第五話 その11
モニカに渡した体の感覚が、東吾に戻ってくる。
「……ぐ、に、ニカ」
『う、ぐええ……。ち、ちきしょ、ま、負けた。んなバカな……!』
右手が小さく振動して、そこに戻ってしまったモニカがつぶやいた。
『こ、このあたしが、ま、負け……負けた……。け、け、剣で……負けちまったぁ……? あ、だめだ、喋る、ちか、ら、も……。……』
「ま、マジかよおい!? おいニカ!? く、くそ……!」
東吾は体を引きずってなんとか立ち上がる。
目の前には恐ろしく強い――強すぎる、一人の吸血鬼がいる。
掛け値なしの化け物。
『フハハハ……! 終わりか? さすがに隠し玉ももう残っておるまい』
吸血鬼が近付いてくる。
静かに。
ゆっくりと。
コツ、コツ、と靴音を響かせて。
「……う……!」
勝てない。
もう手は残っていない。ニカでさえやられてしまった。
東吾では、この相手に勝てない――
『『イヤァーーッ!!』』
「!」
東吾の両脇を肉のゴーレムが走り抜けていく。
レヴィアムに向かって、真っ直ぐに突撃していく。
『……。無駄だと言っているだろう。シッ!』
『『ヤアアッ!?』』
レヴィアムの手が霞み、すぐに二体とも斬り伏せられた。
正面から、そして胴体から真っ二つにされた肉ゴーレムたちは勢いのまま地面を転がって、土に還っていく。
振り向くと座りこんだリィーンが杖を構えていた。
息を荒げ、脂汗を流しながらもなお召喚を続けようとしている。
「……はあ、はあ、ぷ、ぷろ、『プロ・トビオン……」
『うっとおしいわッ!!』
「きゃあっ!!」
レヴィアムから放たれた黒い風がリィーンを打った。
リィーンが吹き飛ばされ、背後の壁に叩きつけられる。
「リィーン!」
「あっ! ……あ、う……」
「しっかりしろ! リィーン、リィーン!」
東吾はリィーンに駆け寄った。
リィーンは額から血を流し、気を失ってしまっていた。
『これでつまらぬ肉人形ももう出せまい。フッフッフ』
「ちきしょうっ!! どうする、どうする……!?」
このままでは二人ともやられてしまう。
逃げようにも、逃がしてくれないだろう。おそらく相手はこちらよりも速い。空間を渡るように突然目の前に現れてくる。
どうする、どうするのか――
『何度見ても美味そうな娘よ。その血と魂は、いかほどに芳醇であろうかなァ……』
「……!! やらせるかクソ……!」
もう手はない。
それでも、東吾は立ち上がって目の前の敵を睨みつけた。
『ほう。なお我が前に立ちはだかるとは見上げたものよ』
「やらせっか、このヤロウ……!!」
『ではやはり貴様から死ぬがいい』
「!」
また、レヴィアムの姿がかき消えた。
「う、おおっ!?」
当てずっぽうだった。
東吾は自分の胸の前に手を伸ばし――そして、瞬間的に現れたレヴィアムの手を掴んだ。
一瞬で消え去りまた出現する――この移動はどうやら速度ではないらしい。本当に空間を渡っているのだ。
『むっ。……よく当てたな』
「うお、おおおっ!!」
なんとか捉えた敵の腕を、東吾は力ずくで振り払おうとする。
だが、すでに筋肉腕すらない東吾の力では止められなかった。
レヴィアムの腕がゆっくりと、東吾の胸に近づいていく。
『ひ弱なものよ。フフ、ほら……貴様の胸に私の腕が入っていくぞォ……?』
「んが、ががが……!!」
止まらない。
もう止められない。
死なないはずの東吾ですら、おそらく致命傷を与える腕が、迫ってくる。
東吾は目をつぶろうとした。
やられる。
やられる――
――何をしている――
――『聖柩』(アーク)よ――
知らない声が東吾の頭に響いた。
モニカの声ではなかった。男性的な、低くよく通る声だった。
周囲の全てが、時を止めた。
突然に灰色に染まった視界を眺め。
東吾は、つぶろうとしていた目を開いた。
全てが――時計の針を止めていた。
眼前の吸血鬼が恐ろしい笑みを浮かべたまま身じろぎもしない。
東吾自身さえも、動けなかった。
(……!! え、あ……?)
――何をしている――
――相手はただの先祖帰りではないか――
――ただの『原初種』――贋物の器――
――我が座たる者が――こんなものに遅れを取るとは――
(!? だ、誰だ……?)
不思議な声だった。
それは頭の中のようであり、どこか遠くのようであり。
それでいて、耳元で囁かれているほどに強く響いてくる。
――それでは困る――まだ汝に壊れてもらうわけにはいかぬ――
――なんのために汝をそちらに送り込んだというのだ――あらゆる器たりうる汝を見出すのにどれほど我が――
――我が座よ――己が身を守りきれ――なんとしても――
(だ、誰だ!? どっから喋ってんだ、こんな時に……!?)
声を出そうとしても、東吾の唇は微動だにしなかった。
目の前の敵の腕は、あともう少しで東吾の胸に届きそうになっている。
(う、やべえ……! このままじゃやられちまう……!)
