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僕と彼女の秘密のはなし

作者: 濱野 十子

  鼓膜を打つような強い雨音は、深い森に囲まれた山間の町に薄い霧を生み出しながら降り注いでいた。

 車も人影もなく、寂れた田舎町のひび割れたアスファルトが続く坂道。

 蛇のようにくねる坂道を下れば町があり、見上げれば首が痛くなりそうな傾斜を少し登れば町で唯一の学校と幾つかの畑がある。

 ここには都会の慌しい喧騒は無いが、その代りに時代に取り残された……いうなれば、緩やかに滅びへと向かう物悲しさが、緑に埋もれた景色を緩慢に締め付けていた。

 そんな田舎町に、家庭の事情というありふれた理由をもって清川陸がやってきたのは、つい一週間ほど前のことだった。

 一学期の終了も待たず、逃げるように東京を離れて陸は両親の田舎へとやってきた。

 別れを告げる友人がいるわけでもない陸は、小学校最後の一年と言う時期の転校に、周囲が心配するほどには抵抗を感じてはいなかった。

 しかし、夏休みも目前とあって浮かれる生徒達を目の前にしては、さすがに自分が異分子であると言う事実を感じずにはいられなかった。

「……」

 だからだろう。

 突然振り出した夕立にほとんどの生徒が教室で雲が過ぎ去るのを待っている中、陸は互いに感じる距離感に耐え切れず外へと飛び出していた。

「くそっ……!」

 深い亀裂の入った舗装道路を流れる雨水が川となって溢れ、滑りやすくなっている坂道を下りながら、陸は胸を突く苛立ちに呻いた。

 学校を出るときには足元が見えるくらいだった霧は、いつの間にか坂の下に見える景色を覆い尽くすまでに濃くなっていた。

 視界の悪さに募る不安感に耐えつつ、陸は町と学校とをつなぐバスの停留所へと飛び込む。

「……ふう」

 掘っ立て小屋というよりは、ほとんど廃屋となっている停留所の軒先に立ち、陸は跳ねる鼓動を落ち着かせるため深く息を吐いた。

 日に五本といった、東京では考えられない本数のバスは坂を登ってきて折り返しこの場所から町へ下って行く。

「まだまだ先か」

 錆びた時刻表と腕時計を見比べ、額に張り付く長めの前髪をかきあげる。

 老朽化が進み、所々に穴の開いている軒先を突き破るように雨音は強まり、耳を塞ぎたくなるような轟音に顔をしかめる。

「早く、止まないかなぁ」

 襲いくるような雨音と廃墟のようにまったく人の気配が無い通りに、心細さばかりが募る。

「僕……お一人?」

「――!」

 ふと聞こえてきたそよ風のような柔らかい声音に、陸は大きな瞳をいっぱいに開いた。

「ふふふ。 ごめんなさい、驚かせてしまったかしら?」

 慌てて振り返ったそこには、赤い番傘をさした長い黒髪を結い上げた和服の女が艶やかな微笑を浮かべて立っていた。

「だ、だれ?」

 降りしきる雨の中、着物に番傘と時代錯誤の出で立ちだが、女の持つ凛とした雰囲気は濃霧の中にあって色鮮やかに陸の前に存在していた。

「わたし? そうねぇ……桔梗ということにしておきましょう」

 ぱらぱらと番傘の立てる雨音を連れ立って、桔梗と名乗った女は警戒心をあらわにしている陸の隣に立つ。

「お入りなさい。 濡れていますよ」

 そう言って、艶やかな髪に挿している簪の飾りをしゃらしゃらと鳴らし、桔梗は番傘の先を傾ける。

 屋根があるとはいえ、この雨量では滴る雫だけでもずぶ濡れなってしまうだろう。

「でも……」

「遠慮なさらず、お入りなさい」

 終始穏やかな声音は、陸の緊張を飲み込んでゆくように、深く……艶やかに響く。

「……うん」

 思考の片隅で僅かに燻る疑問さえも絡めとってゆくような、心持ち瞳孔の細い桔梗の琥珀色の瞳を見つめ、陸は差し出された番傘の中に足を踏み入れた。

 ……その時だった。

 肌の裏側から浮き立つような寒気を感じ、陸は反射的に隣に立つ桔梗を見上げた。

「わたしの言うことを、よくお聞きなさい」

 不安に揺れる幼い瞳をじっと見下ろしながら、桔梗は続けた。

「今から何が起こっても、決して声を出してはいけませんよ」

「え?」

「よろしいですね」

 桔梗は、紅が引かれた唇に細く尖った人差し指を寄せた。

 それはとても美しい姿だったが、今はなにより、この……素肌に鳥肌を浮かび上がらせる冷気が気がかりだった。

 そうしているうちに雨音はさらにひどくなり、アスファルトに砕かれて爆ぜる幾万の雨粒が山間の景色を白く塗りかえていく。

「――な、なに?」

 外気は、夏だと言うのに酷く肌寒く。そのあまりの寒気に、むき出しの素肌を擦ろうと陸が動いた時だった。

 ぞろり……

「――!」

 そう。

それは重たい布きれが床を這いずっているような、不気味な音だった。

 ぞろり、ぞろりと。

 幾重にも重なるその音のする方へと不用意に視線を持ち上げた陸は、息を呑んだ。

「お静かに。 連れて行かれてしまいますよ」

