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第五話 その5



 書架に雑然と並ぶ本の中から、一冊を引き抜いた。


 ひどく古ぼけた書は埃にまみれていて、永い時の間、手に取る者が久しくいなかったことを示していた。

 目当てであったその本にふっと息を吐きかけると、煙のようにチリが舞い上がる。


 表紙を覆っていた埃が吹き飛ばされ、掠れたインクで書かれた題名が露になった。


『……これだ。間違いない』


 光の差さぬ物影の中で、レヴィアムはぽつりとつぶやいた。


 薄暗い、書架と書架の間だ。

 ここはイグトァナース城から少し離れたところある、地下蔵書庫の一つである。


 周囲にはレヴィアム以外に人影は見えない。

 尚武を旨とするイグトァナース家では、代々読書というものをあまり好む風はなく、レヴィアムもまた積極的に本を読む習慣はなかった。

 自然、この蔵書室には古今の書物がしまい込まれたまま放置され、普段は誰かが立ち入ることもない。


『湿気払いと保存の魔法はあったが……掃除と整理くらいは命じておけばよかったな。半日もの間本を探してホコリにまみれることもなかったろうに』


 自らのマントで手に取った本をぬぐいつつ、レヴィアムはその見覚えのある緑色の表紙をじっと見つめた。

 これは千年近く昔にイグトァナース家に仕えていた、とある執事の日記だった。


 レヴィアムがまだ幼いころ、偶然の気まぐれで手に取ったことのあるものでもある。


『たしか……そう。一番後ろのほうだ。そこに書いてあったはず』


 ぞんざいにページをめくり、日記の後半を眺めるようにして読む。

 そして探していたものがあったことを見つけると、小さく頷いて本を閉じた。


『よし。さて』


 レヴィアムは日記を片手に、古びた書室を後にした。

 らせん状になった階段に靴音を響かせながら地上に上がり、クモの巣の貼った木扉を開ける。


 と、視界が大きく広がった。

 緩い台地になったその場所からは、イグトァナースの城下町が一望できた。すぐ左手には自分の居城であるイグトァナース城が見える。


 伴回りの者はいない。レヴィアムは一人、ぶらりとここに足を伸ばしたのだ。

 そうして城に向かって、陽を浴びながらゆっくりと歩き出そうする。


 吸血鬼は陽の光をあまり好まないものとされているが、異国の迷信で言われているような弱点などというわけではない。

 水こそダメだが陽光を浴びたところで灰になるわけもなく、そう言われているのは『影の中を移動できる』という能力によるものだ。

 誰しも、いざという時に最高の逃げ場が閉じられてしまっているのを喜ぶ者はいない。ゆえに吸血鬼はできるだけ影の中にいようとするのだ。


 レヴィアムは太陽の下を、ゆったりと歩いていく。

 ちょうどその時、一台の馬車が通りがかった。レヴィアムは軽く手を上げ、馬車を静止する。


 御者の男がそれに気づいて、一瞬不思議な顔をした。馬車はレヴィアムの隣を少しだけ通り過ぎてから、急制動をかけて止まる。

 馬が不満げにいななき、御者の男が転がり落ちるようにして地面に降りてきた。


「――あ、あわ、あわ、へへへ、辺境伯さま!?」


 御者の男があわててその場に平伏する。

 その様子があまりに滑稽で、レヴィアムは思わず小さく笑ってしまった。そして、男と馬車に近付いていく。


『ふむ……。これは、献納の麦を載せた馬車か。ご苦労なことだ、そなたらは本当によく働いてくれる。どんな獣よりもはるかに優れた家畜であるな』

「へ、へえっ! こ、ここ、これはまた……」


 男はあぜ道の地面にめりこまんばかりに深く額づいていた。

 いつもなら一人で出歩いていることなどまずないせいか、レヴィアムと突然出くわしたことに驚いているようだった。


 とはいえこのイグトゥナース領の比較的穏やかな統治の中に住んでいるだけはあって、恐怖に震えているようなことはまではない。

 他の地の領主や、城に仕える吸血鬼たちと違い、レヴィアム自身は領民にそれほど無闇と恐れられているわけではなかった。レヴィアムは人間の血は飲まず、妙なことさえしなければ無意味に理不尽な仕打ちをしないからだ。


