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1.みなしごなる少女

 それは重く冷たい雨の降る夜のことだった。


 高齢のため教会を離れることになった先代の司祭に代わり、新しくこの小さな村の教会に着任することになった二十三歳の神父・アイトは、教会の祭壇に向かいその日最後の祈りを済ませて寝室へ下がろうとしていた。


 その時だ。

 トン、と扉が叩かれる音がしたのは。


 振り返ったアイトが雨音を招くように扉を開くと、そこには泥にまみれたひとりの少女がうずくまっていた。

 アイトは息を呑み、慌てて彼女を抱き起こす。


「おい、大丈夫か!? とりあえず中に入れるからな!」


 濡れるのも厭わずに少女を抱えあげたアイトは礼拝堂の長椅子に彼女を下ろし、自らのカソックを脱いでかけてやった。


 彼女の青白い肌は濡れて冷えきっていた。全身が衰弱しきっており、教会までたどり着けたのは奇跡といっても過言ではない。かわいそうに、まだ十二、三歳くらいの幼い少女だ。着ているものは泥でかなり汚れている上に質の良いものではなく、彼女が貧しい暮らしをしてきたことが知れた。貧しさゆえに体を壊し、こうして行き倒れるように教会へ転がり込んできたのかもしれない。


 とりあえず声をかけるが、か細いうめき声を上げるだけで、返事らしい返事はない。濡れた服を脱がせてやらなければこのまま身体を冷やしてしまう一方だが、彼女に合う服がなかった。せめて修道女の服でもあれば良かったのだが、修道院でもないこの教会にあるわけもなく。


 仕方がないので、少しかわいそうだが自分の服の中でなんとかこの少女でも着られそうなものを持ってきて着替えさせてやる。やはり余る袖をくるくると折った拍子に、ふと泥だらけの指先が目についた。倒れ込んだ時に泥を掴んだのであろうその指先をやわらかな布で拭うと、随分と皮膚が荒れていた。掃除に洗濯、炊事、おおよそ家事をする者の手だった。手伝い程度ではこうもなるまい。


 雨に打たれた金色の髪を固く絞るようにして、その水気を切る。おおよそ乾いたところで再び抱えあげて自分のベッドに下ろし、布団をかけてやると、少女がほんの少しまぶたを上げた。


「しんぷ、さま……」


 弱り果てて力のない、しかし綺麗な青色の瞳だった。か細い声で、すみませんと謝る少女。その頭を安心させるように撫でてやる。


「なにを謝るというんだ。神は困っている者をお救いになる。私はその手伝いをするだけだ」


 だから何も心配せずに眠るといい。


 赤ん坊をあやしつけるようにぽんぽんと布団を叩いていてやると、安心したのか、少女は先ほどより幾分か安らいだ表情で眠りについた。予断を許さないが、とりあえずは一安心だ。十字を切って、彼女の回復を神に祈る。


「神よ、どうか、この弱り果てた幼き者に深い憐れみと慰めをお与えください。心からの笑顔を取り戻せるようにお導きください。偉大なる主の御名によって祈ります」


 祈り終えると自分も眠ろうと部屋を見渡す。今夜は机の前の椅子が寝床だ。


 明日彼女が起きたら名前を聞こう。腹が空いているようならあたたかい食べ物を。まだ動くことが出来ないかもしれないから、しばらくはこの教会に置いてやったほうが良いのかも知れない。


 いろいろなことを考えながら眠りに落ちた。

 窓の外では少し弱まった雨がしとしとと降り続いていた。







 すっかり雨の上がった翌朝、アイトはいつものように起きて祭壇に祈りを捧げ、一日のはじめの掃除をしていた。


 と、そこにドタン! となにかの落下音が響く。


 まだ人もいない早朝の教会、音の発生源といえば一つしかない。慌てて寝室へ戻れば、案の定、ベッドから転げ落ちた彼女が身を起こすところだった。


「う……」


「大丈夫か……? すまない、お前が目を覚ますまでついていてやるべきだったな」


 彼女が体勢を直すのを手伝って、ベッドに戻るよう告げる。


「昨日の強い雨に打たれて、体が衰弱しきっている。まだ安静にしていたほうがいい」


 そう勧めると、彼女は申し訳なさそうに肩をすくめながらも、頷いた。

 彼女がベッドに身を横たえるのを横目に見ながら、窓の外に視線をやる。人々が教会を訪れ始めるまでまだまだ時間がありそうだった。


 と、そこで大事なことを思い出す。


「腹が減ったよな。なにか食べるものを持ってこよう」




 簡素なパンと豆のスープを持って部屋に戻ってくると、彼女は天井を見上げ、静かに泣いていた。年齢に見合わぬ、とても静かな涙だった。なにか、嫌なことを思い出したのだろうか。思わず、掛けようとした声を飲む。

 彼女はこちらに気づくと、あわてて涙を拭った。


「ご、ごめんなさ、」


「いや、……そうじゃない、そんなにこするな。目が腫れてしまうぞ」


 サイドテーブルに食事を置くと、宥めるように彼女の手に自分の手を重ねた。顔から手を離させると、少し赤くなった目で少女は恐る恐る見上げてくる。その不安げな表情に、努めてあたたかく笑いかける。


