急報
「はあ。あっちー」
コンビニを一歩出ると、立ち昇る熱気が押し寄せてきた。
ここは日本。現代。
アスファルトの地面。燦々と照る太陽、電柱に留まる蝉の声が耳を打つ。東吾が異世界で酷い目にあって還されてから、二日が経っていた。
昨日おとといと突然のお呼びがかかることもなく、東吾は平和な夏休みを送っている。
「暑いけどでも、こっちは安全だ。向こうにはもうあんまり行きたくねえ……。裸で放り出されるし」
自宅へ向かう道を歩きながら東吾は呟いた。東吾はこの二日間、いつまた全裸で召喚されてしまうかと気が気でなかった。
しかしあれだけ大量のものを体内にぶち込まれた割にに、目が覚めてみると、体に変わったところはなかった。調子が悪いということもなく至って健康そのものだ。
まるで全部悪い夢であったかのようにも思えてしまう。
「異世界自体、夢だったのかな……。もうそれでいい気がする。戦争とかきな臭いことも言ってたし」
異世界に召喚されたばかりの時は、裸で変質者扱いの末、槍でブッ刺され。
二回目は見知らぬ街の珍しさにちょっとワクワクしたものの、頭のおかしい男に拷問を受け。
どちらも最後は、自分の体が土くれになって砂に還る。
わりとろくでもない異世界体験である。リィーンというあの少女だけは優しかったが、はっきり言って楽しくない。
「だいたい異世界召喚なんて普通、勇者ポジションじゃないのか? ゴーレムって。人間ですらないぞ」
とはいえ、もしまた召喚されたら、東吾には回避する手段はなかった。
いきなり目の前が光って、気がつけば異世界で素っ裸なのだ。
どう避けろというのか。まるで分からない。
「神様。ただの夢であって下さい。拷問はいやだ、裸ももういやだ……。俺は平和な夏休みの方がまだましです」
なんて呟いて、東吾は横断歩道を渡ろうとした。
――考え事に熱中しすぎて信号を見ていなかった。信号は赤だった。
『ッブゥゥゥゥーーーーっ!!』
「あっ!?」
はっとした時にはもう遅い。トラックがクラクションを鳴らしながら、東吾に向かって突っ込んでくる。
猛スピードの巨大な物体が、無防備な東吾に襲いかかる――。
瞬間。
東吾の目の前が光に包まれた。
「――うわーーっ!! ……あ、あれ?」
閉じかけた目を開き、東吾はきょとんとした。周囲を見る。
「あれ? 俺? ここは……」
『『『――YEAHHHHHHHHHHHHHHHH!!!』』』
「なっ!?」
ついさっきまでトラックがいたはずの場所に、鍛え抜かれた肉体の男達がいた。
全てが全裸で、誰もが輝くような素敵な笑顔を浮かべ、東吾に向かって大挙して突っ込んでくる。
「わ!? 待て、ちょっ……!」
『『『イエァーーーーーーーーーーーーーッ!!!』』』
「ぐはあああーーっ!」
問答無用で轢き潰された。
男達はそのまま風のように走り去っていく。あとには激しく踏み倒され、ボロ雑巾になった東吾が転がっていた。
「――えっ!? トーゴくん? だいじょ、きゃあああーっ! また裸ーっ!」
「あが。あががが……!」
「あうう……! あでも、だいじょうぶ!?」
聞き覚えのある声が東吾の耳を打った。声の主はうつ伏せで倒れている東吾に駆け寄ると、マントをかけてきて言った。
「急に出たら危ないよ。ああ、ぼろぼろに! しっかりして」
「ぐふっ。こ、ここは異世界か」
召喚されると同時に満身創痍である。
東吾はまたしても、見知らぬ異世界に飛ばされたらしい。