 他の吸血鬼の目のないところなどでは、こうして話しかけてみることもある。

 ここの領民たちだけは、レヴィアムが時折そんな気まぐれな遊びをすることをこっそりと知っていた。


『顔を上げよ、我が民、我が可愛い家畜よ。少しよいか?』

「へへえっ辺境伯さま! わ、わわわたくしめなどで、よよ、よければ……」

『うむ。実はな、私はこれから城に戻るつもりだったのだが。わずかな距離だが、もしよければ私も馬車に乗せていってくれぬか。荷台でかまわぬ』

「へ? ば、……馬車に? ……」


 男がぽかんとしてこちらを見つめてくる。


『どうかしたか? 乗りたいのだが』

「……。あ、へ、へえっ! で、ですがその、こんな小汚い貨物用の馬車に、辺境伯さまをお乗せになど……し、失礼になってしまいやす、のでは……?」

『よいのだ。見ての通り伴を連れてきていなくてな、足がないのだ。いかぬか?』

「そ、そんな!? めっそうもございやせん! もしよろしければお乗り下さいませ!」

『うむ』


 御者の男に了解を得ると、レヴィアムは麦袋を満載した馬車に乗り込んだ。

 手近な袋の上に腰掛け『出せ』と命じると、男が御者台に飛びつくようにして乗り馬を歩かせはじめる。


 馬車はゆっくりと、すぐ近くに見える城に向かって進み出した。

 レヴィアムは麦袋の上で揺られながら、馬を手繰る御者の後ろ姿を見つめる。


『……ふむ。我が民よ、そなたは』

「へ? な、なんでございやしょう」

『そなたはどこぞで見た覚えがあるな。……そうか、思い出したぞ。よく城に献納品を届けに来る者の一人であった。そなたは、そういう職の者か?』

「へ、へえ。馬車乗りを生業としておりやす、若いころからずっとこの道一筋でございやして……。城下の二番街からの献納品は、ほぼ私めが、その」

『ほほう。そして今日もまた、仕事に精を出しているわけか。重ねてご苦労、そなたは良き家畜のようだ。褒めて取らそう』

「あ、ありがたきお言葉にございやす」


 御者の男はそう言って、こちらに背を向けたまま大きく頭を下げた。


 これは吸血鬼の領主に対するものとしては、少々礼儀のなっていない頭の下げ方である。

 本来ならば、どのような内容であれ褒めて取らす、と言われたならばただちに馬車を降り地面に平伏しなければならない。

 さもなければ、短気な者ならいきなり手打ちにしてしまうこともある。それほどに吸血鬼と人間の領民というものは絶対的な身分差があるのだ。


 が、しかしレヴィアムはそれを咎めようとはしない。面倒だからだ。

 御者の男も、つまらないことでいちいち馬車を止めるほうがレヴィアムは好まないと知っているのだろう。


『……。フッ』


 レヴィアムは従順な『家畜』は好きだった。

 他意があるわけではなく、純粋に好ましいと思っている。


 もし人間が逆らい敵対した時は、容赦なく叩き潰す。それは支配者としての責務であり戦士としての業でもある。

 しかし他の吸血鬼のように不必要に憎むことはなかった。


 上に逆らわず額に汗して働く人間の姿は嫌いではなかった。

 黙って従っている間は大切な『財産』であると考えているし、そうである以上できるだけ大事に運用すべきと思っている。


 戦争が終わってから、オルドビシアの首都ではいまだに公開処刑の嵐が続いているという。

 昨日ここに訪れた王家からの使いによれば、巷には生首や死骸が満ち、街道には辻ごとに無辜の民が吊るされているらしい。怯えきった人間は一切外へ出ようとせず、声も出せないほど虐げられている。


