第五話 その4
窓の外に見えていた太陽が、紅く染まりはじめた。
広大な図書館の中では室内の物影が徐々に大きさを増し、薄暗がりがゆっくりと広がっていく。
司書らしき女性が短めのステッキを手に巡回をはじめ、燭台や壁に向かって魔法を唱えると、煌々とした不思議な明かりがいくつも灯されていく。
東吾は外の風景から視線を外すと、ズラリと奥まで続いている机の群れに目をやった。
もうすぐ夕刻に差し掛かろうというのに、図書館では多くの人間が時間を忘れたかのように本に読みふけっていた。
時折抱え切れないほどの本を持った人が部屋を後にする姿も見えたが、それ以上に多くの人間が老若男女の区別なくこの場を訪れ、熱心に書架を歩きまわっているのが見てとれる。
そして最後に、一番手前の机には山と積まれた書籍を相手にページをめくるリィーンの姿があった。
「うーん……。これもちょっと違うわね。召喚対象の特殊指定のくだりは面白いけど……生物召喚における指定法だし、エーテルから来る肉のゴーレムとは別物だものね」
ぱたり、と本と閉じて脇にのけると、リィーンはぐっと伸びをする。
「はあ。肉のゴーレムの召喚指定なんて、やっぱりないのかしら……。エーテル界の向こう側なんてそれほど研究の進んだ分野でもないし」
「リィーン。俺が呼ばれない方法、結局見つからないのか?」
「うん……。調べてみても見当たらないわ。先生も知らないみたいだし」
「マジかよ。どうすんだよ……。このまま呼ばれ続けられても困るんだけど」
「第一、どうしてトーゴが来るのかも分からないしね。ふつうのゴーレム召喚で、トーゴを指定してるわけでもないのに」
少し額を押さえ、リィーンもまた困ったように言う。
「肉のゴーレム。って呪文の性質的に、動力でもあるエーテルをまとめて掬いあげてからそれぞれに体を与えてるの。だから他のゴーレムを残してトーゴだけ呪文を解除する、なんてのもたぶん難しいわ。同時に召喚したゴーレムはみんなまとめて消えちゃうし、エーテルの細かい操作なんて未知の領域すぎて大魔導でもなかなかできないもの」
「じゃあ、やっぱり俺はしばらくこのままなのかよ。なんなんだかなぁ」
「悪いとは思ってるわ。でも、わたしもゴーレムを使えないってわけにはどうしてもいかないのよ。半分書生の身でも、軍の仕事だってあるし。よいしょ」
そう言って立ち上がると、山になった本の一角を持って書架へ戻しに歩きはじめる。
ただ見ているのも何なので、東吾もそれにならって本を手に後を追いかけた。すぼ、と音を立てて例の筋肉腕を引き出し、ゴソッと本の山を大きな両手に抱え上げる。
「よっと。そらそっちにも事情があるんだろうけどさあ。……ところで、お前っていくつなの? 俺とあんまり変わらないように見えるけど」
「? 今年で16だけど」
「あ、タメじゃん。俺はもうすぐ17になるけどな」
「齢言ってなかったっけ。急にどうして?」
「いや、学生なのかと思ってさ。そのわりには仕事とか、軍人みたいなことやってるっぽいし」
「ぽいじゃなくて、一応ちゃんとした軍属なんだけど。大魔導に直接師事する魔導士は、その代わりに軍に所属しなきゃいけないのよ。お給料はほとんど出ないけどね」
「タダ働きかよ、大変だなお前も。俺もタダ働きだけど」
「決まりだからしょうがないでしょ。直接師弟になるなんてふつうはできないんだもの、あんな先生でもね」
「まあ、俺に給料なんか出ないというのは分かった。金はないのな」
少し歩いて十メートルほどもありそうな巨大な棚の前に着くと、リィーンは本を一旦地面に置いてから近くにあったはしごを使って書架へ戻していく。
「あ、それ取って。その赤い表紙の」
「これ? ほい」
「ありがと。ついでに、その下のも」
「あいよ」
「えーと、これはここで。これはこっち。これは向こうね。……」
表紙の著者欄を確かめながら、本の詰まった棚へと押し込んでいく。
それからふと手が止まり、思い出したようにつぶやいた。
「……それはわたしだって、仕事より勉強とか、たまには遊んだりもしたいけど。でも、前から決まってたようなものだしね。先生の弟子になるのは」
「決まってた? よくわかんねえけど、それって特別なもんなの?」
「うーん、特別っていうか。学校にいた時は教師に栄誉だとかなんだとか、言われたけど。あんまり実感わかないわ。だって家でよく見る顔の人の弟子になっても、ちょっとね」
「? 家で? どゆこと?」