周囲の風景は現代日本の街中ではなく、中世風の異世界の町エディアカラの中であった。東吾を轢いたのはお馴染み肉のゴーレム達だ。
「また俺はこっちに呼び出されたのか……。出たら素っ裸の恐るべき異世界に」
「どこか痛くない? あんなに轢かれて」
「痛くはない。痛くはないけど、やっぱり酷い目に遭った。だがリィーン」
「? なに? どうしたの?」
「ナイスタイミング」
「え?」
「た、助かった。死ぬかと思った。サンキュー……!」
「???」
東吾の感謝に、リィーンは目をぱちくりとさせていた。
辺りは騒然としていた。鎧をつけた兵士が走り、騎士が馬に飛び乗り駆けさせる。
フードをかぶった数人の魔導士達が呪文を唱えた。大きな虎を喚び出し、その背に乗って駆け去っていく。
「な、なんだ? どうして皆慌ててるんだ」
東吾は、リィーンが持ってきてくれた兵士服を着込みながら言った。
異世界エディアカラの町は、蜂の巣を突いたような騒ぎだった。誰もが混乱した様子で武器を手に町の出口に向かっていた。
「は、早く服着て。急いで」
着替え中の東吾に背を向けたリィーンが、わたわたして言う。
東吾が振り返って見ると、リィーンは前と同じ格好だが急ぎすぎて忘れて出てきてしまったのか、帽子をかぶっていなかった。
「急いで? どうして」
「き、吸血鬼がここに攻めてきてるの。この町が、戦場になってる!」
「……まじ? そ、そりゃあ大変だな?」
「近くの森に大勢潜んでたみたい! ゴーレムだけは先行させたけど、わたしも早く行かなきゃ!」
「つまり戦争してるのか。って、うそだろ?」
「うそなんかじゃないよう!」
どうやら本当らしい。今この場所で、戦争がはじまっているという。
しかし……東吾はそれより自分の中に、何故か、一抹の寂しさを胸中感じていた。
東吾が現れたのは公道のどまんなかだった。周囲には大勢の人もいた。全裸で飛び出してきたのにリィーン以外、誰も東吾の裸に反応していなかった。それどころではないという様子だ。
それが何故か物悲しいような……。
「ま、待て。なぜ俺はそんな事を? 俺は痴漢じゃない。ストリーキングが趣味なんかじゃ……!?」
東吾が懊悩する背後で、後ろを向いたままのリィーンが言った。
「トーゴくん! 着替えはまだ?」
「待ってくれ今それどころじゃ……。え、もう着替えたけど?」
「じゃあこっち! 一緒に来て、走って!」
「わ?」
リィーンは東吾の袖を引っぱって走り出す。
二人は坂になった通りを下っていき、高台になった場所に辿りついた。
そこから町の外が見えた。
「! うそ。あんなに……!」
町と外を隔てる低い城壁。その外に立っていた野営用のテントから煙が上がっていた。
血のような真紅の軍装の一団が、小さな町の周りに押し寄せてきている。
門の近くではロディニアの軍隊らしき集団が咄嗟に固まって応戦していた。が、突如出現した敵に混乱し大きく乱れていた。
さらにそこに、黒の軍から放たれた火の玉が突っ込んだ。
爆音と共に人の悲鳴が上がった。近くに建っていた見張りの塔が破壊に巻き込まれ、兵士達を巻き込んで崩れていく。
「ひ、ひどい……!」
「リィーン? あそこ今。人が……!?」
「……こんな完全な奇襲、あり得ない。吸血鬼達はこっちの偵察から姿を隠す方法を見つけていたんだ。だから戦争なんか吹っかけてきて」
リィーンは杖を握りなおし、東吾に言った。
「トーゴくん、行くよ! ついて来て」
「え? どこ行くんだ」
「町の入り口。早く救援に行かなきゃ」
