3.魔性の赤
炎と悲鳴が埋め尽くす赤黒い空間に、少女は立っていた。聡い少女はすぐに理解した。比喩でなく、まさしくここが地獄であると。
自ら命を断つという大罪を犯してしまった死者がここにたどり着いたのは、至極当然のことだった。
「おっと、君、新入り? 見ない顔だねー」
とりあえず前へ進もうとすると、横からにゅっと顔が出てきた。誰だろう、と首を傾げつつも、どこか野生獣のような細面のその男の言葉を肯定する。すると男はどこから出したのか右手の分厚い本をペラペラとめくりだした。いや、本当にどこから出したのか。突然手のひらの上にポンッと煙を立てて現れたように見えたのだが。
「"イーヴェ"、か。うん、可愛い名前だ。生前は教会にいたんだね? そっかそっか、それですごく美味しそうなのになんか近寄りがたい感じがするんだ」
僕アクマだから、聖なるものは天敵だしね。しれっと言い放つ男に、妙に納得した。そうか、なるほど。彼は悪魔か。……彼も、悪魔か。悪魔とはみな尻尾と角とコウモリのような翼が生えているものとばかり思っていたが、そうでもないらしい。彼は金の瞳をしている以外普通の青年と変わらない姿をしている。もしかしたら、姿は自在に変えられるのかもしれないが。
どうやらその本には、死者の情報が細かく記されているらしい。読み進めていくうちに、だんだん男の眉がひそめられ、険しい表情になっていく。
「あんた、ベリュオルにやられたの? ん? いや、死因自体は自殺なんだ。それでこっちに来ちゃったってわけね」
ベリュオル……それが彼の姿で現れた悪魔の名前だろうか。目の前の悪魔はなにやら難しい顔をしてしばらく考え込んでいたが、やがて本から顔を上げると、ニヤリと笑った。
「君さ、悪魔にならない?」
告げられた言葉は荒唐無稽で、理解に数秒を要した。え? 私が悪魔に? なる?
「ベリュオルはまあ同僚っちゃ同僚なんだけど、実は僕も因縁があってね。一泡吹かせてやりたい気持ちは同じなわけよ」
だから、さあ。悪魔らしい笑みを浮かべた彼はガッシリと肩を掴んで瞳を覗き込んできた。
「悪魔になって、あいつに復讐しない? 君の魂は真っ白で、まだ何色にでも染まる余地がある。悪魔になればここの刑罰を受ける必要も無いし、大好きな神父さまにだって会いに行けるよ」
「!」
復讐にも刑罰の免除にも興味はなかったし、そんなことは許されないと罪悪感すら抱いた。だけど、最後の一つに強烈に心を揺さぶられた。
神父さまに、会いに行ける?
彼は間違いなく天国行きだ。この先ここで待っていて会える確率など万に一つもない。だが、もし。悪魔になることで彼に会いに行くことが、できるのなら。
「……あ、」
「ん?」
「悪魔に──なります」
「ふふ、オーケー」
目の前の悪魔が目を細めた。
「やっぱり君の魂は眩しいよ。悪魔になるって宣言をしてもなお、透き通って透明だ。復讐でも刑罰の免除でもなくて、たった一人の想い人にもう一度会うために、悪魔の道を選ぶんだね」
彼は手のひらを上に向ける形で、そっと左手を開いた。そこには、この世のありとあらゆる負の感情を煮詰めたような色の球体が浮かんでいた。
「今から君を悪魔にするよ。どんな悪魔になるかはわからないし、人型の姿を保っているとも限らないけど、それでもいい?」
「……はい」
怖かったけれど頷いた。神父さまともう一度会えるのなら。いや、遠くから姿を見ることさえ出来るのなら。それで、十分。
「覚悟は出来ています!」
「いい返事だ」
目を閉じて。と言われるがままに従う。ギュッと目を閉じると、身の毛のよだつような寒気に襲われた。上げかけた悲鳴を噛み殺す。これから悪魔になろうというのに無意識に手を組んで、思わず祈っていた。試練に耐える勇気をくださいと。
「あっ、バカ」