「あ。それはその、なんていうのかしら。……わたし、孤児なのよ。親がいないの」
『Y』と書かれた行の棚にぐっと本を押し込み、リィーンは言う。
「わたしが小さな頃に、魔法実験の失敗で二人とも死んじゃったらしくて。それで、両親と交流のあった先生の家に引き取られたの」
「……」
「だからその関係で、先生の弟子になるのが決まってたのよ。大魔導は原則一人以上弟子を輩出しなきゃいけない、って決まりもあるし」
「え、えーと。なんかゴメン、悪いこと聞いたか」
「別にいいわよ、気にしてないわ。戦争だってあるし、この国じゃ片親もそう珍しいことじゃないもの。じゃあ次は上の段の……」
リィーンがはしごの段を昇ろうとした時、かなり広めに取られた書架と書架の間にいた東吾たちの横を四人組みの男女が通り抜けた。
リィーンと似た服装の、年頃もあまり変わらない学生という風体だった。楽しそうに談笑しながら、借りた本を手に去っていく。
「……。ちょっと、ああいうのも羨ましいかも、ね。仕方ないけど」
そう言って小さく、ため息ともつかないくらいに息を吐く。
「ん。それより早く片付けて、先生のとこに戻らないと。今日は久しぶりに講義してくれるらしいし、来週には首都に戻るから間借りしてる部屋の片付けもしなきゃ」
「……」
「ええと。あ、これちょっと離れてるわね。うーん……よい、しょっ」
「え、あ、おい。そんなに体を乗り出すと」
「! え、きゃっ!?」
「あっ!? 危ねえ!」
リィーンが強引に身を乗り出して本を戻そうとすると、立てかけられていたはしごが大きく傾いた。
東吾は反射的に手を伸ばそうとして――。
「って、げ!?」
それには及ばず、足を踏み外したリィーンが東吾に向かって真っ直ぐに突っ込んできた。
「きゃ、きゃあーっ!」
「ぐえー!」
そして下敷きになる。
一拍遅れて、はしごと本の束がばさばさと落ちてきた。
静かになる。
しばらくの間、二人はそのままの体勢で固まっていた。
リィーンがゆっくりと顔を上げる。それから自分の下敷きになった東吾の方を見た。
「……う。いたた……ご、ごめんトーゴ。だいじょうぶ?」
「……。んが。大丈夫、痛くはない。全然痛くねえ」
「あ、ありがと。危なかったわ、頭から落ちちゃうところだった。って……」
「……。痛くはない。俺、こっちだと痛覚ねえし。むしろ……」
「……」
「……」
受け止めた拍子に、偶然。
リィーンのほどよい大きさの胸の膨らみのところに、東吾の手が当たっていた。
痛みどころか、ひどく柔らかい感触が――東吾の手のひらの中にあった。
「……。あ、いや、その」
「……」
「ち、ちがう、事故です。わざとじゃない」
「……。そ、それは、分かる、けど……」
「あの、なんていうか、そんなこと狙って受け止めたわけじゃなくて。それに受け止める以前に、俺に向かって降ってきただけで」
「わ、分かったってば。それより、は、早く手を離して、ほ、欲しいん……だけど」
「あっ、す、すまん」
東吾の手がさっと離れる。
リィーンは頬を赤らめたまま東吾の上から退き、ちょっと手で胸を隠すようにして小さく咳払いをした。
「も、もう。やだ、気をつけてよ。……あ、あべこべだけど。落ちたのわたしの方だけど」
「お、おう」
東吾も赤い顔でポリポリと頭を掻いた。
気恥ずかしさで少し視線を逸らす。
(……や、やーらけー。いい匂いがした。こりゃラッキースケベ。うっほほーい。……じゃねえ、俺アホか)
「ま、まーなんだ。お互い怪我もなくてよかった、ってことで……。……あれ?」
その時、東吾の視界に地面に落ちた本が入った。
勢いで崩れた本の山の内、古びた一冊が大きく開いて床に転がっている。
そこでふと、東吾は何かに気づいたような顔をした。
「あ……? な、なんだこりゃ。あれっ?」
「ど、どうしたの。やっぱりどこか怪我したの?」
「いや、そうじゃなくて。……この、本。ていうかそうだ、そうじゃん。俺って……」
開いた本を手元に引き寄せ、東吾は合点のいったように頷いた。
「俺、『読めて』るんじゃん? こんな文字、知らないはずなのに」
本を眺め、そこに書かれた見知らぬ言語が読めてしまっていた。
思い出してみれば、東吾はごく自然に知らないはずの言葉を読んでいた。昼間に実験された怪しげな部屋のプレートといい、そばの本棚の『Y』の行のコーナーといい。
一週間も経つというのに、全く気づいていなかった。
「どういうことだ? あ、ひょっとしてニカを吸い取ったからか?」
