2.堕落
「本当にきれいなロザリオですね」
「ああ、大事なものだ。悪魔祓いには必須の道具だしな」
あの日から数年が経ち、すっかり心の傷も癒えたイーヴェは無邪気な瞳でロザリオを眺めている。特に凝った装飾がなされているわけでもないのだが、すでに何十何百の悪魔を祓ってきたこのロザリオは、位の低い悪魔なら一目見ただけで逃げ出すようなシロモノへと変容している。言い換えればそれは、強い聖の力を宿しているということだ。彼女はおそらく、それを感じ取っているのだろう。つくづく、神に愛された子だ。
瞳を輝かせる彼女の横顔を感慨深く眺めていると、彼女が口の端に髪の毛を一本咥えこんでしまっていることに気がついた。ふふ、やれやれ。思わず笑みをこぼしながら髪の毛を取り除いてやると、はっとイーヴェが顔を赤らめた。その反応に、思わず手の動きを止めた。
イーヴェは赤面して戸惑いの表情を見せたあと、恥ずかしそうにうつむいた。
「す、すみません」
「……いや、……」
ああ、今のはきっと、子どものような失態を犯してしまった自分に対する恥じらいだったのだ。そうでなければ、おかしい。血こそ繋がっていないとはいえ私はこの子の父で、彼女は私の娘も同然だ。
私もまだまだ未熟だ、こんな浅ましい勘違いをするなんて。ただの馬鹿げた妄想だ。
もしかするとこの子は、私を異性として意識しているのではないか──などと。
やがて、あの雨の日から五年の歳月が経った。十三歳だったイーヴェはもう十八になろうとしていた。
「神様、新しい朝に感謝します。今日も一日、周囲の人たちを愛し、彼らのために生きる私であれるよう、どうか見守り、導いてください」
相変わらず彼女が祈ると辺りに光が舞う。それは年々輝きを増してすらいた。アイトは悪魔を見ることはできるが天使は見えない。もしかしたらアイトに見えていないだけで、祈るイーヴェの周りには天使でも降りてきているのかもしれない。だとしたらそれは地域の守護天使であるはずで、この地域の守護天使はその昔、神に反旗を翻した天使・ルシフェーレと戦い勝利を収めた勇敢な天使だ。悪魔に狙われる彼女の守護天使としてこれほど頼もしい天使もいないだろう。
また、彼女は時折、教会の敷地内にある泉でも祈っていた。村人から天使の住む泉と言われている場所だ。教会の裏手にある以上、神聖な気で満ちているのは確かだが、実際に天使が住んでいるのかどうか確かめるすべはない。だが、目に映るすべてのものを愛し、すべてのものに感謝する。それがイーヴェの生き方だった。
「イーヴェ、明日はお前の誕生日だな。私は今日から明日にかけて西に二つ向こうの村へ悪魔祓いの仕事へ向かう。帰ったら、誕生日のお祝いをしよう。そして、悪魔祓いの方法を伝えよう」
「! いいの、ですか」
「ああ、お前ももう十八になる。もしもの時のために、自分の身を守れなくては一人前とは言えないからな」
イーヴェの青く美しい瞳にきらきらと光があふれた。長らくこの時を待ち望んでいたことだろう。
「約束ですよ、神父さま。お祝いも、悪魔祓いの方法も」
「ああ、約束だ」
その日は朝食を一緒に取ってから、彼女に留守を預けて教会を後にした。
今回の悪魔は強力だった。名前まではわからなかったが姿形からして元は位の高い天使が堕天し、高位の悪魔になったものだろう。この現世には存在しえないであろう美しい姿だった。悪魔ではなく天使なのではないかと一瞬思ったほどだ。天使が見えなくてよかった。見えていたら、見分けなどつかなかったろう。
「ぐ……馬鹿なッ、私が、この私が、人間風情に……!」
地面をのたうち回る悪魔の瞳は深い憎悪に燃えている。だが彼はもうすでに天使ではなく、人間の暮らす世界よりもはるか深くにまで堕ちた堕天使だ。人間に敗北することは何ら不自然なことではない。神を信じ、愛し、敬う心を失った彼らに勝ち目などないのだ。
「残念だがお前の存在はここで終わりだ」