目の前の悪魔の焦ったような声が聞こえた。祈ってしまったのは不味かっただろうか。やがて寒気が消えて、身体を包んでいた淀みが消えた気配がした。恐る恐る目を開け自分の手のひらに視線を落とすと、やや爪は伸びているがいつも通りの自分の手が目に入った。どうやら、ある程度人型は保てているようだ。
ふてくされた悪魔が唇を尖らせながら言う。
「ふーん、サキュバスねえ。下級悪魔だ。もうちょっと高位の悪魔にしてやれると思ったんだけど、まあ……神様に祈っちゃダメだよねえ? 強い悪魔になることを神様が応援してくれるわけないんだからさ」
サキュバス。男性の夢に現れて性交をねだるという悪魔だ。時には生気を食らいつくして相手を殺してしまうともいうが……、つまり、不特定多数の見知らぬ男性と交わった上に殺してしまうような悪魔になってしまったということか、自分は。
これから悪魔になろうという自分が神様に祈るなど、身の程をわきまえるべきだった。絶望が胸を占める。
「……ま、でも、特殊能力持ちなのが救いかな。人間出身にしちゃあ上々。天界から堕ちてきた堕天使だって、能力なしの雑魚悪魔に転生するやつも多いもんね」
諦めたように彼が笑う。限りなく不本意だが、自分も諦めるしかないようだ。人型を保っているだけマシと思うしかない。
「君にはこれから悪魔として働いてもらうよ。もちろん、君の会いたい人に会いに行けるように取り計らってあげる」
目の前の悪魔に手を引かれ、炎の燃え盛る区域から離れて廊下に入る。遠くに悲鳴は聞こえるし、色調は赤や黒といった毒々しいものだったが、それを除けば荘厳で綺麗な廊下だった。高い天井には今にもこちらを飲み込みそうな地獄の業火が描かれているし、床の赤い絨毯には一点の曇りもない。隅から隅まで美しい。見たことはないがこれが王城の廊下だと言われたらすんなり納得できそうだ。やはり色の趣味は疑うが。
手を引かれるままキョロキョロと歩いていると、廊下の突き当たりの一室で彼が立ち止まり、その扉を開けた。
「どうぞ」
彼に促され入室する。シックな家具で揃えられたシンプルな部屋だ。先程までの廊下とは違って色も目に痛くない。
執務机の引き出しを開けなにやら探しているところを見ると、ここは彼の部屋らしい。
「はいこれ、契約書」
「え? ああ、どうも……」
悪魔になるのに契約書が必要なのか。いや、悪魔としてここに雇われるために必要なのか。
神父さまに文字を教えてもらっていてよかった。
ペンを借りて必要なことを書き込んでいると、かの人に文字を教えてもらった日々のことを思い出す。
『イーヴェ、"L"の字が逆になっているぞ。上から下、そして右に曲がるんだ。そう……上手だな』
昨日まで自分の側にあった声だ。すぐそこに本人がいるかのように思い描くことが出来る。だけど、もう今日からは彼と自分の道は同じ地面の上にはない。会いに行くことは出来たとしても、隣で生きていくことは出来ない。そう思うと切なかった。
そんな気持ちで書き進めていると、自分に悪魔としての力を与えた存在の名前を書く欄があり、ふと筆が止まった。この人の名前か。
「ああ、そういえば名乗り忘れてたね。僕はルキ。このあたりの管轄してる悪魔だよ」
L・U・C・Iと彼の告げるスペルを書き取り、書き終わった契約書を返すと、彼は満足そうに目を通した。
「うん、これで契約完了。明日からここで働いてもらうことになるけど、わからないことがあったらなんでも聞いてね」
先ほどから、彼がこぼす笑みは時々悪魔離れしている。面倒見のいい悪魔なのだろう、目を細めて穏やかに浮かべているその笑みは、慈愛の笑みと呼ぶにふさわしい。
「よろしくお願いします。ええと……ルキさん」
「あはは。いいよぉ、ルキで」
彼──ルキは悪魔らしい笑みを取り戻すとケラケラと笑った。
「さて、君の仕事内容を説明しようかな。実際の仕事は明日からだけど、今日のうちに流れを知っておいた方が楽だからね」
あんた教会育ちで世間慣れしてなさそうだし?
