eins
もう朝ではない。
昼と呼んだ方がおかしくない時刻だ。
こんな時間まで姿を見せないのだから惰眠を貪り続けているに違いない。
出逢った頃はもっと働き者だったし、やる気もあったのに。
仕事のあと、異様に疲弊して動けなくなったり、食事もせずに爆睡するのはもともとだったけれど、少なくとも、朝のうちには起きて行動していた。いまはまったくといってもいいくらい朝には起きてこない。ひどいときには夕方近くにのそっとアパートの階段を降りて来るくらいだ。
「まったくもおっ!」
苛立ちをべったりと塗り込んだ声を張り上げると、ゲルト・ベッシュは行きかう車の間をぬって通りを渡った。
「ほんっとに、あんのバカ!」
一際大きな声で言い放ってから、勢いよくアパートの鉄製階段を駆け上がる。
錆の浮きまくった古い階段だ。こんなふうに力任せに上がったらステップがいつ抜けてもおかしくない。
いつもなら気をつけている。穴を開けてしまって困るのも損をするのも自分だ。
このアパートに管理人なんて上等なものはいない。大家は腰のまがったおばあさんで、家賃を受け取る以外では干渉してこない。干渉をしてこないとは、建物が壊れたり住人同士いざこざが起きたりしても知りませんよということで、支障があれば自分たちでなんとかしなければならないという意味だった。「良い大家さん」というわけではない。
ここと同じくらいの広さがあって、家賃も安いアパートなんてそうそう見つからない。大事にして長く暮らせるようにしなければならなかった。
だから、ほんとうに、いつもならこんな乱暴に階段を上がることはしない。
でも。
今日はそんな気遣いをもっていられる気分じゃない。
イライラは数えきれないほど積み重なってはちきれそうで、相手の出方によっては確実に爆発する状態にある。いまならどんな冗談だって導火線になりかねない。
ゲルトは階段を上がっていたときよりも更に険しい足取りで、ひび割れの浮いた共用の外廊下を突き進んでいく。
この廊下も、こんなふうに乱暴に歩いたら崩れ落ちそうなレベルの古さなのだが。
「どんだけ使えねぇんだよっ!」
いちばん奥の部屋の前で立ち止まり、ゲルトはノックもせずに思い切りドアを開けた。錆びついた蝶番が文句をつけるみたいにヒステリックに軋んだ。
「おいっ!」
思いっきりの大声を上げる。
「こら! ポンコツっ!」
言いながら、ゲルトは大股に部屋を横切った。
遠慮もためらいもなく、右側の部屋のドアを開ける。
「いつまで寝てんだよっ!」
勢いよく部屋に入り、脱ぎ散らかされた上着とシャツ、パンツ、好き勝手なほうを向いているショートブーツを蹴り上げた。
壁際のベッドの膨らみを見下ろし、「ふんっ」とひとつ鼻を鳴らす。溜め息と苛立ちをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせて「ったくさ」とも呟き、布団に手をかけた。
「冗談じゃねぇっつーんだよ」
吐き捨てて、ゲルトは一気に布団を剥ぎ取った。
ベッドでは細身の身体が丸まっていた。
「ただでさえ少ねぇ脳みそが完全にとけるぞっ!」
ゲルトは皺だらけのアンダーシャツにハーフパンツの男に尖った声を投げつける。
「う、ん……」
ベッドの上の男はうわごとにもならないような声を漏らし、寝返りを打った。アンダーシャツ越しに形よい肩甲骨と背骨の形がわかる。
「ジギっ!」
ゲルトは、男の背中を思い切り殴りつけた。
「うがっっ」
いきなりの衝撃だったのだろう。男は身体を弓なりに反らして、ひしゃげた呻き声をあげた。
ゲルトはもう一発拳を入れた。
「い、いってぇ!」
男は爆ぜるように身を反転させ、飛び起きた。襟首の伸びたアンダーシャツから大きく左の鎖骨がのぞいている。
「なぁにすんだ、この悪ガキっ!」
男はさっと腕を伸ばし、ゲルトに反撃しようとした。パンチが腹を掠める前にゲルトは素早く後ろへ飛び退いた。少し避けただけのつもりだったが、存外勢いがついていたのか踵は壁にぶつかってしまった。
