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第六話 その6

「――ぷはっ! ふう。ここまで来ればもう大丈夫だろ」


影の中から頭を出した東吾がつぶやいた。

それから、胸から下まで浸かっている影の水溜りに振り返って言う。


「おーい姫さま。出ていいぞ」

「ぷふっ。……誰もいませんの?」


ユスティーナが続いてそろそろと顔を出した。水から上がるみたいに、ぷるぷると顔を振る。


「見た感じ人影はないな。かなり遠くまで来たからな」

「そうですの。でも、不思議な世界でしたわ。まるで夜が海になったような不思議な影の世界……」


東吾たちは影の世界を通じてあの場を離れていた。

すぐに追いかけてこられないようかなり長い時間をかけて潜った。ついでに姿を消した方向とは全く別の方向へ出ている、これなら早々捕まることはないだろう。


「誰かを連れていくのははじめてだったけど、上手くいったな。俺大ドロボウになれるんじゃね? よいしょっと」


影の中から這い出ると、東吾は地面に立った。左手でぐっとユスティーナを引いて影の中から出してやる。


「出れるか? 姫さま」

「ありがとうございますわ。……ああ」


そこは木々の茂る丘の上の街道だった。燦々と照らす陽光が、緑の大樹の間からまばらに差し込み、遠く鳥の啼く声が聞こえてくる。

ユスティーナが少し歩くと森はすぐに開けて、雲ひとつない空があった。緑の絨毯が広がる草原の隔てた少し先には、東吾たちが来たローラシア城とその城下町、そしてデュ・トワ湖の風光明媚な美しい風景が広がっていた。

外へ出たユスティーナは陽射しに手を広げ、大きく息をはいた。


「きれいですわ……。城も、湖も。わたくしの部屋から見るのとぜんぜん違います、遠くからではあのようなかたちをしていたのですね」


ユスティーナは振り返り、にっこりと可愛らしく微笑んだ。


「ありがとうございますわ、ミシロ・トーゴ。いえ、わたくしを自由にして下さった恩人ですから、トーゴさまとお呼びしたほうがいいですわね?」

「いいって。そんな大したことしてないし、俺も仕事さぼりたかったからな」

『よくやったぜトーゴ。見たかあのお付きのじじいの顔、スカッとしたぜ! ぎゃはは!』

「へへ、完璧だったろ? 俺の作戦」


モニカの声に東吾は軽く手を振ると、ユスティーナに向かって聞いた。


「んじゃ姫様、これからどこ行きたい? なんかやりたいことあるか?」

「そうですわね。とりあえず自由になることしか考えていませんでしたから。ううん……まず、丘を歩いて下りましょうか。街のほうへ向かって」

「散歩か? それだけでいいのか」

「わたくしは自由に出歩くことすら禁じられてきましたから。こうして地に足をついて街道を当たり前に歩くことすら、はじめてなんですわよ?」


ユスティーナと東吾は、遠くに見える街の方角へ歩いていく。

するとユスティーナが地面を見て言った、


「石が多いですわね。それになんだかぼこぼこして、とっても歩きにくいですわ?」

「え? 別に言うほどじゃ、ってはじめてか。そうだよな、城から出たことすらないならこんな道だけでも珍しいか」

「ふうん……。興味深いものですわ。道のありようなど、本や聞かされる話では知ることのできないものですわね」


ユスティーナはじいっと足元を眺めて歩いていく。

それから視線を上げると、道ばたを飛ぶ蝶に目をつけた。


「あら。ちょうちょさんですの、かわいいですの。こんな何もないところで飛ぶなんて珍しいですわ」

「んー……ふつうに飛んでるだけだが。本当にはじめて外に出たのか姫さま。蝶々でそんな感動するなんて」

「わたくしが見るちょうちょは、外から内園に持ってこられたものだけでしたもの。あっ、きのこです。不思議なかたち……」


今度は道の脇にしゃがみこみ、生えたキノコに手を伸ばす。


「? 見たことのない種ですわ。一つ、口にしてみましょうか?」

「おいちょっと待てい。な、なにナチュラルに食おうとしてんだ」


一つもぎとりいきなりキノコを食べようとするユスティーナを東吾が止めた。


「やめろ! 危ないから」

「あら? 食べたらだめですの? こんなに美味しそうなのに」

「バカかお前、死ぬぞ。毒キノコかもしれないんだから」

「毒……? ああ、これが話に聞く毒のあるきのこなのですね? はじめて見ましたわ、はじめて見ましたわ。驚きですわ」


ユスティーナはぱん、と思い出したように手を打った。


「わたくしはじめて目にしたものですから。毒のあるもの、というのはとにかくわたくしから遠ざけられていましたの。へえ……こうして美味しそうな姿をして人を誘うのですね。とっても怖くて不思議で、興味深いですわ。誘われますわ」