 レヴィアムには、そんな同族の人間に対する偏執的な憎しみがよく理解できなかった。そこまでする必要があるとは思えなかった。


 レヴィアムも時に領民から吸血鬼にした者を拷問して喰らうことはあるが、それは財産の有為な消費の一つだ。

 飢えと生理的な欲求を満たしているのであって、理由のない殺戮ではない。人間が所有する牛馬をいくらか殺して食うのと同じである。


 他の吸血鬼はなぜ財産を徒に破壊しようとするのか、それが分からなかった。領民が減れば減るほど税収は減り、税収が滞れば支配が磐石でも本末転倒だというのに。

 むろんそんなレヴィアムの考えは、社交界では一度たりとも理解されたことはなかった、が。


『――む、もう着いたか。よろしい、助かったぞ』


 馬車はすぐに城に着き、馬の足が城門のそばで止まる。本を脇に抱え、レヴィアムは馬車の荷台から降りた。

 すると御者の男が、不思議そうな顔をしてあたりを見回していた。


「おや? こりゃ一体……?」

『? どうかしたか、我が民』

「あ、ああいえ、その。……門衛の方が、いらっしゃらないようでございやして。いつもならお城の門を守っておいでなのですが」

『――ああ。そうか、そうだな」


 イグトゥナース城の城門は、普段ならば近衛の兵が警護についているはずだった。

 これらの近衛兵は全て吸血鬼であり、レヴィアム自ら選抜した優れた勇士たちである。


「ど、どうしやしょう。門は開いたままですが、兵の方のご案内がなければ馬車をお城に入れるわけにも行きやせんし……」

『……。うむ。先に戦があったであろう? それでだいぶ損害があってな、今は城を守る人員が足りておらぬのだ』

「あ。へ、へえ。それで今日は」

『そういうわけだ。あまり気にするな――とはいえ献納品があるな。よし、では馬車をそこに置いておけ。荷はあとで入れておくように言っておこう』

「へえ……え!? ば、馬車をでございやすか……?」


 レヴィアムの言葉に、男が困ったように眉根を寄せた。泣きそうな顔をしてこちらを見つめてくる。


『ん? そういえばそなたは馬車乗りか。馬車乗りが馬車を取り上げられては仕事にならぬ――いやすまぬな、言われてみればその通りよ』

「い、いえそんな、辺境伯さまがお謝りになられるなど。お、恐れ多いことにございやす……馬車はここに置いておきます。それでは失礼いたしやす……う、う」

『待て。言ったであろう、今は兵が足りておらぬと。この会話を聞きそなたを咎めようとする者の目はない。買い上げよう、これで新しく馬車を買うがよい』


 そう言ってレヴィアムは佩剣の柄から金細工をもぎ取り、男に手渡した。

 純金で出来た、品よく作られた装飾であった。


「……なっ!? ななな、こ、こんなものを!?」

『おや? 足りぬと申すか。それだけの金ならば問題ないと思うが』

「ち、ちがいやす!! 足りないどころか、お、多すぎにございやす!? 馬車が十台あってもこんな量の金は……!」


 どんな反応をするものか、と気まぐれに与えてみただけだったのだが、さすがに驚いたのか御者の男はあたふたと手元の金細工を持て余していた。

 レヴィアムはその様子に噴き出しそうになるのをこらえ、見るからに純朴な男を眺める。


『よいのだ。受け取っておけ』

「で、ですが!? 立派なご愛刀の装飾を!?」

『よい、と言っておるだろう。ちょうどこの剣はもう代えようと思っておったのだ。捨てるよりは、そなたにその金をくれてやったほうがよい』

「し、しかしあまりに恐れ多きことにございやす!? こんな、こんなに……!?」

『なんだいらぬのか? ならば見張りの目のないうちに仕舞うか返すか決めておけ。馬車はそこに置いていってもらうが』

「え、か、返し、それは、その……!?」

『他の者に見つかると難癖をつけられて、取り上げられた挙句首をはねられるやも知れんな? ほら、今にもそこの城壁の上から……』

「ひ、ひぃっ!?」


 その言葉に男は一気に青ざめ、あわてて金細工を胸元に突っ込んだ。

 あまりの単純さに、レヴィアムはついに笑いだしてしまった。


『フッハッハ! 冗談だ、誰もおらぬぞ。本気にするな! ハッハッハッハ!』

「へ? ……」


 男はぽかんとしていた。からかわれたことに気づいたのだろう。