「入り口って今爆発したあそこに!? ちょっと待ってくれ、いきなり戦争なんて言われても。丸腰だぞ!?」
「ゴーレムなら大丈夫! 死なないよ! 早くっ!」
東吾の腕を掴み、リィーンは再び走り出した。リィーンはこの間とは打って変わり、別人のように勇敢だった。
近くの階段を下りて太い通りに出ると、町の住民達が右往左往していた。いまさら家財を集めて馬車に積んでいる男。体中に装飾品を身につけて走る女。
丘の上を目指し馬を走らせる行商人。取り残されたのか、小さな少女が道ばたで泣きながら立ち尽くしていた。
傷ついた兵士が担架に乗せられて運ばれていき、それに急ぎ足でついていく修道服の女性が、手をかざして白く淡い魔法の光を振りかけている。兵士は、足がなかった。
黒いローブ姿の魔導士が杖を掲げて巨大な鷹を召喚する。その足に捕まって、すばやくどこかに飛び去っていった。
「逃げてる魔法使いがいるぞ? どこに行くんだ!」
「偵察専門の『探知』魔導士は戦力にならないよ! 安全な所から情報収集に当たるの」
「なんだよそれ!? そこに小さな子供だっているのに、置き去りかよ!」
「しょうがないの! <YOHELの名に於いて『プロト・ビオント』>!」
『『『――YEAAAAA!!』』』
リィーンが呪文を唱え、肉のゴーレムを召喚した。場違いな笑顔の全裸男達が、マッスルポージングと共に虚空から生み出される。
「ゴーレム、一体はわたしの護衛。二体は町の人を安全な丘の上に誘導! 残り全部、周辺の人達を守って!」
『ヤッ!』
『『ィイエッ!!』』
『『『ヒィーーーーハァーーーー!!!』』』
命令を受けた肉のゴーレム達が、奇声を上げて町の中に散っていく。それを見た住民達がわずかに安堵した顔をした。奇妙な光景だが、まあいいのだろう。
「これでこの場はよし! 先に進もう」
「お、おお。なんだか慣れてるな。あっ?」
東吾の視界の端に、幌無しの馬車に山ほど積み上げられた荷物が、今にも崩れようとしているのが映った。
そのすぐそばを、ぬいぐるみを抱いた幼い少女が泣きながら立っていた。無茶に積まれた大量の荷物が少女に向かって、雪崩を打って降り注ごうとしている。
東吾は咄嗟に走った。
「あぶねえ!」
「っ!? ゴーレム、あの子を守って!」
同じく気づいたリィーンから命令を受け、ゴーレムが獣のような素早さで一気に距離を詰める。
東吾が、少女を突き飛ばし。宙に浮いたその子の体をゴーレムがキャッチした。
そして次の瞬間、荷物の山が崩れ。東吾の頭に落ちてきて……。
「ぐわーーッ!」
「トーゴくん!?」
ぐしゃあ。
巨大な箪笥その他もろもろに押し潰された東吾に、リィーンが駆け寄った。
「だ、大丈夫! トーゴくん!」
「……ぐふっ。平気だ。痛くない」
この異世界での東吾の体はゴーレムだ。痛覚はない。
東吾は自由になる頭だけ上げた。少女は何が起きたのか分からず、ゴーレムに抱えられていた。
「え、あ? おにいちゃん」
「ふう、怪我しなくて良かった。体は痛くないけど、お、重いぞ……!」
「ゴーレム! トーゴくんを助けて」
リィーンが肉のゴーレムから少女を受け取り、ゴーレムが荷物をどかした。東吾が起き上がる。
「起きれる? 平気?」
「大丈夫だ、悪いなリィーン。あぶねーな、こんなにめちゃくちゃ積みやがって誰だ……その子は?」
「うん。あなたは迷子? ママはどこかな?」
リィーンが優しく声をかけると、少女は涙を浮かべて答えた。
