4.原初の女性たち
イーヴェの遺体の埋葬はその日、村人たちが教会を訪れ始める前に終えた。腐敗が進む前に、そして、村人たちにイーヴェが自殺だと知れる前に埋葬してやりたかったからだ。
自殺は、神より与えられた命を自ら放棄する、いわば神への反逆に等しい行為だ。人に知れれば罰当たりだ、大罪人だと後ろ指をさされることになる。そんな中でイーヴェを見送りたくなかったのだ。
確かに彼女は許されない罪を犯したが、そこに至るまでの悔しさ、悲しみ、葛藤、無念、苦しかったであろうそれらの気持ちを考えれば、それ以上責める気にはなれなかった。苦しみぬいた彼女の魂が地獄へ落ちたのであろうと思うと胸が重く苦しくなった。
神に愛され、天使に愛された彼女なら、今頃天界へ昇り、特別に罪が許されているのではないかなどと考えるのは楽観的であるだけではなく神父失格だろうか。
頭の先からつま先まで丹念に彼女の体を清め、服を着せ、棺に入れて葬り、墓碑に刻む姓には自分の姓であるエディザーンを与えて、祈った。生前イーヴェの周りに舞っていた光が、キラキラと舞った気がした。
朝の光を見間違えたのかもしれないが、地域の守護天使が彼女の魂を迎えに来たのだと思いたかった。
このような悲劇があっても、時は無慈悲に進んでいく。やがて一週間の時が経ち、また一日が始まる。朝が来て集まる村人らの前に立ち、今日も神の愛を説く。神の愛を各々が心の奥深くまで受け取れるように。
善人だろうと悪人だろうと、神は愛する。自ら悔い改め、隣人を愛し、神を愛し、不断の努力によってよりよい明日へ進もうとする者ならば、誰でも。
話が終わりお開きになると、それぞれが自由に動き始める。村の女性らが何人か、こちらに近づいてきて言った。
「気になっていたのですが、最近イーヴェの姿が見えませんね」
聞かれると思っていた。動揺はしない。表情も乱さない。ただ落ち着いて、用意していた返答をする。
「ああ、彼女は先日十八の誕生日を迎えたので、ここを出て悪魔祓いとしての生活を始めたのです。みなさんにご挨拶もないまま行ってしまうなんて、せっかちなことですよ」
「あらあら、言ってくれればみんなで盛大に送り出したのに! ねえ?」
「本当に。水臭いわ」
「優しいみなさんならそう言ってくださると思って、あえて何も言わず出て行ってしまったのかもしれませんね」
「お別れの時までいい子だったのねえ」
「……ええ、本当に」
"いい子だった"イーヴェの名誉のために、人を欺いた。とうとう、本当に神父失格だ。神の御前たるこの場所で意識的に嘘をついた自分はこの瞬間、許されざる罪人になった。
(お許しください、神よ)
罪悪感に瞑目したその瞬間、突然教会の扉が蹴り開けられた。
「神父様、こいつ異教徒だ!」
何事かと顔を上げると、複数の男性が一人の少女の脇を固めて強引に担ぎこんできていた。少女の薄汚れた格好に、思わずあの日のイーヴェの姿がよぎる。
「落ち着いてください。彼女はあなたに害をなしたのでしょうか?」
「いや、そういうわけじゃねーけど、でも!」
はやる足を諌めながら冷静に彼らに歩み寄り、彼女の容態を診る。殴られたのか石を投げられたのか、全身にアザや傷があるものの、意識はあるようだ。
神の愛によって人間は救われる。しかし、神の愛を受けた者がこうして異教徒を傷つけるのは悲しいことだった。神の愛を知らないことは不幸かもしれないが、決して罪ではない。
「たとえ異教の民であろうとも、あなたに害をなさない者は、あなたの敵ではありません。むしろ愛すべき隣人であり、救うべき迷い子です。神の愛とは、決して武力や迫害によって伝えられるものではありません。ですが、あなたがたの一途な信仰心に深く感謝します」
「…………」
男性らは一様にバツの悪そうな顔を見合わせた。彼女の手当てを教会で引き受ける旨を伝えると、罪悪感のにじむ了承の返事のあとに彼女を置いて教会を後にする。彼らが純粋な心の持ち主でよかった。そのまま逆上されていたら、この少女の身が危なかったところだ。
近くにいて手伝いを申し出てくれた村の女性たちの厚意を気持ちだけ受け取って、自分と少女の二人だけが残った教会で彼女の手当てをする。