 そして気がつけば、しっかりと金を懐にしまいこんでしまっていた。


『やはりそなたらは面白いな。他の者には分からぬのであろうか、ムチで打ってばかりではこうはいかぬであろうに』

「……」

『笑わせてもらった礼だ、その金はくれてやろう。そなたにも妻子くらいおろう、それでそなたの子らを我に仕える忠実な家畜として育て上げるがいい』

「……。へ、辺境伯さま。こ、これほどに金を、ありがたき、わ、私などが……!」


 男は金の入った胸元を押さえ、地面に平伏する。そして、おいおいと泣き出してしまった。


『結局泣き出してしまうのか。まあ、足ることを知っておるのはよき事だ』

「ううう、ありがとうございやす、ありがとうございやす……! 辺境伯さまほど寛容な吸血鬼のお方はおりやせん……! ありがとうございやす……!」

『これからも一層我がために励むとよい。私をここまで運んだ勤め、ご苦労であった』


 レヴィアムはマントを翻し、男に背を向け颯爽と城の中に入っていった。

 

 

 

 

 

 城門を過ぎて正門にたどりつくと、レヴィアムは短い階段を昇って城内に入る。

 正門の前にも兵の姿はなかった。


 どころか、レヴィアムを出迎えるメイドの姿も見えない。

 しんと静まり返る城内を、レヴィアムは気分よく一人靴音を鳴らせて歩いていく。


 再び、今度は長い階段を上がっていき、自分の居室として使っている一室に向かって通路を進んでいく。

 目当ての扉の前にまで来ると、ギイと音を立てて扉を開いた。


 見慣れたその部屋の中には、さすがに二人ほどのメイドの姿があった。

 レヴィアムはそれを軽く一瞥し、隅に置かれた振り子時計を少し確認して、それから近くの椅子の上にゆっくりと腰掛ける。


『――ううむ。もうこんな時間になってしまったか。さて……』


 蔵書庫から持ってきた本をじっと眺めた――古い古い、とある執事が遺した日記。

 そこには、以前イグトゥナース家に起きた、忌まわしい一つの事件の顛末が記されている。


 それこそがレヴィアムがわざわざ半日もかけて探していたものであった。


『こんなところにヒントがあったとはな。偶然とは不思議なものだ……』


 本を開く。

 古ぼけて変色した紙の色、それに独特の臭いが広がった。


 目的のページ。日記の後半に記された、唯一残る手がかり。背の広い椅子に体をもたれかけさせ、レヴィアムは日記を読み耽った。

 しばらくの間そうしていた――そして、その手が少し上がる。


『ああそうだ。そなたら、ワインを持ってきてくれぬか。少々喉が乾いた』


 レヴィアムの目線が日記から離れる。振り返り、メイドたちを見つめた。

 メイドたちは返事をしなかった。


 カチカチカチ、と細かく音が鳴っていた。


『持ってきてくれ給え。……ほら、いつまでもそんなところで震えてないのではない』


 ――音の正体は、メイドたちの歯の根が合わぬ音であった。

 二人のメイドはお互いに肩を抱き合い、部屋の隅で、小さくなって震えていた。


 瞳に涙を浮かべただただこちらを見て怯えていた。


「あ……! あ、あひ、ひいぃ……!」

『……。ふう……まったく。何度も言っておるではないか? 私は人間の血に興味がない。そなたらをどうこうするつもりなどないのだ』


 レヴィアムは額を指で軽く押さえ、ため息をついた。

 この二人のメイドは『いまだ』人間であった。ここに仕えて新参の者たちであり、まだ日も浅く『血の刻印』によって吸血鬼にはされていない。


 レヴィアムとしては、このように無意味に怯えられても困るしかなかった。従順な召使いに危害を加える必要などどこにもない。


『いいかね? そなたらは人間だ、私の『好み』ではない。よって何をするつもりもない。ただいつものように、メイドとして働いてくれればそれでよいのだ』

「……ひ、ひっ……! お、おやめくださ、い、いのち、だけは、どうかぁ……!!」

『……はあ……。物覚えの悪い。メイド長と執事のアルタスは、この者らに一体なにを教えておったのやら……?』


 うんざりとしてレヴィアムは呟いた。

 そうして、視線をすぐ近くの机の上に向ける。

 そこには。


『のう、アルタスよ。そなた、監督不行き届きであるぞ?』


 