ルキがケラケラと笑う。よく笑う悪魔だ。険しい顔よりよっぽどいいが。
ソファーを勧められ有難く腰掛けると、高級げなクッションに体が沈みこんだ。
驚きが思わず声に出て、彼がまた笑った。
「あんたって結構マヌケだよね。でもこれだけは絶対頭に入れといてほしいんだけど、まず君は悪魔だってことね。さっきみたいに神様に祈ったり絶対ダメだからね。最悪の場合、存在ごと消えます」
笑顔のまま脅されて、背筋がゾッとした。マヌケと罵倒されたのもどこかへ飛んでいってしまった。すでに死んだ身だ、もう命など惜しいどころか持ってすらいないのに、これはきっと本能的な恐怖だ。
この地獄では、神様への祈りというものは目に見えて危険な効果を持つものであるらしい。実際に体験して、それは嫌というほど思い知らされた。
「悪魔が祈るなら、魔王にかな。うーんまあ魔王は本来祈られる対象でもなんでもないんだけど、もしかしたら気まぐれに助けてくれるかもしれないしね」
「魔王に、祈る……」
「うん。魔王も君の魂を気に入ると思うよ。聖の気配が強くて近寄りがたい、でもその純粋な魂はたまらなく綺麗で、どうしようもなく引き寄せられてしまう。ほんと、悪魔ったらしだよ。あんたの魂」
彼は床の一点を見つめて遠い目をしていたかと思うと、向き直って肩をすくめた。
「とまあそんなことはどうでもいいんだけど。それより君の仕事内容ね。さっき言ったとおり君はサキュバスだから、端的に言えば人間の男から精を絞るのが仕事」
「それは……命を奪うところまで、お仕事ですか?」
「ん、そーね。絞った精、イコール生気は君の生きる糧になるわけだけど、仕事としてはターゲットの魂を地獄へ落とすところまでセットになってくる。物理的には、色んなやつからちょびっとずつ生気を摂取できれば存在は保っていけるんだけどさ」
「……」
人を、殺すのか。
あまりにも重い事実に黙り込むと、ルキが苦笑した。
「ま、教会育ちの優等生が突然悪魔になったところで、最初っからバリバリ仕事が出来るなんて思っちゃいないから安心してよ。最初は自分の存在を保つことだけ考えてればいい」
「……そう、言われても」
「それとも、君のあの死に方じゃあ知らない男を誘惑するほうが不安かな?」
「……う」
たじろぐ。命を奪うことは本当に怖い。だがそれ以前に存在を保つためのそれでさえも、背筋が凍りそうなほど、怖い。
ルキがそっか、と独りごちる。
「うん、そうだよねえ。君の心中はお察しするよ。純真な恋心につけ込んで想い人の姿を真似て現れて形式上和姦。最後の最後に正体バラして自殺勧めるとか、ほんと正気の沙汰じゃないよ。悪魔の俺が言うことじゃないんだろうけどさあ」
彼は執務机に行儀悪く腰掛けながらトントンと指先で机を叩いている。その表情や声音は穏やかだが、かのベリュオルという悪魔への苛立ち、敵意が見て取れた。よっぽど嫌いなのだろうか。確かに、彼が好かれるとは全く思えないが。思えないが、
「私が、浮かれていたのが悪いんです。いつもと違う神父さまを疑いもせず、自分に都合のいい言葉に溺れた私が悪かったんです」
彼は悪魔としての性に忠実だっただけ。それはある意味正しいことのはずだ。正しくなかったのは自分のほうで、人間として本来あるべき自制の念があまりにも欠如していた。そのことに絶望したからこそ、自分は彼が投げてよこしたナイフを手に取り、「自殺」という大罪を選んだのだ。
「…………」
ルキは黙っている。たっぷり数秒黙って、やがて彼が口を開いた。
「たとえ君がそう思ったとしても、僕はあいつのやり方が嫌いだ。だから君がサキュバスになったからって、あいつと同じやり方は勧めない。悪魔の仕事は本来、人間を堕落させることじゃないんだよ。……堕落する人間を見せて、自分は気をつけなきゃと自制させることなんだ」
「え」
……それは、驚きの新事実だ。もしそれが本当なら、悪魔は人間のために働いているということになってしまうではないか。
「ごめん、口が滑った。今のは秘密の話ね」
なんてね冗談だよとおどけてくれたら、なんだやっぱりそうかと思えたのに。だが彼は訂正はしなかった。
真実、なんだ。
ルキはそのアッシュブラウンの短髪をわしゃわしゃとかき回すと、雨に濡れた子犬のように頭を振った。
「あーあー君といると調子が狂うよほんと。弟のこと思い出しちゃうからかな。君みたいな子、本来なら地獄に来るような魂じゃないしさーあ?」
「弟さんが、いらっしゃるのですか?」