「あ。う、うえええ……! わかんない。ころんで起きたらママ、いなくなって」
「もう大丈夫、怖くないよ。安全な場所に行こうね。ママがそこで待ってるよ。……ゴーレム、その子を連れて丘の上に避難させてあげて。優しくだよ」
『イエアッ!』
少女を受け取ったゴーレムは野太い声で応え、駆けていく。リィーンが言った。
「町の人もだいぶ混乱してる。こんな奇襲なんて、めったに受けないから」
「あの子。母親に会えるといいけどな」
「うん。さ、行こう。吸血鬼を叩き返して、態勢を立て直さなきゃ……」
少女を見送って踵を返すと、町の入り口へ続く道の先から、背に人を乗せた大きなライオンがやってきた。
乗っているのは少女二人、ルルゥとシアだ。尻尾が大蛇になったライオンは東吾とリィーンの前で止まると、二人が降りてくる。
「……リィーン!」
「ルルゥちゃん、シアさん! 状況は?」
「……先生が魔導士隊の副隊長以下を連れて、最前線に行ったよ。私とシア、初陣のヒヨッコは住民の救援と援護、裏手からの吸血鬼の侵入を警戒。リィーンと合流して指示を仰げ、だって」
「そう、わかった。わたしが先任として分隊の指揮を取るね」
リィーンが頷く。ルルゥとシアに向かって言った。
「わたし達は三人一組で行動。連携のためにばらけず、全員ルルゥちゃんのキマイラに乗って移動する。これからわたし達は町を廻って、住民の誘導、治安維持の為に肉のゴーレムをばらまいていく。
召喚術の得意なルルゥちゃんは魔法の鷹を召喚して、高い場所から町に侵入しようとする吸血鬼を警戒。治癒魔法が得意なシアさんは、重篤な怪我をした住民を見つけ次第、治療して」
「……うん。分かった。はじめてだけど、きっと上手くやる」
「え、ええ。任せてちょうだい」
「敵はまだ町の内部まで侵入してないと思うけど、正体不明の擬態を使っている可能性が高い。見落とさないよう注意して。もし奇襲を受けても、決して焦らずに。
万が一最悪の場合は、鷹を飛ばせるルルゥちゃんを最優先で逃がす。たとえ全滅しても敵の情報だけは誰かに届けないといけないから。わかった?」
全滅、という言葉にルルゥとシアの顔がやや強張った。
「大丈夫。訓練通りやればいいだけだから。ふう――」
リィーンは深呼吸をして、小さく呟いた。その手が小刻みに震え、杖がカタカタと鳴っていた。
「……大丈夫。落ち着くのリィーン。わたしは初陣じゃない。これまでだって大変な時はいっぱいあったんだから。
怖がってる暇なんてない。わたしは出来る、守れる……よし! 皆、行こう!」
リィーンがキマイラに向かう。シアとルルゥが後に続こうとした時だった。
突然。
黒い影が街路に舞い降りてきた。
「!」
リィーンが振り返る。
それは一人の男だった。死人のように青白い顔色、白く濁った瞳。
裏腹に、異様に整った端正な顔立ち。真っ黒な服に身を包み、裏地が血のように赤いマントを風になびかせていた。
口元から覗かせる長い牙は下顎の先にまで伸びていて、象牙に似た白が鮮血でぬるりと赤黒く染まっていた。
『――ハアアア……!』
「きゅ、吸血鬼っ! もうこんなところに!?」
突然の闖入者に人々が硬直する中、リィーンが杖を構え飛び退った。
男が周囲を見渡して叫ぶ。
『ウウウ……いるぞ、いるぞ、人間がいるぞォ! 者ども、降りて来いッ!』
『『『ウゥオオオオッ!!』』』
いつの間にか、近くの建物の屋根の上に黒服の一団がいた。数十人の男達が一斉に地面に降り立つ。