見た目から察するに骨が折れている可能性の高い左腕に添え木をしてやり、なるべく動かないように布で首から吊った。あとは彼女の回復力頼みだ。
本当ならここで彼女のために回復の祈りを捧げるところだが、彼女は異教の民だった。彼女を傷つけた人々の信じる神を信じろなどと説くのは、今は逆効果だろう。
「エディザーン様、ありがとうございます」
長らく呼ばれていなかった名字で呼ばれ、椅子に腰掛ける彼女の前に跪いた状態から見上げると、少女が申し訳なさそうに微笑んでいた。
なんのことはない、単に異教の聖職者の称号である「神父」だとか「司祭」だとかいった言葉を口にすることができなかったのだろう。
「……長くて呼びづらいだろう。アイトで構わないぞ」
そう告げると、彼女は目を見開き、ブンブンと首を振った。大げさな素振りがまた、イーヴェによく似ていた。
「恩のある方をそんな、名前で馴れ馴れしく呼ぶなんて出来ません! あの、これでも早口言葉は得意なんです。噛んだりしませんから、大丈夫です」
「それならいいんだが」
噛むかどうかというよりも、長くて億劫だろうと思って提案したのだが。どこか視点がずれていて面白い。まあ、なにはともあれ、緊張して縮こまっていたのが少しはほぐれたようだ。
立ち上がりながら、彼女にいくつか問いを投げかける。
「あなたは、村の人間か?」
「はい、そうです」
「では、帰る家はあるか? 迫害に遭って打ち壊されたりしていないか」
「はい、大丈夫です。……両親は、エディザーン様と同じ神様を信じていますから、村の人たちも襲ったりしません」
「そうなのか。その家にいてつらくはないのか?」
「信じるものは違っても、大事な家族ですから……。つらいこともありますが、耐えられます」
「そうか……」
この村に来てからもう五年になるが、彼女のような境遇の少女がいるとはついぞ知らなかった。今まで必死に息を潜めてきたのだろう。おそらくそれが今日明るみに出て、先ほどの男性らに教会へ担ぎ込まれたのだ。
イーヴェとは色味の異なる、青の瞳を見つめた。表情こそ儚げだが、確固たる信念を持った、真っ直ぐな瞳だった。
「……先ほども言ったが、私はあなたを罪人扱いするつもりはない。あなたが望まないのなら、同じ神を信じろと強制するつもりもない。同じ村で生きている仲間だ。なにか力になれることがあれば、心置きなく話してほしい」
「えっ、あ、……」
助力を申し出ると、少女は動揺して目線をさまよわせた。なにか困っていることがあるのだろうが、言い出せない様子だ。
「遠慮することはない。困っている人に手を差し伸べるのは当然のことだ」
少女に促すと、またしばらく迷ったあと、おずおずと話し出した。
「あの……では、一つだけ」
「ああ、なんだろうか」
「この教会の裏手にある、泉で祈ってもよいですか? 私の女神がいらっしゃる聖域と繋がっている場所なのです。もちろん村の人たちがそこを天使の住む泉と呼んでいることを知っていますし、それを否定するつもりは一切ありません」
教会の裏手の泉──イーヴェが毎日祈りを捧げていた場所だ。そうか、異教の民にとってもあの泉は聖なる場所だったのか。
「もちろん、どうぞ。この教会の敷地内にある泉ではあるが私の私物ではない。あなたの好きな時に、好きなように祈るといい」
「ありがとうございます……!」
ありがとうございます、感謝しますと頭を垂れて、彼女は両手を三角の形に合わせた。左手を首から吊っているためぎこちないが、おそらく彼女の信じる教えでの感謝や祈りの作法なのだろう。異教の作法であれ、彼女からの敬意が伝わってきて、自分も彼女のために十字を切って祈った。
「人を思いやる心優しいあなたに、神の祝福があらんことを。神よ、どうかこの異教の娘に安寧をお与えください。彼女が不安のない世界で、より一層隣人を愛し、世界を愛せるようお導きください」
彼女はそれをキラキラした瞳で見ていた。異教の祈りを嫌がる可能性も考えていたが、平気なようだ。
「あなたからすれば異教の神に、勝手にあなたのことを祈って申し訳ない」
「いいえ、いいえ……ありがとうございます。今、あなた様の周りに薄く青い光のモヤがかかったのが見えました。信じるものは違えど、他の人間のために祈る美しい心を、神様は見ておられるのですね」