「……っあー、まあね。また口滑らせちゃった」
ふてくされた顔でブツブツ言うルキはまるで幼子のようだ。兄というよりは彼自身が弟に見える。
おかしくてクスクスと笑うと、ルキがより一層ふてくされた。
「ちょっと、なに笑ってんの。あんたの身体サキュバスじゃなくてインキュバスに変えてやろーか?」
インキュバスとは女性の夢に現れる、男性型の悪魔のことだ。それは勘弁だ、せっかく生前と同じ性別の悪魔になれたのだから。
笑いをこらえながらも姿勢を正すと、ルキはムスッとしたまま話を進めた。
「もー、じゃああんたの存在を保つ方法の話に戻るけど。あんたが存在し続けるためには、とにもかくにも人間の男の生気が必要。ここまではいい?」
こくりと頷く。
「うん、じゃあどうやってそれを手に入れるかってことなんだけど、まず寝てる男に近づいて、その夢に入り込む。君の身体はちゃんとそれが出来るようになってるから、何回かやればコツは掴めるよ。で、そうすれば自動的に君の姿はその男の理想の女の姿に変わる。あとは、勝手に向こうが食いついてくるのを待つだけ」
「え、それだけ?」
「それだけ。サキュバスの能力舐めちゃいけないよ。夢魔の身体は隅から隅まで異性を誘惑するために出来てる。普通の人間の男なら、君がそこに突っ立ってるだけでもう理性なんてすっ飛ぶよ」
そういうものか。サキュバスとは恐ろしい。
「じゃあ私の見た目も生前とかなり違うんですか?」
問いかけると、ルキはうーんと首を傾げた。
「いや。あんまり変化はないみたいだね。サキュバスの証のハートのしっぽはあるし、小さな角も生えてるけど、夢魔っていうわりには清楚っていうか? 少なくとも顔は変わりないよ。サキュバスの能力は見た目より、魔力で内側から働きかけるものだしね」
「魔力?」
「そ。相手を発情させる魔力」
得意顔でそう言うと、ルキはおいでと手を広げた。
「練習させたげる。まあ僕にサキュバスの魔力は効かないんだけど、雰囲気だけ予行練習」
魔力を感じたら当てられたフリくらいはするよ。そう言って執務机を背にしたルキが待つ。
確かに口頭の説明だけでは雰囲気を掴みきれない。かといって彼を相手に練習をするというのも大いに不安ではあったが、しかし、嫌ですとはとても言えそうになかった。
おそるおそるソファーから立ち上がり、ルキに歩み寄る。とりあえず彼の理想の女性になったつもりで向かい合ってみたが、何をすればいいのかわからない。彼は手を広げたまま意地の悪い笑みを浮かべている。金色の瞳はまるで明けの明星のようだが、浮かぶ光は意地悪な光だ。立っているだけで理性が飛ぶほどの魔力を発しているのではなかったのか。魔力を感じたら当てられたフリをしてくれるのではなかったのか。
仕方がないので勇気を振り絞り、ルキに抱きついた。するとルキは肩を揺らして笑った。
「いくらはじめてだからって、こんなにうぶなサキュバスいないよ。全く、これだから処女は」
「しょ、じょじゃな……」
「いいや。君の精神はまだ綺麗なまんまだよ。……ま、これから嫌ってほど汚れてもらうんだけど」
ルキはこちらの手をとると、自身の首の後ろまで引き寄せた。
「ほら、手ぇ回して。相手のキスに合わせるんだよ」
ちゅ、と落ちた唇は、口の横。唇には触れずに頬、鼻先、とキスが落ちてくる。意外と嫌悪感はない。
ぼうっと呆けてそれを受けていると、ルキが舌なめずりをした。
「んー、強くなってきたね。君の魔力。人間だってそうだろ? 緊張してちゃあ本来の力は出せない」
確かに、彼の言う通りだ。
自分はこれから彼を誘惑するのだ。リラックスして、自信を持って、堂々と──。
「おっ……と」
ルキが執務机に仰向けに倒れ込む。自分が勢いよく身体を傾けたからだ。そのまま彼の上にのしかかるように手を付き、彼の顎先から視線で舐め上げると、ルキがほうと感嘆のため息をついた。
「びっくりした。すごいね、やっぱり吸収早いなあ。サキュバスの魔力なんて効かないはずなのに、一瞬ドキッとしちゃった」
彼はこちらの髪を梳くように撫でると、ぐっと上体を起こす。また瞳と瞳の間の距離が縮まり、彼の金色の虹彩の細かな模様まではっきりと見えた。
「……そうだ。そういえば、君の顔で一つだけ悪魔になる前と変わったところがあるね」
「……え?」
ルキから発された言葉は脈略がなく予想外のものだったし、言葉の意味を理解してさらに一瞬動揺した。
私の顔で、変わったところ?