「いいからそれは置いとけって。脱走して即食中毒とか笑い話にもならないから」

「わかりましたわ。さて」


存外素直に頷いて、ユスティーナは立ち上がった。

その時、にわかに近くの木の上が騒がしくなった。ばさっと葉音を立て、鳥が飛び出してくる。


「きゃっ? あ……」


幾羽もの鳥たちが翼を広げて空に飛び立った。

そのいくつもの翼が、ユスティーナの上で影を残して舞い上がり、大空に向けて天高く駆け出していく。


「あ、あ、鳥! 鳥さんですわ! あんなにいっぱい!」


ユスティーナが子供のように興奮し、両手を広げて言った。

鳥の群れは街の方向へと遠く空の彼方に向かって飛んでいく。


「行っちゃいますわ! トーゴさま、あれを追いかけましょう!」

「え。追いかけ……って?」

「早く! さあ!」

「わっ?」


ユスティーナが東吾の手を引いて走り出した。

しかしヒールの高い靴をはいているせいで、すぐにつんのめって転びそうになってしまう。ついでに煌びやかな長いドレスのスカートが走るのを邪魔していた。


「ああ、もう! こんなものいりませんわ! 走りにくいだけです!」

「お、おい靴捨てちゃまずいだろ? ずっとはだしでいる気かよ!」


東吾はあわてて投げ捨てられたユスティーナの靴を拾い上げた。

しかしユスティーナはそれどころではないようで、飛んでいく鳥の姿を見て叫んだ。


「いけません、このままじゃ置いていかれてしまいます! このスカートも邪魔ですわ、ああ、この、こんなもの……! えいっ!」


びりっと豪快にスカートの裾を破り、そのままびりびりと大きなスリットを入れてしまう。


「うわ。いいのかそれ、高そうなドレスなのに」

「構いません! これで少しはよくなりました! さあ急いで追いかけましょう、トーゴさま!」

「わ、引っぱるなって。おとと」

「こっちですわ! あははは!」


再びユスティーナは鳥を追いかけて、はだしのまま奔放に走り出す。

木々の緑が流れ、土くれの坂道を駆け下りていき、草や小石を素足で踏んづけて、遠く飛んでいく鳥影に手を伸ばし。ユスティーナは東吾と共に走っていく。

やがて――街道は丘を過ぎ去り、青々と広がる草原にたどりついた。

ユスティーナはようやく立ち止まり、息を荒げながら空を見上げた。


「はあ、はあ。置いていかれてしまい、ましたわね。ふう、ふう……。鳥って、こんなに早いん、ですのね。はあ、はあ。……うふふ、あはは。あはははは!」


そして驚くほど快活に笑った。


「そりゃあな。あいつらに走って追いつくのはちょっと大変だな」

「はあ、はあ。こんなに走ったのは、はじめて、ですわ。わたくし、少し、疲れました。ああ……」


ユスティーナはそう言って、そのままどさりと草の地面に寝転がってしまった。


「はあ……。ああ、いい気持ち。これが自由ですのね……。草の上に寝る自由。道のものに目を止める自由、好きなだけ走ることの自由。鳥を追いかけてもいい自由……。はあ、はあ」