ロザリオと聖書を構えた。さあ、お前の存在を闇に葬り、神へと捧げてやろう。
「グゥオオオオォォォォ!!」
おぞましい断末魔を上げて、悪魔は霧散した。
一方、イーヴェは教会で一人アイトを待っていた。星の出る頃に戻ると言っていたから、そろそろのはずだった。
「……あ」
ストールを羽織って扉の前で待っていたイーヴェの目に、ランタンの光が映った。その光がだんだん近づいてくると、そのランタンの持ち主もはっきりと見えるようになった。
「神父さま、お帰りなさい!」
「やあ、イーヴェ。寒い中を待ってくれていたのか」
声をかけて大きく手を振ると、アイトは穏やかな笑みで応じてくれる。聖職者にしては目つきがさほど良くないが、笑顔がとても穏やかな人なのだ。彼は教会の門の少し前で立ち止まると、ふいにイーヴェを呼んだ。
「こちらへおいで」
その言葉があまりにも何気なく、自然だったので、イーヴェは思わず踏み出しそうになった。が、しかし、他でもないアイト自身からの言いつけをすんでのところで思い出す。
「でも、神父さまがおっしゃったのではないですか。悪魔祓いの術を身に着けるまでは、決してこの結界の外に出てはいけないと」
それを聞いたアイトはしばしあっけにとられたような顔でイーヴェを見ていたが、数瞬ののちに笑い出した。
「きちんと言いつけを守ってくれてうれしいよ。だが、私がついているから大丈夫さ。それに約束をしただろう。帰ってきたら悪魔祓いの方法を教えてやると」
アイトは笑顔のままイーヴェに手を差し出した。
「おいで、イーヴェ。五年ぶりの外の世界を見せてやろう」
胸が高鳴った。未知の何かの予感がした。その愛おしい手を取れば、どこまでも未来が拓けていくような気がした。……こんな感情は抱いてはいけないと、蓋をし続けたそれを、今ここで神父さまがそっと受け止めてくれる、気がした。
「――はい、神父さま」
イーヴェはその手を取って、門から足を踏み出した。
アイトがいたずらっ子のように笑う。
「ふふ、五年目にしてついに言いつけを破ってしまったな」
「まあ、神父さまがそうしてもよいとおっしゃったのではありませんか」
「違いない。つまり私も共犯だな」
握られる手の指先まで心臓の鼓動がとくとくと、痛いほどに脈打つ。神父さまといるといつもこうだが、今夜はもっとそうだった。神父さまがいつもより近くにいるせいだろうか。それとも、夜空の下で見る神父さまの横顔がいつになく美しいからだろうか。
「ところで、イーヴェ」
「はい」
神父さまの瞳には星が瞬いていた。ああ、星のきれいな夜だ。ぼうっと眺めていると、その美しい瞳が近くに迫ってきた。びっくりして後ずさろうとするが、たくましい腕で腰を引き寄せられてしまって、無理だった。
「お前の瞳は、きれいだな。イーヴェ」
私の、瞳? きれいなのは、神父さまの瞳ではありませんか。
その言葉は、言葉にならなかった。
「ん……っ」
やわらかいなにかに、唇を囚われている。目の前には、神父さまの顔。
ああ、口づけをされている、と理解したのは、暖かな吐息が名残を惜しむようにそっと離れて行ったあと。
「……すまない、私とこういうことをするのは、嫌か?」
彼の瞳は、怯えを帯びていた。不安、ためらい、罪悪感、あるいはそのすべての混じった色の瞳だった。
イーヴェは、思わず否定の言葉を返していた。
「嫌じゃ、ないです。――他でもない、神父さまとなら」
その言葉をゆっくりと受け入れたらしいアイトは、感極まったように少女の体を抱きしめた。
「お前が十八になったら、伝えたいと思っていたんだ」
イーヴェの華奢な体を、ドクドクと鼓動が駆け巡る。世界一愛している人の腕の中で、最上級の幸せの予感を抱えた心臓は今にも耐えかねて爆発してしまうのではないかとすら思った。苦しいほどに、痛いほどに心臓が脈打った。
アイトはゆっくりと、イーヴェの耳元で囁いた。