イーヴェの祈りには光の粒が伴っていたが、青い光のモヤか……そんなものが見えたことはないが……。自分に見えないということは、ひょっとすると彼女の神からの祝福だろうか。この教会は裏手の泉を通じて、異教の神の祝福さえ受けているというのか。
と、いうか。そもそも、自分の信じる神は唯一神ではないのか……? 彼女の信仰する神が本当に存在するのだとしたら……。……、やめよう、頭が痛くなってきた。
「日が高くなってきたな。また人々が教会に集まり始める前に、戻ったほうがいい。ああでも、裏手の泉で祈りを捧げたいと言っていたな。あそこなら村人も滅多には入ってこないし、そこにいても構わないが」
「はい、ぜひそうさせてください」
「しばらくそこで待っていてくれるなら、家まで送ろう。あんなことがあった直後では、一人で村を歩くのは不安だろう」
「……そこまで、お言葉に甘えてもよろしいのでしょうか?」
「ああ、構わない。隣人を愛せ、人のために生きよというのが私たちの神の教えだ」
ステンドグラス越しの光が、少女の白い頬を色とりどりに染める。まだ返事に迷っているようであった。焦らせる必要はない、次に泉を覗いた時にまだ彼女がいれば送っていけばよいだけの話だ。
「……そういえば、君の名を聞いていなかったな」
ぽつり呟くと、少女は逡巡顔をふわりとほころばせて微笑んだ。
「申し遅れました。私の名は、ぺヌドーラです。ドーラ、とお呼びください」
ドーラを泉に送り出してからしばらく、礼拝室の床をほうきで掃いていると、来客があった。悪魔祓いの依頼だった。
「北の小さな山を一つ越えたところの町の者です。あなた様の悪魔祓いとしての実力を噂で聞き、ここまで伺った次第です。どうか、お助けください」
聞くところによると、彼の町では一週間ほど前から次々と悪魔憑きの被害が起き、彼が村を出た時にはすでに五人が正気を失っていたらしく、今はさらに増えている可能性があるとのことで。本当に悪魔の仕業ならば、一刻を争う事態だ。
「……行きましょう」
脳裏にあの日の光景が浮かぶ。冷たくなったイーヴェの肢体だ。もしかしたら、彼女をそそのかした悪魔もその町に向かったかもしれない。そうでなくとも、悪魔祓いを続けていればいつか見つけ出せるかもしれない。
(もう二度と繰り返してはならない)
カソックの上から、ロザリオに手をかざす。
非道の悪魔に、制裁を。
「すぐに支度をします。あなたの町へはどのくらいかかりますか」
「半日ほどです」
「ならば、すぐに発てば夜になる頃には着けますね」
「ええ、大丈夫です」
「では、そこの椅子にかけてお待ちください。急ぎ支度をして参ります」
「ありがたい……。感謝いたします」
彼を置いて自室へ下がり、悪魔祓いのための道具を並べて漏れのないように詰めていく。
窓から見える泉に目を向けると、すでにドーラはいなくなっていた。自分で帰ったのだろう。村人から絡まれることなく、無事に帰っているといいが。
手早く旅の支度を終えると、自室を出て彼に声をかけた。
「お待たせしました。出発しましょう」
「……はい」
あとになって思うと、この時この男性はすでに半日をかけて村までやってきており、体力としては限界だったはずなのだ。それをほとんど休ませることもせずとんぼ返りさせたのは、ほぼ鬼の所業と言っても過言ではない。この時は一刻も早く駆けつけなければと気がはやっていて、気がつかなかったのであった。
山を越える頃には、案内役の男性は息も絶え絶えだった。一歩一歩がおぼつかず、全身にもうほとんど力が残っていないのがはっきりと見て取れた。
「すみません、気がつかず。一日に山を二回も越えるなどと、酷なことを強いてしまいました」
「ああ、いいえ、なんのなんの。町を、救うためです。このくらい、苦しんでいるやつらに比べたら……」
そうは言いながらも、彼は歩くのもやっとといった様子だ。肩を貸そうと手を差し伸べかけた時、彼はハッと上を見上げて、指さした。
「あれです! あれが俺の町です!」
つられて彼の指差すほうを見ると、森の木々の合間から、町の姿が見えた。黄昏の光の中で、その町の上空だけが暗く厚い雲に覆われ、無数のカラスが飛び交っている。
「……どうやら急いだほうが良いようですね」