ユスティーナは息を整え汗をぬぐい、空を見た。

抜けるような青空を見つめ、息をはき、言った。


「とってもきれい……。こんなにきれいな空、はじめて。うふふ」

『全力疾走だな。いい走りっぷりだったぜ、姫さん』

「トーゴさまと不思議な声のお方もこちらに来て空を見ませんか? 草の上など気にせず、自由に寝転んで」

『おういいねぇ。あたしのことはニカって呼びな、ああでもサマ付けなんてすんじゃねえぞ。背中かゆくなる』

「そうですか、ではニカさんも。どうぞこちらへ」


ユスティーナに勧められて、東吾も続いて草原に寝転んだ。

夏の日の足の高い草原のベッドは柔らかく、草と土の混じった独特のにおいが鼻をくすぐる。

見上げれば、空の天井は突き抜けるほどに晴れ渡り、鮮やかさを誇る一枚板の青い屋根は、陽の輝きを映し、照り返した陽射しを東吾たちに注いでいた。


「本当にきれいな空ですわ。城の中から見た空はあんなに退屈だったのに。こんなに違うなんて……」

「おー本当にいい天気だ。ちょっと暑いくらいかも……って。あれ、姫さま?」

「ぐすっ。きれいですわ。とっても、とっても。きれい」


空を見上げるユスティーナの目から、涙がこぼれ落ちた。


「こんな空はじめて。きらきら輝いて、あたたかくて、真っ青で。わたくしがずっと夢見ていた空と同じ。ずっと見たかった空と同じ」

「姫さま。泣いてるのか?」

「ぐずっ。……ごめんなさい、わたくしったら。せっかくの自由を湿っぽくしてはいけませんものね」


そう言うと、ユスティーナは草の上でぐうっと伸びをした。


「このベッドもいいですわ。絹生地と高級羊毛で作られた天蓋つきのベッドなんかより、ずうっと。あれはまるで鳥かごの中にいるようで、好きじゃなかったんですの」

「ぜいたくだなお姫さま。王族仕様の豪華ベッドより草むらがいいなんて、な」

「とっても気持ちいいですわ。ああ、わたくし、このまま眠ってしまいたい……。……。あっ! いけませんわ。本当に眠ってしまうところでしたわ」


はっとユスティーナが起き上がり、東吾に向かって言った。


「このまま寝てはもったいないですわ。せっかくの自由なのですから。もっと何かをしましょう」

「なにするんだ? 他にやりたいことあるなら言ってくれりゃ付き合うけど」

「そうですわね。では、街のほうへ行きましょう。わたくし城下を歩いてみたいですわ、買い物なども……あっ、いたっ!?」


起き上がろうとしたユスティーナが足を押さえて顔をしかめた。


「ううっ。きゅ、急に足の裏が痛いですわ? 痛いですの」

「え? あ、血が出てるぞ。足切ったか」


はだしで走りまわったせいでユスティーナの足は泥だらけで足の裏から血が流れていた。どこかで石でも踏んだようだが、興奮していて気づかなかったらしい。


「どっかで水で洗ったほうがいいな。化膿しちまう」

「あう……。しかたありませんわね。よいしょっ? あ、あいたっ」


自分で立とうとしたが、ユスティーナはどちゃっと仰向けに倒れてしまった。


「うう、痛くて歩けません。ど、どうしましょう? 困りましたわ、これでは街へ行けませんわ。せっかく自由になったのに……」

「しょーがねえな。んじゃこうするか」

「きゃっ?」


東吾は立ち上がると、めきょ、と筋肉腕を出した。

巌のような上腕二頭筋を誇るたくましすぎる腕は、小柄なユスティーナを片手で苦もなくひょいと抱え上げると、お姫さま抱っこの形に持ち上げてしまう。


「こうやって連れて行けばいいだろ? 姫さま」

「あ……。は、はい。ありがとうございますわ……」


ユスティーナは東吾の超変異をぽかんとして見つめていた。

東吾はユスティーナを抱えて、ほど遠くに見える街に向かってすたすた歩いていく。


「とりあえず街行って、そこで傷口を洗うか。水くらいあるだろうしついでに消毒も」

「そ、そうですわね。……でも、すごいんですのねトーゴさま。こんな簡単にわたくしを持ち上げてしまうなんて」


ユスティーナは東吾の腕の中で、じっと東吾の横顔を見上げた。


「不思議な影の力でわたくしを救ってくださいましたし。……ああ、こんなに。すごく太い腕……!」

「なんだかんだで役に立つんだよな、この腕。見た目はキモいけど」

「気持ち悪くなんてありませんわ。こんなに大きくて、強くて硬くて……。とってもたくましくて、すてきです。わたくしくらくらしそう……!」

「え?」


東吾がユスティーナを見ると、ユスティーナは熱っぽい顔をして東吾を見つめていた。

目が合うとユスティーナは恥ずかしそうにさっと目をそらし、筋肉腕に顔を埋めてしまった。


「お、お姫さま?」

「……。あの、トーゴさま。あとでお願いがあるのですが」

「え、あ、うん。お願い?」

「トーゴさまはこの腕以外にもたくましいお体になれるのですか?」

「まあ、なれるっちゃなれるけど。一応」

「そうですの。では、不躾なのですが。あとで少し触らせていただけます?」

「え……?」

「わ、わたくし実は男性の固くてたくましいところに、きょ、興味があるといいますか。わたくし体が弱いものですから、憧れのようなものがありますの。……こ、こんなこと言うととってもはしたないのですが……今は自由ですもの」


ユスティーナはちらっと顔を上げて、ほほを赤く染めて言った。


「今までは護衛の騎士たちのお体にも、興味があっても触れるなんて許されませんでしたから……。一度好きなだけ触ってみたくて」

「お、おう。分かった」

「ありがとうございますの。実を言いますと、一緒におられたリィーンさまの使っていたあのゴーレムたちにもすごく触れてみたかったんですの。あんなにいっぱいのたくましさに囲まれて、とっても羨ましかったんですの……」


はふぅ、と蕩けたような吐息を吐き、東吾に抱えられたユスティーナは再び顔いっぱいに筋肉の腕の中に埋まっていってしまった。



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