どうやったら自由になれるのか
「読めないから教科書は全部持っていきなさい」
まだ平仮名すら読めない小学校1年生だった私は救いを求めた父にイラつき気味にそう返された。数ヶ月後には両親は外国人という名前のついた人達であると知り、日本語が読めないと知ることになるのだがこの時は、父親が自分を見捨てたのだとひどくショックを受けた。時間割表のプリントを読み解くのを諦めて入りもしない教科書をランドセルに詰めていた。意味もよくわからないくせに生まれて初めて家出という衝動に目覚めた日だった。
ハーフという言葉が世間に認知される前、私達は宇宙人というカテゴリーに属していたように思う。
子供はひどく正直な生き物な上、他人との違いを個性ではなく差別で振り分ける国に住んでいると日に日に自己嫌悪が強くなっていく。私のどうしようもない自己承認欲求は自然に生まれ、今もずっと膨らみ続けている。
「毎日白い絵の具飲んでるから肌が黒くならないですむの?」
当時は意味が全く理解できなかったが、子供のよくある集団イジメの中でも特にひどい一言だったように思う。私の肌の色は日本人のそれと同じであり、両親も親戚もさらに知り合いのおじさんやおばさんにも黒人の人はいなかった。
私の無知さは、中学校にあがるまでが最もひどかったように思う。普通なら家庭内で覚えるような事もわからないことが多いのは、両親の話す外国語は、幼児にも伝わるような簡単なものなら理解できたがそれ以上は全くわからなかったからである。
私が学校では教えてくれないことを教わるのはいつだって漫画やTVだった。
母親にブラジャーや月経の伝え方もわからず、第1次思春期には、ひどく苦しんだ。
母親がそれに気づいたのは、初経を過ぎて3ヶ月目になってからで、さらに言えば他人からの情報だったのだから相当に悩ましい子供時代だったように思う。
積もっていく息苦しさとストレスが子供の体から溢れ出しそうだった私を救ってくれたのは、家出サービスとの出会いだった。
超高齢化社会の中で未来を危惧したある人物により発足した家出サービスは、幼児から30代までを若者カテゴリーとしてその保護活動を目的としたものだった。
莫大な費用をかけてあらゆるメディア活動を起こし認知度を全国区に引き上げていったのは一時社会現象となった。幼児や子供向けのアニメ、20代向けの映画やドラマなど否応無く目に入る家出サービス事業は主に40代以降の大人たちには家庭内ヒエラルキーを脅かすシステムと不評であり不健全であるとされた。家出サービス事業の主目的は、生活相談窓口であり、違法ではなかったがその実相談者の要望を違法スレスレで叶えていると話題になっていた。しかし、そのどれもが噂でしかなかった。
"あなたの家出叶えます。"
私の通う小学校にも家出サービスのポスターが貼られていた。電話番号と地図が載ったポスターには、話題になったアニメの主人公がこちらに手をさしのべていた。いつも主人公よりも友達役の方が好きだったなと思いながら通り過ぎていた。
「友達なんていらない。だって自分でなんとかできるから。誰がなんと言おうと私は自分自身を信じてるから」
この台詞が好きだった。どんなに卑屈になっても鏡を見れば絶対に裏切らない味方がいるんだから寂しくない。鏡の中のもう一人は、私を傷付けない。
両親の生まれた国では、どうやら暴力による躾が正義とされているようだった。
ある日、温厚な父親がベルトで兄を何回も叩いているのを見て初めて父親に対して恐怖の感情を抱いた。
泣きながら何度も謝る兄と、それを見ながらも当然のような顔でいる母親に私は言葉を発することが出来なかった。
そしてどうやらそれは性別に関係しないようで、同じ国の両親を持つハーフ友達や従姉妹はベルト打ちにされているそうだった。
幸運と言うべきなのか、私は今までも一度たりともベルト打ちにされた事はなかったがそれでも躾の名目でよく殴られ蹴られていた。
「子供なんて持つものじゃない」
最後に必ず付け足される母親の口癖であったこの台詞は、本人からすれば良い天気ですねレベルで数えきれない程聞いたものだった。
大人になってみれば、あれはただの口癖と割り切れるものだが、その時点で母親に対する体への拒絶感情という刷り込みは終了している。
どんなに真実として私の母親が子供を一番に考える善良な人間であるとわかっていても、植えつけられた拒絶反応は簡単に払拭できないものなのだ。
中学校にあがり、両親が一時別居するほど険悪だった時期に私は父親の元に残された。
必死に良い娘であろうと誰にも教わらずとも、無知ながら料理も家事も行なった。
歳の近い弟がいたが、世界に共通する男は家の仕事をしないという頭の悪いルールが我が家にも適応されていたため手伝ってはくれなかった。
兄は父親との確執を一度も縮めることが出来ずに家を出て数年が経っていた。
「学校から帰ったら何か手伝ってよ。洗濯でも皿洗いでもいいから」
怒りを抑えきれない弟への懇願は何日も続いたが一向に応えてはくれなかった。
子供の時には親が全ての家事をしてくれるこの日本という国の価値観を知り得ていた年頃の私は、拒絶感が日に日に強くなっていた。そしてついに、1週間どうしようもなく疲れて何もできなかった時に事件は起きた。
仕事から帰ってきた父親が全ての料理道具を大きなゴミ袋に捨て始めたのである。
「ちょっと…何してるの?」
抗議と共に父親の側に寄っていった。その光景を見ながら、何よりもまず料理道具が一切なくなったのを母親が知った時の怒りを考えて全身から冷たい汗が吹き出て止まらなくなった。
「使い道がないものを溜めておくくらいなら捨てた方がマシだ」
この時、父親の怒りとその対処法に私は絶望した。
1週間溜め込んだ洗い物が捨てられていくのを眺めながら、何故かもう洗わなくていい安堵感まで押し寄せてきた。
父親が作業を終えた後そのまま浴場へ入るのを確認して、すぐに家を出た。
家出サービスセンターの場所は、ポスターで何度も見て記憶していた。