糸井
「フフフ。驚いたかな?松橋悠人君。改めて自己紹介しようか。私の名前は糸井和哉。知っての通り悠人君の叔父さんなんかじゃない。君は今、どうしてこんな状況に置かれているか理解しているのかな?」
糸井と名乗る男は笑顔のまま聞いてくる。
「僕は……。あなたの事なんか知らない……」
ようやっと、発声も慣れてきて、初めて言葉らしいものを喋る事ができた。
「それはそうだよ!だって君とは初めて会うんだから。さぁ、考えてごらんよ」
糸井は笑顔のまま、まるでクイズでもしているような口調で楽しんでいる。そんな糸井に僕もイライラしてくる。
「僕は……僕達は事故に遭ったんだ。そうだ、父さんと母さん、沙織はどこに!?なんで、みんな僕の名前を知らないんだ!?」
糸井はニコニコと楽しそうに話す。
「おっと、大きな声はダメだよ。ここは病院だからね。じゃぁ、私から答えを。悠人君のご両親と妹の沙織ちゃんは残念だけど死んじゃいました。あの事故で生き残っていたのは悠人君、キミだけだよ」
何を言っているんだこの男は。みんな死んだ?
「ウソだ。あの時、父さんも沙織も生きていた!」
糸井はなおも笑顔で話す。
「大きな声を出すなと言ったはずですよ?」
笑顔のまま凄む。顔は笑っているのに、僕は糸井の笑顔の中に潜む何かに怯える。逆らってはいけない。本能がそう伝えてくる。
「何故、見ず知らずの私が悠人君の叔父だとウソをついたと思う?」
「わかりません……」
糸井は手に持っていたカバンから一枚の紙を取り出し僕に見せる。
「借用書?」
僕のつぶやきに満足したように糸井が頷く。
「そう。借用書だよ。下を見てごらん」
借用書の下には金額300,000,000円也と書いていて、父さんのサインと判がおしてある。
「いちじゅう……さんおく!?」
「三億円。君のお父さんが私から借りた額だよ」
父さんは普通のサラリーマンだったはずだ。裕福ではなくても貧しくもなくごく普通の家庭だったはずだ。それが三億!?
「何かの間違いです……。父さんは普通のサラリーマンだった……」
「では、何故、急いで仙台まできたんです?私から逃げようとしたのでしょう?」
そうだ。父さんと母さんは逃げるように仙台に向かった。夜逃げのようだと思ったのは僕ではないか。
「兎に角、それを返していただかないと私も困るんですよ。残念ながらお父さんは保険に入っていなかったようで、事故の相手も見つかりません」
「でも、僕には払えません」
「悠人君。サラリーマンの生涯年収って知ってますか?」
クイズ形式が好きな人だ。
「いえ……」
「大体二億円です。悠人君が死ぬまで一生懸命働いても返しきれないんですよ」
この人は何が言いたいんだ。働いても返せないなら僕にどうしろって言うんだ。
「それで、私は考えました。悠人君に三億以上稼いでもらおうってね」
「さっき無理だって言ったじゃないですか……」
「それは一般のサラリーマンの話です。生涯年収が安定して四億円以上の職種があります。それは医師です」
いし?お医者さんの事か?そんなに稼げるのか……。医者という職業は。
「そこで、提案があります。君達はこれから身元引受人なしで良い学校にも行けずに普通に働いて、一生かけて私に借金を返済していくか、私のために医者となって、社会的地位を手に入れて死ぬまでかからずに完済して借金に追われない日々を過ごすのか。どちらを選んでもいいんだよ?ただ、最初の提案の方は返しきれないから途中で死んでもらうけどね?」
笑顔のまま殺すと言う糸井に恐怖を覚える。が、それよりも気になった事がある。糸井は確かに「君達」と言った。僕だけじゃない。沙織が生きているかもしれない。いや、生きている。
「僕は……あなたに従います。父さんの借金を全て返済します」
眼があるのかないのかわからない糸井の目を見据えて、僕は答える。僕の家族は生きているはずだ。いつか聞き出してやる。
「いい判断です。今日からキミの名前は黒沢悠です。準備は整っていますので、何を聞かれても名前以外は憶えていないと答えてください」
黒沢悠……。
「わかりました」
この時から僕と糸井の嘘で固められた関係が始まった。