「こっちはもう一仕事も二仕事も終えてきてんだよ! ポンコツ寝坊男!」
ゲルトはすぐ背後の壁を手のひらで叩きつけた。
「誰がポンコツだっ!」
すかさず男が喚いた。
凄んでいるつもりなのだろうが、寝起きのせいか眼元がぼやけていて迫力がない。思わず笑ってしまいそうで、ゲルトはとっさに頬を膨らませた。
男は睨みつけているような、そうではないような目つきでゲルトを見ている。
「がーがー、がーがーイビキかいて寝やがって! 何時だと思ってんだよ!」
ゲルトは反動をつけて頬から息を吐き出す勢いで言い放った。それまでより声に強さがあった。
「昨夜遅かったんだよっ」
男はゲルトの語尾に被せるように言い返してきた。
寝起きの余韻がほどけはじめているのか、眼元が鋭くなっている。もともと目つきはよくないのだが、いつもより棘があった。
気持ち良く酔っ払ってベッドに入り、心地よく眠っていたのに、暴力的に叩き起こされて不快でたまらないという顔だ。
ちょっと怖くなったけれど、今日は溜まった鬱憤をぶつけると決めている。言わねばならないことがごまんとある。
嫌いではないし、いやな相手でもないが、苛立ちが積もりに積もっていた。
でも、ゲルトとしてはこれからも彼と同居を続けたい。傍にいたい。
そのためには、一方的に我慢をしてばかりではいけないのだ。
この男はいつも自分を押し通す。たぶん、ほとんど我慢などしていない。
その性格を変えてもらうことは難しいだろう。でも、せめてゲルトの苛立ちを理解してほしい。彼もゲルトとの生活を解消したくないと思っているのならば、だが。
「ヴァルターのとこでだらだらしてただけだろうがっ」
「営業だわっ!」
「なにが営業だ! ただ飲んで騒いでただけだってアレクが言ってたぞ」
昨夜の男の行動を軽くあげつらってみる。仕事はいつも朝が早い。陽がのぼる前には部屋を出ねばならない。深夜まで飲んでいてできるわけがなかった。
男もそのあたりはわかっていて、納得した上で仕事に就いている。
「あいつ、ほんとに余計なことを」
男は忌々しいとばかりに呻き、髪をぐしゃりとかき回した。長い指が微妙に震えているように見えた。肩先もしゃくりあげるみたいに上下している、
ときどき、男はこうなる。
きっかけはわからない。それまで普通に話していても、急に全身が震え、言葉もおぼつかなくなる。挙句、げーげー嘔吐して、動けなくなってしまう。
そのひどい症状になるのを抑えるためなのか、何度か薬を飲んでいる姿を見たこともある。「それはなにか」と訊いたら「ありふれた栄養剤」だと答えられたが、薬を口に含む際の青ざめて硬直した彼の様子からは、そんな簡単なものには思えなかった。
それでいて、なんらかの病気というわけではないらしい。おかしくなるのは頻繁ではないから、確かに病気と括るべきではないのかもしれないが、「普通のひと」とも言い切れない。
またその症状が出るのだろうか、
もしそうなら、これ以上の言い合いはやめねばならない。思っていることを吐き出しきれてはいないけれど、彼を追い詰めるのは本意じゃない。
ゲルトは男の鼻筋の通った横顔をうかがった。
男はまた髪をかき回し、小刻みに数回深呼吸をした。指の震えはひどくならず、ゆったりとおさまっていっているようだった。顔色もさほど悪くはない。
だいじょうぶそうだ。
「おまえのことをアレクも心配してんだよ」
ゲルトは少しだけ口調を弱めた。
男は髪から指先を引き抜き、ちらりとゲルトを見た。眼の鋭さは増していたが、尖ってはいなかった。
もう怖さはなかった。
「こんなのを繰り返してて、食い詰めても知らねぇぞ」
そう続けてみる。
男は痙攣するようにふたつ瞬いた。
「そうなったとしても悪ガキの世話にはならんから」
ぼそっと呟き、男は力ない笑みを浮かべた。
見慣れたいつもの彼に近づいていく気配にほっとして、ゲルトは「よく言うよ」と返した。
「あ?」
男が怪訝そうに聞き咎める。声色にはわずかながら笑いが織り込まれている。