彼の腕を掴んで肩に回させる。すみませんと謝る男性に、こちらこそ急かして申し訳ないと謝りながら、地上の地獄と化しているであろう彼の町へ急いだ。
一方、イーヴェ。こちらの彼女は、サキュバスとして仕事を始めて一週間。まだ一度も人間の生気にありつけていなかった。
(さすがに今日こそは、生気を確保しなくちゃ……)
背にしまわれた悪魔の羽を出してフラフラと、地獄の底から地上目掛けて飛んでいく。このままでは祈りなどなくとも自分の存在が消えてしまう。
しかもルキからは、自分で生気を確保できるようになるまでアイトのところへ行くのはお預けだと言われているのだ。独断で探そうにも、街と小さな村の教会しか知らずに生きてきた自分がこの広い世界から彼を見つけ出せる訳がなかった。
彼に一目会うことさえできれば、この身体などいつどうなってしまっても構わないものを。しかし彼に会うためにはまず、生きなければならない。ルキは意地悪だ。
地上へ出ると、そこは何の変哲もない町だった。いや、何の変哲もないというのは大きな間違いだ。この町は今、どう見ても普通ではない。町は死んだように暗く、道路には人っ子一人いないのだ。いくらもう日が暮れたとはいえ、まだ人々が寝静まってしまう時間ではない。それは異様な光景だった。
空を見上げると真っ暗で、星が見えない。眠る町でカラスだけが眠らず、ギャアギャアと不気味な声を上げて飛び交っている。
まずい時に来てしまっただろうか。戸惑いながら地の底へ戻ろうかと思案し始めた──その時。
「イーヴェ!?」
温かくて、なにやらなじみの深い気配に名を呼ばれた。
反射的に振り返る。
そこにいたのは……見知らぬ美丈夫だった。
「えっ、だ、誰っ……」
「ああ、イーヴェだ……。僕が見えるんだね。愛しい子……君を悪魔に堕としてしまうなんて、後悔してもしきれない……」
ルキを狐、アイトを犬に例えるなら、この男は獅子だった。そしてルキを星、アイトを月に例えるならば、この男は太陽だ。それほどの圧倒的な体格と、圧倒的な聖の気配を纏っていた。
男はこちらに手を伸ばしかけて、ぐっと拳を握りしめた。
「僕が今の君に触れたら、君の存在ごと消してしまうかもしれないね……。イーヴェ、信じられないかもしれないが、僕はミヒャーレだよ。君の祈る姿を、ずっと見守っていた」
「ミヒャーレ、さま……」
それは自分の住んでいた地域の守護天使の御名だった。
なじみの深い気配だと感じたのは、いつも自分が彼に見守られていたからなのだ。
様々な思い出と感情が脳裏を駆けめぐる。
「ありがとう、ございました」
それしか言葉にならなかった。
彼の加護もすべて無駄にして自分は悪魔の甘言にそそのかされるまま堕落した。そして自分の意思で悪魔の手を取った。他に言わなければならないことなど山のようにあったはずなのに、口から出たのはそれだけ。
そんなイーヴェにミヒャーレは、礼を言ってもらう資格などないよと首を振った。その表情は悲しげだった。
「毎日毎日君の顔を見ていたのに、大事な時に僕はいなかった。君が自ら大罪に手を伸ばしても、止められなかったんだ。……僕は天使失格だな」
「っそんな」
「……だからせめて、君を堕落させた悪魔にきちんと罰を受けさせたい。心当たりがあれば教えてくれないか」
そのあまりにも真摯な目に、イーヴェは一瞬我を忘れた。ミヒャーレはこの世で最も神に近い天使だ。そんな存在の真っ直ぐな瞳で射抜かれ、彼の前に隠し事をすることなど考えられなくなった。
「名を、ベリュオルと言うそうです」
言ってから、ハッとした。これでは彼に迷惑がかかる。たかが一人の娘を堕落させた悪魔を探し出して罰するなどと、本来彼のような高位の天使の役目ではない。
「ベリュオル……──なるほど。サタニエーレか」
「天使さま、ですか?」
「正確には"元"天使だよ。もうずうっと前に、天界を追放された堕天使だ。人間が大嫌いで、特に君のように、神様の愛を一身に受けた人間に嫉妬するのさ」
ミヒャーレは遠い目をしたかと思うと、記憶を振り払うように目を閉じて首を振った。どうか自分のことなど気にせず、そんな悪魔など捨て置いてくださいとイーヴェは懇願したが、ミヒャーレは切なそうに微笑むだけだった。