 柔らかな声が頭上からかけられるが、正直、それどころではない。

 周囲の景色すら飲み込んでしまう濃厚な霧の中、ごつごつとした岩山のような肌をした二メートルはゆうにある大男達が列をなして、ひたすら山へ続く坂道を登っている。

「……な、な!」

「お静かにと、言ったでしょうに。 仕方ありません。

 あれは、あやかしたちの列ですよ」

「あやかし……?」

「そう」

 にこり、と笑い。桔梗は視線を彼らに向けた。

 その中の一体が不意に立ち止まり、ゆっくりとした動きで陸と桔梗の方へと振り返る。

「……ひっ!」

 血が通っていなさそうな青白い巨躯に、ぽつん張り付いている一つきりの大きな目玉に射すくめられ、背中につめたい汗が流れる。

『ニンゲン。 ニンゲンノ、コエガ、キコエル……』

 一つ目の大男は、頭の半分を占める巨大な口から長い舌をだらしなく垂らしたまま、アスファルトの上に浮いた雨水を跳ね飛ばし停留場の前まで近付いてくる。

「ごきげんよう、一つ目さま」

 軒先に丸太のような手をかけ、中の様子を伺う一つ目の大男はむっとする生臭い息を陸に吐きつけた。

『キキョウ……カ……』

「――!」

 背筋を粟立たせる不気味な響きの声と間近に見る人知をこえた異形の姿に、陸は悲鳴を上げる。 

(……お黙りなさい)

 が、喉元まででかかった悲鳴は、後ろから回された桔梗の白い手のひらによってせき止められた。

(わたしの結界の中にいれば、声を出さない限りは見つかりません)

(――) 

 耳元に感じるひんやりとした桔梗の体温と、少し低い声音に慄きながら、陸はやっとのことで軽く頷く。

「人間などここには居りませんよ、一つ目さま」

 桔梗は陸の口をふさいだまま、凛とした声音で言った。

『シカシ……タシカニ、キコエタ。

 クイタイ、ニンゲン。 クイタイ』

「一つ目さまの、気のせいでございましょう。 この町に住まう者たちは、皆、あなた方を畏れております。

 このような夕立の時に、出歩く者など居りますまい」

 苦笑交じりの桔梗の答えに、納得できてはいないのだろう、一つ目の大男はつまらなさそうに生臭い息を吐いた。

「お戻りくださいませ」

『……』

「さあ」

 促され、しかないと言わんばかりのゆっくりとした動作で、一つ目の大男は自分とまったく変わらない姿の者たちの列へと戻ってゆく。

 それを見送りながら、桔梗は呆然としている陸の口から離した手で、軽く濡れぼそった肩を叩いてやる。

「このような雨の時は、お気をつけなさい」

 長く、長く。

 山の頂へと続くあやかし達の行軍。

 それは、この激しい夕立の収束と共に、うっすらと色を落とし始めた霧の中に消えてゆく。

「……」

「貴方のような幼子は、彼らにとってはご馳走なのですから」

 霧が晴れてゆくとそこにはただ、ひび割れたアスファルトの表面と、水蒸気に煙る山々の景色があるばかりで異形のものの名残など何一つ残ってはいなかった。

 全てが夢であったのか。

 そう思わずにはいられないが、隣に立つ桔梗の手の感触は確かな質感を持って肩に触れている。

「今の……っ!」

 何か明確な答えが欲しくて、陸は桔梗を見上げ……息を呑んだ。

「耳!」

「ふふふ……」

 桔梗の艶やかな黒髪の合間から、二つのとがった耳が出ていた。

 驚愕する陸に、桔梗は瞳孔の細い目で見つめながら含み笑いを浮かべる。

「そう。 わたくしは、一つ目様と同じあやかし。

 古来より、この地の守護者を務めてきた狐です」

 からん。

 ……と、軽い下駄の音が響く。

「夕立は過ぎました。 もう、安心なさい」

「で、でも……桔梗さん」

 追いすがるように手を伸ばす陸を背に、桔梗は下駄の音を引きつれひいてゆく濃霧の中へと進んでゆく。

「言いましたでしょう? わたくしもあやかし。 追ってはいけません」

 濃霧の中にやけに栄える赤い傘越しに、桔梗の艶やかな口元が緩む。

 その姿は確かに異形ではあるが、その華やかさは違いに囚われない魅力を秘めていた。

「ここより先は、我らあやかしの世界。 貴方が来て良いところではありません」

 赤い番傘がくるりと踊り、山へと向かって引いてゆく霧へと桔梗は姿を溶かしてゆく。

「お元気で……」

シャラシャラとからんからんと響く音は、その姿とともに次第に薄れてゆく。

「……」

 陸は凛と響く音を呆然と聞きながら、雨の名残が滴る軒先に立ち尽くしていた。

 アスファルトを流れる雨水は異形の者から離れるよう、山のふもとの町へと流れ込んでゆく。

 そして、次第に鮮明になってゆく視線の先。

 アスファルトで固められた道の向こうの草むらに、古びてはいるものの朱塗りの小さな社を持つ祠が建っていた。

 夏草に埋もれるようにしてちょこんと存在する社の側には、一輪の藍色をした桔梗がたおやかに揺れていた。


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