「? 文字って……。トーゴのところの字は、違うの?」
「こんなヘビみたいにぐにゃぐにゃしてないよ。漢字とか平仮名か、あとはせいぜい英単語ぐらいしか分からないし。……おお。思った以上に便利なのかもしれねえ」
本を裏返してみると、表紙には『特殊生物の生態とその風習・伝承』ユーング・ホートック著、と書かれている。
もう一度開いた方に戻すと、『ⅲ.ドラゴンの種族について』という項目が目に映った。
「へー、ドラゴンなんているんだ。なになに、ドラゴンには火龍に限らず様々な種族が存在します。よく知られているものでは『フレアブラス』『ワイヴァーン』『ニーズヘッグ』『ティアマット』、そして代名詞とも言うべき『バーハムート』など――」
「あ、それ。つい間違って持ってきちゃったのよね、特殊生物なんて書いてあるからエーテル生命関係かと思って……」
「――これら、強大にして叡智ある龍達は全て一つの存在を信仰・崇拝しています。すなわちそれこそ、原初種の龍にして彼らの偉大なる神、『リュカリプス神』であり――ふーん面白えかも」
ぱらぱらとページをめくってみると、エルフ、ドワーフ、妖精など様々な生き物が挿絵つきで載っている。
「ふんふん、ホビットに獣人に。人間のページもあるな。なんだこのゾンビみたいなの、土人? やっぱファンタジーなんだな。……あ、これ」
とあるページに目が止まり、東吾の手がパラ見をやめる。
そこには『吸血鬼』と題された内容が書かれていた。東吾も実際に見た、人間そっくりの美形の男女が描かれている。
「あ……。吸血鬼のことね。この間いやというほど見たばっかりだけど」
「そうか、あれも一応吸血鬼って種族なんだもんな」
東吾はどこか退廃的なものを連想させる美しい男女の挿絵を眺めつつ、文章を流し読みしてみた。
――吸血鬼とは長命の種族であり、我々人類と非常に似通い強い親和性を持ちながらも、しかし根本的に異なる非常に特殊な生物です。
彼らは人間と同じものを食べるほかに、人間の血を好んで吸いそこから生命力を得て、徐々に『成長』します。
逆に自身の血を媒介として与えることで、人間やエルフ、ドワーフなどをはじめとした親和性を持つ生命を同じ吸血鬼に変えることができ、さらには他の生物の血を一定量以上直接体内に取り込むことで、人間等の親和性の強い生命にならば生まれ変わることさえできると言われています。
また彼らは本来的に死の頸木から逃れ得たほぼ唯一の種でもあり、特殊な儀式を行なうことにより死から復活することもできます。
これら『不死』や『生まれ変わり』の効果により、吸血鬼となることを望む者が種族を問わず後を絶ちませんが、吸血鬼は基本的に血脈を背景とした強い封建的社会を営む傾向にあり、また他種族(特に親和性の強いとされる生物)に対して異様に攻撃的になることが確認されているため、その仲間入りを果たすのは困難とされています。
この攻撃性の由来はおそらく血液に大きな関連があると認められますが、いまだその因果関係は解明されていません。
伝承によれば、吸血鬼の中には稀な確率で『特異体』とも言うべき存在が生まれ、他の吸血鬼の血だけを喰らうとされており、その存在は血液と攻撃性の関係を解明するヒントに成り得ると考えられます。
が、吸血鬼という種族は前述の通り不死性を持ち、長い時を生き死と子孫という生命サイクルのテンポが他の種に比して非常に遅いこともあるため、特異体の発見には至っておりません――
「――文化においては、彼らもまた他の多くの種と同じく原初種の存在を神として信仰しているのが一般的です。いわゆる神祖であり始まりの吸血鬼『イルマイア=イヴ』が彼らの神であり――……。吸血鬼の神様、ねえ」
意外に興味をそそられながらページをめくっていると、リィーンが覗きこむようにしてこちらを見つめてきた。
「気に入ったの? 読みたいなら借りてもいいけど、どうする?」
「んー。そうだなぁ、面白いけど。借りてまではいいかな」
「別に貸してもらうのに時間はかからないけど。わたしの名前でやればいいし」
「いや、いいよ。どうせ借りても、向こうの世界に持って帰れるかもわからないしな。もし持ってけても今度は返せなくなるし」
「そう? じゃ、本戻しときましょ。だいぶ散らかしちゃったわ」
リィーンがそこらじゅうにぶちまけてしまった本を集めて、本棚にしまいはじめる。
東吾もまた読んでいた本をぱたんと閉じて、片付けを手伝うことにした。