 ――アルタスの、生首があった。


 

『私の仕事の手伝いは助かったが、本来の用を忘れてもらっては困るのだがなァ……フフフ。まあ、もう聞こえておらぬか』


 物言わぬアルタスの死骸を眺め、レヴィアムは薄く笑う。


 部屋の中は、一面が血の海であった。

 それだけではなく、ここに来るまでの道のりも――正門からこの部屋に至るまで――随所に惨烈な血の跡が残されていた。


 転がる死体は近衛の兵士、メイド。ついでに昨日ここに訪れた、首都トゥト・ラット=デーンから来た王家の使い。

 全て吸血鬼。


 突然に現れた衝動に駆られて、レヴィアムが喰らい尽くした者たちであった。

 レヴィアムは手を伸ばし、アルタスの生首を鷲づかみにする。


 そしてそこにまだ残った血を――肉を齧ると共に、ずるりと吸い上げた。


『……うむ。美味なり――やはり、永き時を生きた吸血鬼は違うな。力が篭もっておる。勇武を謳われた父上も喰らってみたかった、土に還ってしまったのが残念でならぬ』


 小さく呟き、震えているメイドたちを見る。


『そなたらにはこのような美味はない。喰らうに値する力も持っておらぬ……。ゆえに食欲がまったくそそられぬのだ。だが』


 それからコンコン、と剣の柄を叩き、


『あまりメイドとして用を為さぬというのであるならば、手打ちにしてもよい。私はよく働いてくれる家畜はとても好むが、怠け者は好かぬのだ。よいかな?』


 そう言って軽く脅してやる。


「ひっ!?」と細く声を出して、唯一生き残った二人のメイドがようやく立ち上がった。


 部屋の外に向かって、びくびくしながら出ていこうとする。


『分かっているとは思う、が……逃げようとはせぬようにな。命を聞けぬ者は要らぬし、ワインが飲めぬのでは困るゆえ』

「は、は、はひ、はひぃ……! わ、わわ、ワインを、お持ちいた、たしますぅ……!」

『よろしい。では行き給え。一番良いものをとってくるように』

「は、はいぃっ!」


 メイドたちが出ていった。

 レヴィアムはそれを見送って、手にあるアルタスの生首をがぶり、と齧る。


『やはり美味い……これが魂の味わいというものであるか。まさか血肉だけでなく、吸血鬼の魂まで喰らえる日が訪れるとはな』


 口に広がるえも言われぬ味わいに、レヴィアムは思わず舌鼓を打つ。

 レヴィアムは肉と血潮だけでなく、その魂までを喰らっていた。『再誕』にも必要な、吸血鬼の命そのものである。


 もう、アルタスが甦ることはできないだろう。アルタスだけでなく、この城の吸血鬼の魂という魂はすでにレヴィアムの腹の中である。

 しかし後悔の念は湧いてこなかった。罪悪感も反省する気もまったく起きない。


 突然に目覚めた強烈な衝動に負けたとはいえ、その味わいは全てを帳消しにして余りあるものだったからだ。

 それどころかむしろ不思議な充足感と達成感があった。――これこそが、本来の自分の姿であるような。


『自分が一体何者であるか、か。まるでまだまだ幼き若者の考えそうなことであるが……今になって思い知らされるとは思わなかったな』


 アルタスの残滓を味わいつつ、もう片方の手で古びた日記を読み進める。

 それにはこうあった――去ること800年前の出来事。


 三代前のイグトゥナース当主がロディニアとの戦の中で魂を破壊され、先々代に当たる若き当主が新たに辺境伯に就いたばかりの時のこと。

 ド・リグラ・イグトゥナース家という、今は存在しない辺境伯家の分家にいた、ライラールという若者の話である。


 このライラールという者はイグトゥナースに名を連ねるわりには珍しく、どこか臆病な青年であったらしい。

 しかしそれ以外はこれといった特徴もなく、レヴィアムのような異常な同族喰らいの癖もない、ごくふつうの吸血鬼であった。


 しかし――その者が、ある日突如として豹変し、凶暴化して周囲の吸血鬼に襲いかかったというのだ。

 その結果、リグラ家は分家当主を含む全員が死亡し、一切の生き残りはいなかった。


 ライラールは最後には本家が差し向けた討伐隊に追われ、討たれたとも逃れたとも分からない。この日記には、イグトゥナースより忌まわしき難去れり、とあるだけである。

 とにかくそれによってリグラ家は取り潰しとなり、その跡は今に残っていない。この城の窓から覗く遠くの山にはリグラ家の小ぶりな居城があったというが、今は全て森となって何の痕跡も残していなかった。