「もう充分、俺が世話してるっつーの」
ゲルトは冗談交じりに聞こえるように意識して言うと、一歩ベッドに近づいた。
「とにかくさっさと起きろ」
ぴしゃっと肩を叩いてやる。
「何時だよ?」
曖昧にゲルトを見て、男が訊く。
「もうすぐ十一時」
「あーーもういい」
ゲルトが答えた途端、男は布団を掴み、ベッドに横たわった。頭から布団を被る。
「まぁだ寝るのかよ」
うんざりとゲルトは言った。男は布団からひょっこりと目だけ出した。きつい目元でも、こんなふうにするとどことなく可愛らしい。
どうしても憎めない。怒れない。
たくさんの鬱憤や苛立ちがあっても、飲み込んで許してしまう。むしろ「そのままでいいよ」と言ってやりたくなる。
駄目はポンコツ男だと思うのに、嫌いになどなれない。
改めてそう感じる。不思議な男だ。
「もう起きてもしょうがねぇもん」
ぽろっと漏れた男の答えは、甘えん坊そのものだった。
どきっとして、ゲルトは一瞬、ほんとうに一瞬口ごもる。
こういうところに弱いのだ。
ずるいなと思ってしまう。
「……なにが、しょうがねぇんだよ」
数秒の間をあけて、言い返す。布団からは眼しか見えないのに、拗ねているのがわかる。
まったくもってずるい。
こんな表情はとんでもない武器だ。鼓動が醜く跳ねている。
ほんとにずるい。
「いまから出てもなんもできねぇし。どうせ全部持ってかれてんじゃん」
「おまえがアホみたいに寝てたからな」
胸のうちの動揺を誤魔化すように、ゲルトはわざとぶっきらぼうに返した。
不規則に跳ねまわる鼓動の衝撃が声にのってしまいそうだった。
「だろ。だったらもういい」
男はぎゅっと布団の端を握り締めた。長い指はもう震えていなかった。
そこにも安心して、ゲルトはふっと息を吐き出す。
「ほんっとにポンコツだな、ジギって」
ゲルトはいまやっと思い出したみたいに男の名前を口にした。
ジギ・シュレーカー。
それが彼の名前だ。ゲルトより二歳上の十八歳。もと軍人。それも下級士官。
ゲルトが知っている彼の情報はそれだけだ。他のことは教えてくれなかったし、ゲルトもあえて訊こうとは思わなかった。ジギのほうからもゲルトのプロフィールを訊いてはこなかった。
だから、この程度知っていればいいと思っている。
逆にいうなら、この程度の情報でも友人にはなれるのだ。ともに暮らすことだってできる。
きっとこれからも他のことを互いにあかし合うことなく過ごしていくのだろう。重要なのは知り合う以前のことではない。互いを認識して以降の毎日だ。
ジギがどう思っているかはわからないが、たぶんゲルトと大差ない気持ちでいてくれているはずだ。そうでなければ、一年近くも同じ屋根の下で暮らせまい。
「もうそれ褒め言葉にしか聞こえねぇ」
ジギは自嘲気味に言う。すっかり棘はなくなって、ゆったりとした口調だ。
「酒が入んなくたって朝弱いんだからジャンク屋なんか向いてないんだよ。やっぱ」
「ほかにする仕事ねぇだろ。俺には接客とか無理」
ふわふわと首を横に振り、ジギは力なく笑った。
「いい加減、特技生かせば? すげぇ金になるんだから」
そんなことは望んでもいないけれど、そうしてみるかなんて言ってほしくはないけれど、あえて提案してみる。もし諒解されたら取り返しがつかないのに、あまのじゃくなのだ。
「……冗談だろ。あんなのはもっといやだ」
ジギは否定を口にした。力強いわけではないが、きっぱりと言い切っている。本心なのだろう。
ひどく安心した。
心の中のあまのじゃくでさえほっとしている。
だいじょうぶ。
まだジギと暮らせる。彼の駄目ところやポンコツな行動にイライラを積み重ねても、やはり傍にはいたい。
絶対に素直に伝えることはないけれど。
伝えられっこないけれど。
「そか……」
ゲルトはこくんと頷いた。
「じゃあ、ここにいればいいよ」
そう呟いた声は、きっとジギには聞こえていないと思う。
それでいい。
それでこそいい。
傍にいたいなんて気持ちは気づかれたくはないから。