同時に物陰から暗闇が伸びてきて、そこからいくつもの人影が浮かび上がってきた。
『獲物、獲物、獲物ォ、シャアアァ! 血で染めあげろオオォォ!』
黒ずくめの集団が剣を抜いた。吸血鬼達が辺りの人間に向かって手当たり次第に襲いかかる。
近くにいた老夫婦が見せしめに斬りつけられ、血を噴き出して倒れ伏した。
悲鳴が上がった。住民の側からいくつか反撃の魔法が飛び、襲撃者が数名ほど燃え上がった。
しかし突然の奇襲による混乱と恐怖で、ほとんど為す術もない。凶刃に襲われ、人々が倒れていく。
「ああっ!? ぷ、『プロト・ビオント』!」
『『『YEAAAAAA!!!』』』
リィーンの放った魔法の光から、数体の肉のゴーレムが飛び出した。ゴーレムは黒服の集団に突撃し、薙ぎ倒す。
同時にルルゥのキマイラが吼えて跳躍し、敵中央に飛び込んで吸血鬼達を逆撃した。
しかし多勢に無勢だ。ゴーレム達は敵の前衛を砕くが、100名からなる吸血鬼達にすぐに取り囲まれてしまった。
『召喚魔導士がいるぞォ! ゴーレムは足を斬れ、行動さえ止めれば何も出来んッ! キマイラを囲めッ!』
痛みを感じぬ屈強なゴーレムが、剣で膝を切り裂かれて転んだ。倒れたところで首をはねられ、砂に還る。敵の中央で暴れていたキマイラが、周囲から一斉に火球をぶつけられて燃え上がり、どうと倒れた。
この混乱の中で敵は、驚くほど統制が取れていた。
「くっ……!? 『プロト・ビオント』ら、乱戦じゃだめ! ルルゥちゃん、シアさん!」
リィーンは必死に応戦しつつ、後ろを振り返った。
「場所を変える! 敵は精鋭、時間を稼いで住民から引き離して、他の有利な地形に誘導っ……!?」
その先は言い終えることができなかった。
リィーンの視線の先に、路地から唐突に現れた吸血鬼の剣が、……シアを後ろから貫いていた。
呆然と己の腹を見つめるシアの手から、杖が落ちた。
「し、シア……?」
魔獣召喚呪文を唱えかけていたルルゥが、呆然と言った。剣が引き抜かれ、シアが糸の切れた操り人形のように地面に倒れた。
『シャアアアア……!!』
「――『プロト・ビオント』!」
リィーンの杖の先から肉のゴーレムが現れ、高速で突進した。吸血鬼の頭を掴み、数メートル先の壁にもろともに激突、壁を砕いて突っ込んでいく。
リィーンが倒れたシアを抱き起こした。
「し、シアさん! ああ……!」
「あ、あ、あ。リィーンちゃ、こほっ……」
シアが血を吐き、刺されたショックで痙攣した。それを見つめるルルゥが、血の気の引いた顔で立ち尽くしていた。
大人しそうなリィーンが冷静に介抱する中、ルルゥの気の強さは鳴りを潜め何も出来ないでいた。戦場において個々の性格は関係なく、臆病か勇敢かも関係がない。それを一度でも経験した者だけが、鉄火場で動く事を許される……。
「シアが。リィーン、リィーン。シアが刺されて」
「しっかりしてシアさん! ルルゥちゃん、治癒魔法!」
「でも、でも。治癒魔法ができるのはシアで。私やリィーンの治癒魔法じゃ、こんな傷……!?」
「あ……!」
「どうしようリィーン。シアが、死んじゃうぅ……!」
ルルゥが涙ぐむ。腕の中のシアがまた血を吐いた。
背後では戦いが続いている。焦るリィーンは選択肢を探して必死に視線を動かし、言った。
「ええと、ええと……『気付け』の魔法! シアさんを起こして、自分の魔法で傷を塞げば! ルルゥちゃん使えたよね!?」
「……え。な、なんだっけ? 『気付け』は確か、あの、えっと」