『……これも、我が家に伝わる血か。私の目覚めとほぼ同じのようだ……。リグラ家がなぜ『再誕』されずに取り潰されてしまったのかも、このライラールが魂を喰ってしまったと考えれば辻褄は合う。魂がなければ甦ることはできぬ……』


 レヴィアムはぱたりと日記を閉じた。

 そして、机の上にあったもう一冊の本に目を向ける。


 赤茶色のその本には、『父祖の神々』と題されていた。

 日記を置き、今度はそちらを手に取って読みはじめる。


『……。我らが吸血鬼の神、『イルマイア=イヴ』……。神祖であり、麗しき漆黒の女神。我らを生み出し、そして――吸血鬼を喰らう唯一たる吸血鬼、か。ふん、神話とは相変わらず眉つばものであるが』


 この世では、いくつもの神々が信仰されている。

 吸血鬼、人間、エルフ、ドワーフ。竜にいたるまで――ありとあらゆる種族は、それを作り上げた根源たる神がいるとされている。


 神話においては、神らは共にこの世界を作り上げた。

 そして、世界の支配権は誰のものであるか、覇権を巡って争ったという。


 しかし世界自体が戦いに巻き込まれ破壊されてしまうことを恐れたため、神は自らその強大な力を振るうことを互いに禁じあい、その被造物を争わせ、勝った者の『造物主』こそが万物の支配者である、と約束した。

 いわば代理戦争をして、真の神が誰であるか決めようとしたというのだ。


『神のうち一人は死の神として輪廻を管理し、残る者は被造物をもって相争わせ……イルマイア神の隣に座すは、人らの神『ヨエル』。彼の者らは睦みあう恋人のようであり……。まったく、馬鹿馬鹿しい。参考にもならん』


 思わず本を放り投げたくなってしまう。

 いかに今の自分を説明する手がかりとなりそうな書物が他に見当たらないとはいえ、おとぎ話をまともに読んでなどいられない。


 が、しかしレヴィアムは、とある事実にそれを抑えざるをえなかった。


『……』

 

 神。

 特に、竜の神、『リュカリプス』だ。


 

 ――いるのである。


 

 これが、『現実に存在している』。

 冗談でも、おとぎ話でもなく。


 紛れもなく、この世界にいる。

 本当に。


『……ふざけた話だ……。伝承にも現れる神が、国を運営しているなど』


 アークティカ竜皇国――オルドビシアと同大陸の端にある、比較的小さな国家。


 その国の国家元首。

 これが、まさにこのリュカリプス神なのである。


 そこに住む竜は全て、このリュカリプスの統治の元で暮らしている。この強大な竜族は神話で語られている争いには参加せず、あくまで『争いの調停者』『世界そのものの守護者』として君臨しているという。


 実際、彼らは自衛戦争以外の戦いを決してしない。誰かに手を貸すこともない。

 もしその気になれば、あっという間にこの大陸を席巻するどころか、全世界を手中に収めるほどの力を有しているというのに――


『……神々の戦争、とはな。もはやなんと言ったらいいかわからんな』


 他にも妖精の神など、ほとんど流浪である民を率いて暮らしている神などもいる。


 とにかく、神は実在しているのだ。

 間違いなく、現実に。


 そして神話では――この争いの最中に、人の神であるヨエル神が協定を破り、直接自分の力を行使したとして他の神々に咎められ追放された、とある。


『……。それならそれで、人に神がいないのは分かるが。ならばイルマイアはどこに行ったというのだ? 他の神々は。いまだに全て放って傍観中とでも言うのか』


 もし本当にイルマイアが実在していて、吸血鬼を喰らう吸血鬼としてオルドビシアの頂点に君臨していたならば、自分になにが起きたのかを探るのにも話は簡単だったのかもしれないのだが。