「いたずらに人間をそそのかし堕落させる悪魔には、罰が必要なんだ。悪魔の本分は決して、人間を堕落させることではないんだよ」
「……"堕落する人間を見せて、自分は気をつけなきゃと自制させること"……」
「うん、そういうことさ。真面目な人間を堕落させることが仕事ではない。自ら堕落していく人間を地獄に落とすのが悪魔の仕事だ。最も、その自ら堕落していく人間をなんとか救おうとしているのが僕ら天使なわけだけど……なかなか、自ら暗がりへ向かっていく魂は光など見向きもしないものでね。失敗の連続で自信をなくすよ」
すまない、話し込んでしまったね。ミヒャーレは謝ると、イーヴェに地の底へ戻るように勧めた。
「もうお行き。気づいていると思うけど、この町は今危険すぎる。悪魔がここにいたという理由だけで犯人扱いされて、他の天使に消されてしまったら嫌だろう」
ミヒャーレが空中から手を振り下ろすと、その真下に底の見えない穴が広がる。地の底まで続く深い深い穴だった。
「あの、本当にありがとうございます」
「いいんだよ。……天使の僕が、悪魔の君に、本当は言ってはならない言葉だけれど……どうか元気で」
「はい、ミヒャーレさまも!」
見送られながら地の底へ向かって飛び込む。落ちていきながら上を見上げると、彼がまだ見守ってくれているのが見えた。どんどん、小さく遠くなっていく。
自分は幸せな存在だ。悪魔になってなお、名のある天使に無事を祈ってもらって。
ただ、その強い聖の気配に触れたことで、自分の存在はより希薄になり、消えつつあった。
「ッぐう!?」
奇声が聞こえてハッと我に返ると、そこはすでに地の底だった。どうやら、ルキの執務室らしい。
「っ、く、か、下級悪魔のサキュバスのくせに、いい度胸してるよねーえ? まさか、この僕を下敷きにして着地しようとはね!」
「すっ……すみませ、そんな、つもりでは……」
「って、君、なんか出てった時より生気すり減ってるけど。まーた獲物捕まえられなかったんだ。相手をその気にさせられなかった? それとも夢にさえ入り込めなかった? ……まあどっちでもいいや、とにかくさっさと生気補給しなきゃ君死んじゃうよ」
ルキはソファーに横たわった状態から上半身を起こし、腹の上で尻餅をついているイーヴェに向き合った。
「口開けて」
「口……? あの、罰ならあとで受けます、どうか今は生気の確保のためにもう一度、地上へ……」
「バカ。今行ったって行き倒れだよ。お仕置きはあと、今は生気の補給が先」
「え、え……?」
「僕くらいの悪魔になると、口からでも他人に生気をわけてやれるんだよ」
戸惑っている間に、ルキの長い指が唇を割って、口内へ侵入する。なにをするのかと抗議の声を上げようと口を開いたのは、ほぼ反射だった。その一瞬の無意識を突いて、ルキが唇を重ねる。
瞬間、唇から流れ込む魔力と生気が、イーヴェの全身を雷となって駆けめぐった。指先から足先から全身くまなく一瞬にして痺れさせたそれはまるで、高いところの水が自然と低いところへ溢れ出すように、こちらの器を無視して無慈悲に注がれる拷問であった。
言葉にならない声は彼の口の中に吸い込まれた。無理だ、精神が焼けきれて死んでしまうと思ったその時、ようやく口が自由になった。
「どう? 少しは生き返った?」
生き返るどころか死んでしまうところでした! ……自由になった口で叫んでやろうとしたのに、ぞくぞくと背筋が震えてとっさに口をつぐんだ。ルキの右手の甲が、首筋を撫でていた。
「ッ……!」
「ああ……、サキュバスの身体って敏感だなあ。唇だけで済ませてあげようと思ってたのに、結局こうなっちゃう?」
いつもの、ルキの手だ。それなのに、なんだ、この肉感は。熱い。普通の生き物のような体温が、流れ込んでくる。
「サキュバスの身体は人間の男を誘惑するために出来ている……まあつまりそういうことだよ」
そういうことってなんだ、全然わからない。わかりたくない。ああでも、もう思考が溶けてきた。このままなにもかも放り出して真っ白になりたい。なにも考えたくない。
「ん。イーヴェ、いい子」
ちゅ、とこめかみに落とされたキスを最後に、まともな思考は溶けてなくなった。
次に彼女がまともな思考を再開したのはもう少しだけあとのことだった。