかった。きっと神に愛された天使であったのだ。それが天をくだり地の底へと堕ちたのならば、どれだけ強大な力を持っていても不思議ではない。


 あの日、確かに葬ったと思っていたが……違ったのだ。霧散し消滅したかに見えた悪魔は決して消滅してなどいなかった。そう見せかけたに過ぎなかったのだ。


 それがわかった瞬間……嫌な予感がした。


 まさか。


「お前……なのか。イーヴェにあんな辱めを受けさせ、大罪を犯すよう仕向けたのは」


 もしもそうだと、したら?


 自分の未熟さゆえ取り逃がした悪魔によって、イーヴェは地獄に堕とされたことになる。自分を恨んだ悪魔の行動によって、八つ当たりによって、イーヴェは堕ちたのだということになる。


 ――私の、せいで。


「クックック、そうだなあ。半分は正解。半分は間違いと言ったところだな」


 悪魔は嗤う。勿体付けるような口ぶりで、奴は楽しんでいた。もはやそれに対して食ってかかる余裕もない。絶望にも近い気持ちで、悪魔の言葉を待っていた。


「自殺を勧めたのは、確かに私だがね。あの忌々しい人間の娘を辱めたのは貴様ではないか」


「……は?」


 与えられたのは、唐突で意味不明な言葉。


「正確には貴様の肉体、か。そこに貴様の意思はなかったが。あの夜、私はその身体を乗っ取った。そしてその記憶を覗き、愛しい者の待つ家まで帰ってやった。あとはこの私の弁舌の手管を持ってすれば簡単だった……、あの娘は何年も報われぬ恋をしていたようだなあ? ほんの少し誘えばノコノコとついてきたぞ?」


「だ、まれ」


 乗っ取った?


 つまり奴はこの身体をもって、イーヴェに、あんな仕打ちを? いや、だが。


「あの夜の私の記憶は途切れていない……お前を祓ったあと、そのまま帰路についたはずだ……そして、夜が明ける頃にようやく教会にたどり着いた」


「少し考えればわかることだろう。星が出る頃帰ると言い置いたにもかかわらず、実際に帰ってきたのは夜明け頃。その空白の時間が何を意味しているのかは明白であろう。ふふ……『悪魔憑き』の間の記憶は残るものではないのだから、気付かぬのも無理からぬことだ」


 馬鹿な。


 突然に、目の前に白い光が差し込んだ。……夜が明けたのだ。絶望の中で見るその暴力的な光は、否が応にもあの日のイーヴェの姿を思い起こさせた。ああ、こんな朝焼けの中だった。心臓から血を流して、裸の彼女は打ち捨てられていた。


「う、」


 堪えきれず嘔吐した。イーヴェを。愛娘を。こいつは、この身体でもって。


 対する悪魔は涼しい顔をしている。


「夜明けだ……。貴様を処分するのはまた今度の楽しみに取っておこう。ただで殺してもつまらぬからな」


 厚い雲を差し貫いた、暁の強い光の中で、悪魔の白金の髪がなびいた。楽しげに細められた銀の瞳に、加虐の光がそら恐ろしげにきらめいていた。


 逃げられる、と思った時にはすでに遅く、光の中で悪魔は姿を消した。

 結局名前すらわからないままに、またしても取り逃してしまったのだった。


 整わぬ呼吸に、肩が上下する。ぽつ、ぽつと、血で固まりかけた前髪から血が滴り落ちて、吐瀉物の上に赤の点描画を描いていた。



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