「君の瞳の色、赤色になってるね」
「!」
「さっきまでは青だったよね。綺麗な青い瞳だなと思ってたのに忘れてた。ああ、でもそれだけ今の赤も似合ってるってことだよ」
待ってな、とルキに引き剥がされたが、彼は小さな鏡を手に取ると戻ってきて、手渡してくれた。おそるおそる鏡を覗き込むと、確かに赤い瞳の自分がそこにいた。
「赤の瞳は魔性の瞳さ。見る者を魅了する特別な力を持ってる。サキュバスにふさわしい、美しい色だよ」
自信を持てと言うように、ルキが後ろから両肩に触れた。
瞳の色が変わっただけでまるで別人のような自分の顔に、悪魔になった実感がじわじわと湧く。
長い間想い焦がれた彼とは正反対の道を進もうとしている。彼がずっと祓ってきたその存在と同じものになろうとしている。神様に逆らって大罪を選んだあげく、悪魔になるだなんて。彼に蔑まれても呆れられても失望されても仕方のない道を自分は自ら選んだのだと、リアルな実感が胸を締め付けた。
「──ルキ」
声をかけると、背後で彼が「ん?」と応じる。肩越しに鏡に映るのは、意地悪な悪魔の顔だ。
呼んだはいいもののどう続けていいかわからず黙り込むと、彼の表情が訝しげなものに変わる。
「何。そこで黙られるとモヤモヤするんだけど」
「……すみません」
鏡を持つ手を下ろしたが、あまり意味はなかった。見られるより先に、声が震えてしまった。
「……ちょっと待って、まさか泣いてるの?」
案の定ルキの声に含まれる疑念の響きが強くなった。困惑も多分に含んでいる。
突然に目の前の存在が泣き出したのだ、その反応は正しい。歯を食いしばるが目からこぼれ落ちる涙は止まらない。顔をのぞき込まれて背けるが、ルキからは逃げられなかった。
「何で泣くの、言ってくれなきゃわからないよ……」
しばらくそうして背をさすってくれたが、やがて諦めたように彼は言った。
「今言えないなら、あとでもいいよ。その代わり僕はこうして背中をさすることしか出来ないけどさ」
ぶっきらぼうに言いながらも、彼はなおも背中をさすっていてくれた。
明日からはちゃんと悪魔になるから。だから、今日だけはまだ、人間の少女でいさせてほしい。
思いが通じたのだろうか。ルキが頭の角を隠すように髪を撫でてくれる。そうするといつしか本当に角の感触が消えた。
「一時的なものだけど、君の角を隠した。瞳も、今は君の流した涙が染み込んで青色に戻ってる。僕が言うんだから間違いない。今の君は生前と何も変わりないただの女の子だよ、イーヴェ」
ほんの少しハスキーな彼の声で響く自分の名前がストンと胸に落ちた。激しい恋の感情とはまた違う、穏やかな気持ちが全身に流れ込んだ。
徐々に涙の波が引き、頭を撫でてくれる手の動きを感じながら目を閉じた。今ソファーに座っていたのならそのまま眠ってしまっていただろう……。
「あれちょっと、立ったまま寝ないでよ?」
彼の声を聞きながら、意識は眠りの世界へと飛んだ。
「ちょっと!?」
最後に焦ったような彼の声が聞こえたが、その声が眠りに向かうこの意識を引き止めることはなかった。