――我はいまだそちらへ出れぬ――座の廻りが――『天使』と『長老』の象徴が揃っていない――
――従って力は一切貸せぬ――
――まだ連中に気取られるわけにはいかぬのだ――独力でなんとかせよ――
(独力、ってやってるよ全力で! もう打つ手もねえよ!)
東吾の中身はもうほとんどからっぽだ。
筋肉腕は切り裂かれ、モニカも破れ、体を限界まで酷使している。
あとはせいぜいあの紅い宝珠で火を吹くくらいだが、あれだけ魔法を食らって平気な顔をしていた敵に効くとも思えなかった。
しかし『声』は不思議そうな声色で囁いてくる。
――なぜ押し負けるのだ?――
――汝も喰らったではないか――変わらぬほどの吸血鬼を――
――それを使えばよかろう――汝ならば簡単にひねり潰してやれるはずだ――
(はあ!? く、喰ってねえよ吸血鬼なんて、なに言ってんだ?)
――いいや喰らった――
――その剣を通して――大いに――
剣。
ヴァンピールスレイヤーが、東吾の右手にある。
(剣? これがどうしたよ……!?)
――その剣は――ヴァンピールスレイヤーなどと呼ばれているが――
――そんなものではない――
――吸血鬼のための武具に非ず――何者であろうがその魂を喰らうためのものだ――
――古くは我が作りし剣を模したもの――出来は悪いが中身は同じだ――
(そ、そうなの? いやでも今はそんな話はどうでもいいっての!? つかお前誰だ!?)
――よくはない――聞け――
――そこには汝が斬った数の分だけ魂がある――そこから吸い上げよ――
――さすればこのような紛い物の器など敵ではない――
(吸い上げ……? ど、どうやんだよ! 知らないぞそんなの!?)
――……――
――なんと要領の悪い――その程度のこともできぬとは――
――これでは先が思いやられる――情けない――
(うるせえな!! いいからお前は誰だ! 俺の中か、そんならなんとかしろ!!)
――こうなれば仕方があるまい――
――『奴』――あの薄汚い首ナガのケダモノに気取られぬか少し心配だが――
――封じていた汝の命を甦らせよう――
――『セフィロト』を動かす――
(セフィ……なんだって!?)
――芽吹け――
――生命の木よ――
「うっ?」
どくん。
と、血の流れる音がした。
どくん、どくん。
血液のないはずの東吾の体に、心臓の鼓動が響く。
じわり、と、裂かれた腹から――赤い血がにじんでいく。
痛覚を感じなかった体が、ずきりと痛みを訴えた。
どくん、どくん、どくん。
体が熱を持ったように感じた。
体中に血が流れていく。
心臓から脳へ、胴体へ、体の隅々にまで。
流れていく――
時が。
動きはじめる。
「――かはッ!!」
左手に、力が膨れ上がった。
ぴたり、と。
胸へと迫る敵の手が止まる。
『……ムウッ!?』
東吾の左手に――輝く線が、走る。
線は左手を踊り、円を描き、複雑な紋様を刻んでいく。
独特で呪術的な、しかし美しさを備えた不思議な模様だった。
「ッお、あ、あ゛……!!」
光のラインが腕を通り、肩に、体に、全身に波及していく。
右腕へ、脚へ、指先へ。
最後に顔へ。
白く光り輝くラインが、東吾を包んでいく。
「あぐ、が、ぐああッ……!? アアアアッ!!」
斬られた腹が鋭い痛みを発していた。
視界が強烈に広がる。
ざわり、と髪が逆立っていくのを感じた。
「うオアああアあァーッ!!」
――自分は、ここにいる。
俺は今、ここにいる――生きている。
唐突にそう思った。
それは、この世界へ来て、どこか遠く他人事のように鈍かった、自分の中のなにかが発した声だった。
――王冠から――美へ――そして基礎へ――
――今はこれだけだ――汝にはまだそれだけしかない――
――さあ喰らえ――
ヴァンピールスレイヤーを持つ手が、歪んだ。
融け出すようにどろりとかたちを変え。
逆巻き、渦巻いて。
剣の柄を自分の中へと取り込んでいく。
柄と一体化した肉が蠢き、ずくん、ずくん……と、そこから何かを吸い上げた。
「ヴア゛アア゛あア゛アア゛――!!」
今度は広い視界が紅く紅く、染まっていく。
ぶちぶちと千切れる音が体の奥から聞こえてきた。
そして――歯に痛みを覚えた。
めき、めき、と。
生えてくる。
象牙のように白い。肉食の獣が持つような。
――二本の、鋭い牙。
人間にはありえないその牙が、顎の先に届くほどに長く延びていく。
――我が白き栄光の座よ――我が見初めし王冠の子羊よ――
――生き残れ――我が為に――
――生き残れ――眼前の敵を屠り――
――そして――
――ことごとく――
――喰い殺せ
「――ウ゛シャアアアアア゛ア゛ア゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オォォォ――!!」
東吾が牙を剥いた。
その顔は――怒りに狂った吸血鬼、そのものだった。