Einleitung
夕食のあとから降り出した雪は深更に入ってますます強くなっていた。
瞬きすら奪うほどに視界を遮る。まさに白い壁のようだった。
「……まさか、ここまで降るとは思わなかった」
ぼそりと呟いて、ヴィリバルト・ウムブシャイデンは傍らのひとの耳に入らないように微かな舌打ちをする。
士官学校や軍の任務で悪条件に慣れているヴィリバルトはともかく、このひとにこの雪はつらくないだろうか。
もちろん、守る。
最後の最後まで、たとえ我が身を引き裂かれたとしても必ず守り抜く。
でも。
さすがにこの雪は――。
少しどこかで休んだほうがいいかもしれない。
「だいじょうぶですか? 姫さま」
そっと心からのいたわりを込めて訊く。
防寒コートのフードを深く被り、更に巻きつけたストールをすり抜けて、プラチナブロンドの絹のような髪が揺れている。白い頬は青ざめて凍てつきはじめている。
「ありがとう」
美しいひと。我が身すべてを投げ出しても守ると決めた運命のひと。
いとしいなどと言うのもおこがましいけれど、ほんとうに心の底からいとしいひとが優しく、このうえなくたおやかに微笑んでくれる。
「そのような気遣いはいりません、ヴィリバルト」
ふわりとゆるく頭を横に振り、美しいひとの微笑みが深くなる。
あまりの美しさにぞくりとする。
許されるはずがないけれど、いますぐにも抱き締めてしまいたい。互いの鼓動がどちらのものかわからなくなるくらい強く腕の中に抱え込み、守り抜きたい。
このひとを見つめていられるのなら、傍にいられるのなら、雪の烈しさも冷たさも、凍りついた空気もまるで苦にならない。
このひとを守るためにすべてを捨ててきた。信頼も任務も経歴も、日常も家族も、得たばかりの中尉の階級章も。
そして、もうひとりの大切な美しいひとも。
「ですが、この雪では」
「だいじょうぶです。わたくしはそんなに弱くはありませんよ」
美しいひとはもう一度、頭を左右に振った。
長い髪が雪の中で舞う。
「休みを取らなくても?」
ヴィリバルトは重ねて確認する。
だいじょうぶと言われて、あっさりと頷けるような天候ではなかった。
「ほんとうに必要はいりません」
くっと腹に力を込めたのか、美しい声が凛と響く。
思わずうっとりしてしまう。いとしくてたまらない。
ヴィリバルトは双眸を細めて、白くまっすぐな鼻梁を見つめた。
「今夜中になるべく『城』から遠ざからなければ、抜け出した意味がありません」
ヴィリバルトの溺愛めいた視線を払い除けるように、美しいひとの声は鋭く冴えた。切れ味のよい刃のようだった。
「……わかりました」
――さすが、歳若くとも『城』を統べる姫だ。
威圧されて、ヴィリバルトの声が鈍く掠れた。諒解せざるをおえない意志ががっつりとヴィリバルトを捉えてくる。
この気持ちを尊重し、今夜を迎えたはずだった。
美しいひとがいまいちばん望むのは労わりなどではないのだ。
「それでは急ぎましょう。この先へ行けば車も用意できるはずですから」
ヴィリバルトはすぐに気持ちを切り替えた。今夜もっとも強く声を発した。
「迷惑をかけます」
美しいひとはひどく嬉しそうに口角を引き上げた。ストールとコートの襟元をぐうっと掴み、ついっと顔を上げた。自分より二十センチは背の高いヴィリバルトと視線を合わせようとしてくれている。
それだけで飛び跳ねてしまいそうなほど嬉しい。
――私はこの方のために生まれた。
ヴィリバルトは自分にすら言い聞かせるようにはっきり「いいえ」と否定した。迷惑だなどと考えたことは一瞬たりともない。
このひとに出会い、信頼を勝ち得たことは人生最大の誇りだ。
「わたくしと出会わなければ、あなたは傷のないエリートのままでいられたでしょうに」
烈しい雪を透かして、青い瞳がまっすぐにヴィリバルトを見ている。
「もうおっしゃらないでください。私は姫さまをお守りすると、何度もお約束したはずです」
声が歓喜で上擦らないように注意しながら、ヴィリバルトはきっぱりと言い切った。これ以上、美しいこのひとに余計な気遣いの言葉を発させたくはない。
「……ヴィリバルト。無理をしてはいない?」
「少しも」
当たり前だとばかりに、ヴィリバルトは首を振った。
「ああ、よかった」と呟いて、美しいひとは可憐にしなやかに、優しく微笑んだ。