「急いで! あっ!?」
近くの影から黒い人影がせり上がってきた。真紅のドレス姿に身を包んだ女吸血鬼が、リィーンの背後を取る。
『――ッギャアアアアオゥッ!!』
「! 『プロト・ビオ……きゃあっ!!」
リィーンはとっさにゴーレム召喚を唱えようとしたが、間に合わない。弾き飛ばされ、地面に強かに叩きつけられた。
その拍子に杖が手を離れ、転がる。落ちた杖を女吸血鬼が拾い上げた。
『ふん。魔導士の小娘風情が』
「あぐ、あ……! シアさん、ルルゥちゃん……」
強烈な痛みに気を失いそうになるリィーン。視界が回る中必死に意識を繋ぎとめ、リィーンはルルゥ達がいる方を見た。
そこには剣を血で滴らせた吸血鬼達が、シアを抱いて座りこむルルゥを取り囲んでいた。
「こ、来ないで。やだ。リィーン、助けてリィーン……!」
「あう……、ルルゥちゃん、逃げて。キマイラを出して……あっ!」
リィーンの胸ぐらが掴まれ、引き上げられる。女吸血鬼が、怒りに染まった凶暴な顔でリィーンを睨みつけた。
『ウグルウウウ! 人間ごときが。食い殺してやるわ』
赤黒く充血した瞳がリィーンを見据え、肩をひび割れた手が掴む。痛みで身動きがとれないリィーンの首が、力ずくで傾けさせられた。
やがて女吸血鬼の口があり得ないほど、大きく広げられた。
リィーンの細い首筋に、牙が吸い込まれていく。
『ヴオオオ゛……!』
「え。う、うそ。嫌、やめて。お願い、誰か……!」
『グゥアアアアーーッ!!』
「い、いやぁっ! 助けてぇーーっ!!」
この間、東吾は特に何もできず、おろおろしていた。
いきなり戦いがはじまり。シアが刺されて倒れ。追いつめられたリィーンがピンチになるまでの間、びっくりするほど何もできなかった。
完璧に状況に流されていた。ルルゥ未満である。
(どうしよう。俺、どうするんだ?)
東吾は正直、何をどうすればいいのか全く分からなかった。
東吾は平和ボケの日本人だ。崩れた荷物に巻き込まれそうな少女を突き飛ばすことぐらいはできても、戦う術など知らない。
そもそも俺はついさっきまで、コンビニでだらだら立ち読みしていたはずなのに。
車に轢かれそうになって死にかけて。気がつけば異世界で、マッスルの集団に踏みつぶされて。かと思えば戦争の真っ最中で、混乱する人々がいて。
不意打ちを受けてあっという間に大ピンチ。
周囲の吸血鬼も、右往左往するだけの東吾を空気の如く扱っている。彼らにとって魔導士の杖さえ持たぬ東吾は、脅威どころかただの混乱した住民Aに過ぎなかった。
「えっと、ええっと……」
とにかく今、東吾の目の前でリィーンが襲われそうになっている。なっているというかすでに襲われていて、噛み付かれそうになっている。
あんな牙生えた歯で噛まれたら痛そう、だとか、この赤い女よく口開くなぁもう顎外れてね? とか、美人でも大口開けるとブッサイクなんだな、などとどうでもいいことばかりが頭の中をぐるぐる回った。
どうするんだ俺? どうしよう。
と、とにかくリィーンを助けるべきだ。助けないと。助けなきゃ。
どう助ければいいのか、が分からない。
武器もない。戦いようがない。どうする。
手を伸ばす?
伸ばしてどうする。リィーンの盾になる? そうだ、盾ぐらいならなれる。一瞬でも。俺は噛まれても痛くない、こっちの世界では。
「い、いやぁっ! 助けてぇーーっ!!」
リィーンの悲鳴が耳を打った。
「!! リィーンっ!」
東吾は、手を伸ばした。