「愛しているよ、イーヴェ」
何度、夢に見たことか。イーヴェの瞳から、涙があふれだした。
「私も、愛しております。アイトさま」
身元もはっきりしない私を気味悪がらず、拾ってくれた。寄る辺ない私に居場所をくれた。深く傷ついた私の心を、根気強く癒してくれた。神様に感謝を伝える方法を、教えてくれた。いけないことをしたときは叱ってくれた。良いことをしたときは、褒めてくれた。大事に大事に、育ててくれた。
そんな彼にいつしか恋をしていた。決して、かなわない恋だと思っていた。……思って、いた。
「泣かないでくれ、イーヴェ……」
たとえ喜びの涙だとしても、その涙を見るのはつらい。彼は囁いて、目元の涙をぬぐってくれる。
そして、言った。
「お前のすべてを、私に任せてくれるか?」
優しくて甘い言葉に、頷いた。きれいなこの夜空の下で、最愛の人に、私はすべてを捧げた。
間違いなくこの瞬間、私は世界で一番幸せな少女だった。
「──……、イ、ヴェ?」
うまく声が出なかった。声帯を含む全身が、その事実を認めたくないと拒絶していた。
違う。彼女じゃない。彼女であるわけがない。これは、違う、彼女では、ない。
夜が明けようとしていた。昇り始めた朝日の中に、その少女の白く美しい裸体が晒されていく。
少女は教会の門のすぐ側で、冷たくなっていた。
(違う)
白い脚の間から、白濁とした粘液がこぼれている。だがそれでいて手首や喉に鬱血の跡はない。彼女は力で押さえつけられたのではなく、また、抵抗もしなかったということだ。
そしてその小さな両手にはナイフが握られており、その切っ先は、ちょうど彼女の心臓の辺りに埋まっていた。……自らの手で、その命を絶ったらしかった。
神父さま、神父さまと呼ぶイーヴェの声が鼓膜の奥に蘇る。キラキラ光る青い瞳の奥にあった、そのほんの少しの感情からずっと目をそらしてきた。だが、今日、こんなことになるくらいなら、……。
「……イーヴェ」
イーヴェだ。この悲しい遺体はイーヴェだ。我が子のように愛した最愛の少女だ。
星の出る頃戻ると告げた男の言葉を信じ、その姿を真似て現れた悪魔をそれと勘違いしたのだ。その甘言に惑わされ誘われるままにその手を取ったのだ。これまで拒否されるどころか見向きもされなかったその感情を初めて肯定され、目の前の存在にすがりついたに違いない。彼女は聡明な女性だ。そういう状況でなければ、それが罠であることなどすぐに見抜いたはずであるから。
固くナイフを握りしめたイーヴェの手をそっと解き、深々と刺さるその刃物を抜いてやる。乾いて褐色に変わった血溜まりはそれ以上広がることはない。彼女の心臓が動きを止めている、その証左だった。
今日、こんなことになるくらいなら。彼女の気持ちには答えられないとはっきり告げておけばよかったのだろうか。今の関係を壊したくないと思うあまり、彼女の思慕の念を飼い殺しにして、彼女に叶わぬ期待をさせ続けてしまった。認めたくなかったのだ。娘のように愛した存在から向けられた"恋"という感情を認められずに、見て見ぬふりをしてしまった。
彼女は帰ってこない。愚かな自分に許されたことは、ただ、祈ることだけ。
「神よ、お導きください。愚かな私を。そして、惑う彼女の魂を、苦しみの存在しない場所へ。どうか。私の愛した少女が、もうこれ以上苦しむことのないように」
声が震えた。最後の一言まで言い切って、それ以上声が出なかった。肺が意思と関係なく空気を欲して痙攣した。喉が痛い。目頭が熱い。ああ……そうか。泣いて、いるのか。
もう永遠に見ることの叶わないキラキラ光る青い瞳をまぶたの裏に描いた。朝の光がまぶたを焼いて、その幻すら白く霞んだ。
イーヴェ。私の愛した少女がこの日、死んだ。
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「おっと、君、新入り?」
悪魔がニヤリと笑った。