「あなたがいてくれて、本当によかった」
続いたのはまさに至上の言葉だった。これ以上はない。これ以上を求めたら罰が当たる。
「……そのお言葉だけで、私はどんな障害も乗り越えてみせましょう」
もう上擦らないことを気にする余裕もない。どうにもならないくらいに昂ぶっていく。
「わたくし、あなたを信頼していてよ」
美しいひとは、そうっとヴィリバルトの二の腕に触れた。ほんの少しの接触なのに、そこから発火したみたいな灼熱を感じる。
鼓動が崩壊寸前の速度で波打っている。
ヴィリバルトは遠慮がちに、だが確かに美しい指先に手のひらを重ねた。
――なんという信頼をいただいたのだろう。姫さま。私はあなただけは絶対に裏切らない。永遠に。
――その代わりに裏切ってしまうたくさんの人たちに今だけ詫びます。お許しください。
ヴィリバルトはとっさに瞼を伏せ、もうひとりの美しいひとを思い浮かべた。
* * *
足を止め、回廊の窓越しに外を見やった。
いつもなら漆黒に塗り込められているはずの時刻。
だが、烈しく降り続く雪のせいで妙な明るさを帯びている。深く積もった雪に乱反射するのは営舎の灯りか。
「飽きもせずよく降るものだな」
クサーヴァー・ツェーザルは嘲笑交じりに低く呟き、凍りつきそうな窓ガラスを指先で弾いた。
歩き出そうとした途端、曹長の階級章をつけた兵士が泡を食ったような勢いで駆け寄って来た。
「大佐殿っ!」
「騒々しいぞ。なんだ」
鬱陶しさに眉を顰める。騒々しいのは好きではない。
将校はともかく、まともな教育を受けず、一足飛びに立身出世するためだけに兵士になった連中は品がなくていやになる。営舎にいる限り、有象無象なのだからしかたがないのだが、できればこんな下級の人間から声をかけられたくはない。
もっとも、曹長の階級を持っているのであれば、下級とは言いきれないのだが、クサーヴァーの感覚から見れば姿すら見たくはない。汚らわしいとさえ思ってしまう。
できれば、端正で賢い者たちとだけ接していたい。使えない雑魚も、余計な雑音もいらない。
クサーヴァーが下品な人間を嫌うと知っていて、なぜ、この男に伝令を頼んだのか。
「姫さまがっ! 姫さまがっ! 大変です! 姫さまがっ!」
曹長は相変わらず慌ただしい口調だ。
クサーヴァーはうんざりと溜め息を吐く。露骨に出したつもりだが、彼には伝わっていないようだった。
「……姫がどうした」
仕方なく、訊き返してやる。
「姿がっ、姿が見えないそうです!」
「は?」
想像もしなかった報告に、クサーヴァーはむっとする。声が尖った。
「護衛兵たちがっ、『城』中をくまなくお探ししたそうですがっ! どこにもおられなくてっっ!」
「なんだ、と?」
「どっ、どうやら昨夜のうちにご出奔をっ」
あり得ないはずの事態にパニックになっているのであろう曹長は、それでも必死に状況の報告をした。
クサーヴァーはちちっと二度舌打ちをして、苛立たし気に歩き出した。
「あのはねっかえり姫が! 余計な手間ばかりかけてくれる!」
そう口にしたら、美しい眼差しにクサーヴァーを見下げるような表情を過ぎらせた小娘への憤怒が甦って来た。どんなに無礼なことをされても、言われても、相手が姫である限り、跪かねばならない。あの小娘がいなければ『城』は維持できない。
姫と『城』を守るのが任務でもある。
それでも。
なにも言葉を交わさないうちから明らかに相性が悪いとわかった。目が合ったら実感した。
――いやな女だ。
痛感したのは、小娘が姫の地位を振りかざして、クサーヴァーが大切に育てた手駒を取り上げようとしたときだった。
「すぐにヴィリを呼べ!」
速度を上げて歩きながら、クサーヴァーは後に続く曹長に命じた。
「それが、大佐殿……」
戸惑うような声がすぐに帰ってきた。
「あいつなら姫の行先くらい想像がつくだろう」
「はい」以外の返事などあり得ないはずなのに、微妙な返しにいらっとして、クサーヴァーは髪をかき上げた。
クサーヴァーの栗色の髪は肩にかかるほど長い。軍規違反なのだが、誰にも咎められたことはない。軍服も襟元をかっちりとしめ、アンダーシャツを着なければならないという規定があるのに守ってはいない。常に襟元をゆるめ、アンダーシャツも着ない。外れた合わせからは大抵肌が覗いている。