「まずはなにか食べよう。な? 人間、腹が空いては何をやっても何を考えてもうまくいきはしないさ」


 パンをひとちぎり口元へ運んでやると、素直に口を開いて咀嚼した。彼女をベッドの上に座らせ、スープをその手に持たせてやる。


「……あたたかい」


 初めて、彼女の表情が緩んだ。そのことにホッとして、こちらも表情を緩める。それに気づいた彼女が、気恥ずかしそうにはにかむ。


 やがて、彼女はポツリポツリと語り出した。自分は天涯孤独の身であるということを。両親は生まれてすぐに伝染病で亡くなり、引き取って育ててくれた里親も三日前、老衰で亡くなったのだという。そして身寄りがなくなった彼女は適当な理由をこじつけられて「魔女裁判」にかけられたそうだ。魔女との疑いをかけられた彼女は命からがら逃げ出し、そして、この教会にたどり着いた。ひどい雨の降る中、ぬかるみに足を取られて転けて泥だらけになりながら。


 アイトは目を閉じ、それらのことに胸を痛めた。彼女はこの数日間で、どれほど深く傷ついたのだろうか。同じく天涯孤独の人生を送って来ただけに、他人事とは到底思えなかった。


「イーヴェ」


 少女が名乗った名で呼んでベッドに腰掛け、その頭を胸元に引き寄せた。腕の中にすっぽりと収まってしまうほどの、小さな命だった。


「……よく、頑張ったな」


 背を撫でてやると、彼女の肺が震える感触がした。続いて、ぎゅぅ、と奥歯を噛み締める音。幼い少女に似合わぬ自制に心が痛む。泣いてもいいぞと、言葉の代わり、背をさする手に許しを込めた。


「私はお前の両親や里親を生き返らせてやることは出来ない。だからせめて、お前の大事な人たちがせめて天国で安らかにあるように、そしてお前の悲しみが癒えるようにと、祈らせてくれ」


 少女の背をさする手はそのままに、十字を切って祈りの言葉を捧げた。彼女は今度こそこらえ切れず、涙で目の前のカソックを濡らした。


(……いまは、泣きたいだけ泣いたらいい)


 とんとんとあやすように背中を撫でる。

 私が、守らなければ。孤独で寄る辺無い、迷えるこの少女を私が守り、育てねば。








 その後体調が回復し、この教会で手伝いを始めたイーヴェには、人並み外れた聖性があった。特別神に愛されているといったところだろうか。


(すごいな、これは……)


 彼女が十字を切って祈ると、辺りに光がキラキラと舞うのだ。これは、聖職者でなくとも見えてしまうのではなかろうかと思うほどはっきりと。それは間違いなく優れた聖職者としての素質だったが、同時に悪魔の格好の餌であることも意味していた。神への祈りをほとんど知らぬ彼女は、魔への対抗手段をまだ持っていないのだ。


「イーヴェ」


 声をかけると、彼女が振り向く。まつげの先から、キラリと光がこぼれていた。


「イーヴェ、お前の力は特別だ。特別ゆえに、人ならざるものから狙われることになるだろう。だから自分の身を守る力を身につけるまでは、絶対に、この教会の結界の外に出てはいけないぞ。たちまち悪魔の格好の餌だからな」


 今まで彼女に降り掛かった災厄は、もしかすると悪魔の仕業かもしれない。そう思うほどには、彼女の魂は美しかった。そう考えると、ここまで生き延びたことすら奇跡と言わざるをえない。


 彼女はキョトンとしていた。当然だ。悪魔と言われても、実物を見たことなどないだろうし。だがこれは彼女の命にかかわることだからと念を押すと、神妙な顔で頷いた。


「わかりました」


 悪魔祓いの術は身体に負担がかかる。彼女の幼い身体は負荷に耐えきれないだろう。せめて、あと五年は教会の中で大人しくしていてもらうしかない。……。


「……すまないな。お前だって、街に買い物に出たり、友だちと遊んだり、したいこともたくさんあるだろうに」


「いいえ。街に帰ったって、また魔女だと言われて捕まるだけだもの」


「……そうか」


 しまった。彼女は街の出身だったか。余計なことを言った。何か別の話題を。

 頭の中でぐるぐる考えていると、ふいにイーヴェが笑った。


「? 何を笑っているんだ」


「あ、ごめんなさい……ふふっ」


 神父さまが静かに慌てているのが面白くって。そう言って彼女がまた笑う。どうやらこちらの動揺は全て筒抜けだったようだ。醜態を晒してしまったが、この子が笑ってくれているなら、まあ、いいか。


「では、昼食にしようか」


 昼食を取ったら、午後からは隣の村で悪魔祓いを頼まれている。本当に悪魔の仕業にせよ、取り越し苦労にせよ、民の不安を払うのが聖職者の仕事だ。


 準備を手伝ってくれるかい、と声をかけると、イーヴェは笑顔で頷いた。


「はい、神父さま」


 またキラリと光がこぼれた。

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