『……。馬鹿か私は。そんなもの、いるわけがないだろう……。リュカリプスと竜族や、国境も理解できぬあの妖精どもはともかく。全ての種族にそれぞれの造物主がいて、我々を争わせているなどと……』


 つまらなそうに呟いて、レヴィアムは頭痛がしてきそうな頭を押さえた。


 すると、ドアがノックされる。先ほどのメイドたちが戻ってきたのだろう。

 レヴィアムは本を置き、入れ、と声をかけた。ドアが開き、まだ震えているメイドたちが盆を手に室内に入ってくる。


『ああご苦労。グラスは要らぬ』


 盆が血溜まりを避けて机の上に置かれる前に、レヴィアムの手がワインのビンを取った。

 そうしてコルク抜きも使わずに、指先でつまんで栓を抜く。


 ビンの口をきつく封じていたコルク栓は、ほとんど力も入れずに簡単に抜けてしまった。


『……。私もずいぶんと無駄に怪力になってしまったものだ。あまり優雅とは言えんな』


 レヴィアムは力に満ち溢れた自分の手をじっと眺めた。

 吸血鬼の身体能力は、総じて人間よりも優れてはいる。だがそれは跳躍力であったり、壁に貼り付けたりと、身軽さや身のこなしがほとんどだ。


 力が強いと言ってもそれほど大した違いはない。オーガやオークなど、腕力を誇る種にはさすがに及ばず……のはずなのだが。

 アルタス他の吸血鬼を喰らってからというもの、レヴィアムの能力はあらゆる点で通常の吸血鬼を大きく凌駕しつつあった。


『喰らえば喰らうほど強大になる……。イルマイア神の伝承と同じ、か。まあ魔力が強化されたのはよかった、アルタスや兵どもを殺すのにも大して苦労はなかったからな』


 そう一人ごちて、レヴィアムはアルタスの残骸を貪りながらワインをラッパ飲みする。


 しばらくの間、そのまま食事がてらにくつろいでいた。

 やがてアルタスの魂の全てを食い尽くすと、椅子から立ち上がる。生首をぞんざいに放り捨て、空のビンを机の上に置いた。


『……。さて、私の正体はともかくだ。それより問題はこれからどうするか、だな……。王都の使者まで喰ってしまったし、さすがに家の者を全滅させてしまったのはまずい。このままでは追討の命が我が配下の小領主たちにまで回るであろうし』


 顎に手を当てて、レヴィアムは一考する。

 が、もはやどうこうする方法などないことを悟り、小さく笑った。


 見境のなくなった同族喰らいの吸血鬼など、このオルドビシアにいれるわけもない。領民を吸血鬼にしてこそこそつまみ喰いしていたのとはわけが違う。

 辺境伯の座は、おそらく王命によって剥奪されるだろう。捕縛される前に国を去るしかなかった。


 財宝や可愛い家畜である領民たちを置いていくこと、そして吸血鬼という最高の食料がもう得られないことがいささか残念であったが、もうしかたがない。


『そなたら。服を替えたい、我が旅装を用意せよ。それから宝物庫の、我が家に伝わる宝剣を持って参れ。初代イグトゥナースの領主が佩いていた、一番奥に仕舞われてある剣だ』


 泣いて震えているメイドたちに命令し、レヴィアムは服装を改めた。

 このオルドビシアを出て、知らぬ地へと旅立つために。


 着替えを終え、古びた宝剣を腰に差すと、レヴィアムは生き残った二人だけのメイドに振り返った。


『よろしい、ではそなたらに言うことがある。ただいまこの時を持ってそなたら二人には暇を出す。この城を出て領民に伝えよ――イグトゥナースの家は滅び、もはやこの地の主はおらぬと』