有能な将校で、立て続けに手柄をあげて瞬く間に昇進したばかりか、誰の目から見ても端麗だと評価される容貌が、彼を軍内において治外法権的な存在にしていた。
クサーヴァーも自らの優秀さには自信をもっている。いまの立場は当然だ。
だからこそ。
あの小娘からの上から目線が許せなかったのだ。たとえ姫なのだとしても。
「中尉殿も、おりません」
「なに?」
重なった意外な言葉に、クサーヴァーは思わず足を止めた。
「どういうことだ?」
肩越しに曹長を睨みつける。
「ですから……」
クサーヴァーの眼光の鋭さに威圧されて、曹長が口ごもる。正確に伝えないのなら伝令の意味がない。
「はっきり言え!」
クサーヴァーは毅然と命じた。回廊に鋭い声が響き渡る。
「お、憶測ですが」
「構わん! 言え!」
兵たちは確証のない想像の報告はするなと教育を受けている。目で見た現実以外は上官に伝えてはならないと身についているから、すんなりとは言えないのだろう。
「言え!」
わかっていてなお、クサーヴァーは追い打ちをかけた。
曹長はごくんと唾を飲み込んでから、意を決したように口を開いた。
「……中尉殿は、姫さまとご一緒なのではないかと」
「なん、だと」
そう答えながら、頭のどこかで予想もしていた。
あの小娘がたったひとりで『城』を脱出できるはずがない。誰かしら援助者がいる。
小娘が頼り、言葉巧みに操れる存在
それに溺れるように従う人間。
それは、いまあの男しかいない。
「ここ数日、中尉殿と姫さまがよく話をしていたのを目撃した者がおりまして……も、もちろん噂なのですが」
クサーヴァーの見開かれた眼に射抜かれて、曹長はとっさに言い訳じみた言葉を添えた。
クサーヴァーはふっと引き攣れにも似た笑みを浮かべて、また髪をかき上げた。押さえた指の間から髪が数本ひらりと落ちた。
「だが、ヴィリはおらんのだろう!」
苛立ちと怒りを撹拌して吐き捨てる。ぐしゃりと髪をかき回す。額に散る髪の数が増える。
「は、はい」
曹長はクサーヴァーの声と表情に鬼気迫るものでも感じたのだろう。仰け反るように身体を震わせた。
「では、その噂とやら大きく外れてはいない」
クサーヴァーはふふっと低く笑った。
愚かな男への嘲りと、大切にし、信じてきた男に裏切られた自分への蔑みで、笑わずにはいられなかった。
「探せ」
「大佐殿?」
「探して連れ戻せ! 抵抗するようなら腕の一本や二本折るなり切るなりしても構わん!」
かつてここまで憎しみを込めたことなどないくらいに凄む。曹長はますます震えた。
「ただ殺すな」
「はい?」
聞き取れなかったのか、驚きなのか、曹長が訊き返してきた。クサーヴァーはにやりと笑んだ。
手駒であるはずの男と、絶望的に嫌悪する小娘の姿が脳裏をぐるぐると回る。ふたりが嘲笑っているようで、感情がどの形にもおさめられない。
「殺すなと言った。どんな姿になっても生きた状態で私の前へ連れて来い」
残酷で酷薄な最後通牒だ。
信頼していたぶん、裏切られれば憎悪は一気に肥大する。許すも許さないもない。殺しても飽き足らない。
だが、絶対に殺さない。簡単には楽にはしない。
――裏切りの罪は重い。
「……姫さまは」
曹長は命令漏れの確認を取ってくる。
その言葉に、クサーヴァーはあの男に対することしか口にしていなかったことに気づいた。
いまの本音を言うなら、小娘などどうなろうとかまわない。いっそ雪の中で行き倒れにでもなってしまえばいい。
『城』の姫なら新たに見つければいいだけだ。
――まったく、いやな女だ。
考えなくてもいいことを考えさせる。余計な手間をかけさせる。大切なものを操って奪い取っていく。
あんな小娘は端から姫に向いていなかったのだ。
「あの女も少し痛めつけてやれ。二度と『城』から出ようなどと思わないように」
クサーヴァーは思いきりの溜め息とともに、冷淡に命令した。あの男に対する罰とは比較にならないほど熱がこもっていないと気づかれないように。
「はっ」
曹長は深く頷くと、素早く身を翻した。
遠ざかっていく足音を聞きつつ、クサーヴァーはすうっと両眼を細めた。
――この私を裏切るとはいい度胸だよ、ヴィリバルト・ウムブシャイデン。
――だが、それがいかに愚かしいことか、思いしるがいい。そして今度こそ永遠に私に跪け。