 そう言って二人のメイドを見る。


 二人とも同じ流れるように美しい黒髪の、うら若い少女だった。そういえばこの二人は姉妹であり、同じ時期に城に連れて来られた元貧農の娘であったらしいことを思い出す。

 少女たちはレヴィアムの言葉がよく分からないらしく、しゃくり上げながらぽかんとこちらを見ていた。


『暇を出す。もう仕えなくともよろしい。喰らうにも値しない以上、そなたらに求めることはもうなにもない……そうだな、最後に心ばかりの褒美を出そう。私に仕えたことへのささやかな礼だ』


 手近な引き出しを開け、レヴィアムは二つほど宝石付きの指輪を取り出した。

 それを二人の手に一つずつ握らせてやる。


『持っていくがよい。もう無用ゆえな。売り払えば、そなたらの短き生ならば一生困らぬ程度の金にはなろう。足りなければ好きに選んで持っていってもかまわぬ、なんだったら縁者を呼び今のうちに取れるだけ取っていけ』


 二人は黙ってレヴィアムを見つめていた。

 やがて姉のほうが、恐る恐るといった感じで口を開く。


「……ご、ご主人、さま……? あ、ああ、あの……?」

『私はこの国を去る。我が愛しき家畜たちよ、さらばだ。達者でな』


 言い捨てて、レヴィアムは部屋を出ていった。

 血にまみれた城内をゆっくりと歩いて抜け、階段の手すりにぶら下がった臓物を眺めながら降り、死体の転がる回廊から正門へと向かう。


 城を出る前に、ふと一枚の肖像画が目に入った。

 美しい、女性の絵。


 飛び散った黒い血の跡が、その明るい背景の絵に、なんとも言えないコントラストを与えていた。


『――……母上』


 今はもう亡き、先代イグトゥナース辺境伯の妻。

 レヴィアムの母の、絵であった。


 レヴィアムは立ち止まり、その肖像画を眺め小さくつぶやく。


『……絵の中の母上を見るたび、私はいつも遠き昔を思い出しておりました。おぼろげな記憶と、幸福な思い出……母上が身罷られてからというもの、幼きころは寂しさに泣いたことも一度ならずあります。猛々しきを理想とするイグトゥナース家、その嫡男がなにを弱気なとお叱りになられるかも知れませぬ。しかし――』


 じっと絵を見つめて、そして。

 その口の端が、歪に釣り上がった。


『今は――母上の姿に『食欲』を覚えますな。父上ともども、喰ってしまいたかった……。フフフフ……!』


 狂気に染まった笑みを残し、レヴィアムは城を後にした。

 行き先はすでに決まっていた。

 東へ向かう。


 ロディニア――辛酸を舐めさせられた、人間たちの魔法の国。

 憎き敵だったはずの、分も弁えぬ愚か者のその国が、今はさほど嫌いとも思わなかった。自分は身体と共に変わったのかもしれない。

 ただ自分を一度は死に至らしめた、あの召喚生物と魔導士の少女。あの二人に興味があった。


 あの、圧倒的な力。

 喰ってしまいたい。

 喰らい、あの強さを自らの内に取りこんでしまいたい。


 召喚生物は喰えるかどうか分からなかったが、魔導士の方なら問題ないだろう。

 オルドビシアの人間とは違う、強力な魔法使いたちの血と魂――吸血鬼ほどには美味ではないかもしれないが、その力は今後も実に有為なものとなる。おそらく今の自分ならば、それを吸収してしまうことができるだろう。


『魔力の篭もった人の魂とは、いかなる味わいであるか……楽しみだ。ククク』


 まずは、隣の領地のフィンガムル領へ。

 ちょうど東へ向かう途中にあり、ヴァンピールスレイヤーの難を逃れた配下の家である。そこの当主が最近ようやく『再誕』できたらしい。


 そこの家の者と共に、全て喰らってやる。

 喰って喰って、また次の領地へ。そうして東のロディニアへ行く。


 ロディニアで魔法の血をすすってからのことは、まだ考えていなかった。きっとその内いい考えが浮かぶかもしれない。

 諸国を回って、美味そうな獲物を見つけては喰らって生きていくのもいいかもしれない。

 強大な真祖に成長して、どこかに新しく国でも打ち立てる、などというのも悪くない。


 流浪の吸血鬼となったレヴィアムは、呪わしき流血のイグトゥナース城を背に、遠く異国へと旅立っていった。

 


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