第四話 その11
暗闇の中に沈んでいた石の砦が、地響きを上げて崩れていく。
「うおおおお!? じ、地震!」
「『おぅ、地震だな?』」
東吾のすぐそばを、巨大な石の建材が落ちてくる。
肉のゴーレムと果敢にも取っ組み合いをしていた吸血鬼が、それに潰されて悲鳴を上げた。
「……通信! 撤退を命令だ! 総員、『空間転移』で直ちにバージェスに退却せよ!」
「はっ! ――こちら1番、行政長の魔法が発動。総員直ちに撤退開始――」
グレイヴスの命令が通信魔導士を通して、全部隊に通達されていく。
「わわわ、あぶねー! リィーンやばいここ崩れてる!?」
「トーゴ! こっちに来て!」
駆け寄ってきたリィーンが東吾の手を引き、グレイヴスと二人の魔導士がいる魔法陣の方へ走った。
「……通信士、撤退状況は!? 取り残されている者はおらんか!」
「――8、2、6番から各部隊撤退の報告、――3、4、5、……7番! 9から12! 問題ありません、全部隊撤退完了です! 0番からも入電、砦にいる生きた人間は我々だけであります!」
「……よろしい退くぞ! 空間魔導士、我らを『転移』だ!」
「は! 『アノ=マロ=カリウス』!」
それまでただ立っていた空間魔導士が、手を掲げて呪文を唱えた。
吸血鬼たちと足止めのゴーレムだけを取り残し、東吾たちの体がその場から消え去った。
「――う、おおっ!?」
いきなり視界が開けた。
前の瞬間まで崩れる塔の暗闇の中にいたはずが、陽の注ぐ石畳の上に放り出される。
思わずたたらを踏んでもつれそうになる足を抑え、東吾は前を見た。
そこには。
――影に覆われたまま崩壊していく、石の砦と。
大きく『沈んでいく』地面があった。
地響きを鳴らし、丘の上に立つバージェスを除く周囲の大地が歪んでいく。
外に布陣している吸血鬼たちの軍隊ごと、深く深く落ち窪んでいく。
そして噴き出した間欠泉のように、いくつもの巨大な水の柱が立った。
それは先日、草原の中で探していた水源――グレイヴスが魔法をかけ、水柱が立つよう細工していた地面の下の豊富な水だった。
沈み込んだ地面の間で、局地的な土石流が発生した。
丘の上のバージェス以外の周囲全方位で、広大な落とし穴にはまったオルドビシア軍は為すすべもなく激流に飲み込まれていく。
土砂の入り混じった巨大な鉄砲水が黒い軍装の集団を押し潰し、騎士も兵士も陣幕も、巨大な攻城兵器すらも上回る高さで、波は敵を飲み込んでいく。
逆巻き、渦を巻き、抵抗する暇も与えず、広大な『落とし穴』の中を荒れ狂う水が満たしていく――。
――全てが水に埋め立てられるまで、さほどの時間はかからなかった。
あとには、まるで水上の上に建つ大都市・バージェスだけが残っていた。
「……か……勝った?」
「……うん。勝ったわ」
城門の上に立ちながらぽつりとつぶやいた東吾の声に、リィーンが頷いた。
黒く禍々しい吸血鬼の軍隊が、全て流されてしまった。
水は一定の量で満ちるとピタリと収まり、今は泥の濁りをかすかに残して凪いでいた。
いくつかの軍旗が水の上に浮かび、それ以外はオルドビシア軍の痕跡も残していない。
「すっげー……。一発じゃん」
「そうね。さすがにこれじゃ、向こうもどうしようもないでしょ。それに吸血鬼は水に弱いの。泳げないって弱点を持っているわ。溺れると、水に溶けてしまうの」
「え、そうなの?」
「うん。だから、全滅よ。敵はもう一人も残ってないわ。一人も」
そう言うと、リィーンは小さくため息をついた。
「……はあ。危なかったけど、なんとか無事に終わったわ。……でもあんまり、いい気分じゃないわね。勝つことには勝ったけど、ちょっと徹底的すぎるわ」
そう言って、憂鬱そうに少しだけうつむく。
「ん。まあ、そうだなぁ。30000だか40000だっけ。多すぎて、ちょっと俺にはよくわかんねえ数だけど」
「戦争だから、仕方ないんだけど。殺される前に殺さなきゃいけないんだけど……でも。こうして実際に見ると……少し、ね」
「……」
全ての敵が殲滅された跡を、東吾とリィーンは素直に喜べずに見つめた。
そこに、グレイヴスがゆっくりと歩きながら近付いてくる。
「……よくやった、娘、小僧。作戦は成功だ。我らの勝利だ」
「あ、はい。行政長」
神妙な顔で姿勢を正したリィーンが返事をする。
その肩が、ぽんと叩かれた。
「……リィーン、と言ったな。そこの小僧はトーゴ、だったか。その名前覚えておこう。多勢を相手に私を守りきった働きは見事だった。実に優秀な魔導士と剣の使い手だ……いずれ軍から正式に賞されよう。私からも働きかけておく、楽しみにしておけ」
「……。はい」
「……おそらく戦争は、これで終わりだ。この戦いでオルドビシアは数年は立ち直れないほどの打撃を受けただろう。もう戦争に巻き込まれて死ぬロディニア国民もおるまい」
「そうですか……」
浮かない顔色で頷くリィーンの姿に、グレイヴスの眉がわずかに動いた。
少し考えるように顎に手をやってから、再び口を開く。
「……。……ふむ。……そうだな、貴様らのおかげでバージェスの住民全てが救われた。作戦部隊には少なからず被害があったが、住民には一人の犠牲もない。男も女も、老人も小さな子供もだ。誇ってよい偉大な勝利だ」
「……はい。それは、よかったです」
「……お前の師匠も無事だ。今はそら、あそこで暢気な顔をしているぞ」
グレイヴスが指差した先には、手を振りながらにこやかにこちらに向かってくるデーイィンの姿があった。
少し怪我をしたのか、左手に小さく包帯を巻いている。
「……師匠に無事を見せておけ。あんな適当な男でも、弟子は大事だろうからな」
そう言って、グレイヴスがリィーンの背を軽く押した。
リィーンは歩いてきたデーイィンの前に立ち、両手できゅっと杖を握ったまま、自分の師を見つめる。
「先生。ご無事でなによりです。手は大丈夫ですか?」
「やあリィーン。私はぴんぴんしていますよ。これはかすり傷です、最後に落ちてきた岩にちょっとぶつけただけですから。貴方はどこか怪我はありませんか?」
「わたしはどこも。一度だけ危なかったですけど、トーゴに助けてもらいました」
「うんうん、それは良かった。しかし……またしても彼の性能を見られなかったですねぇ」
肩をすくめ、デーイィンはちらりと東吾を見てくる。
「困りました。こうなれば私の方で、ミシロくんの性能を確かめる場を用意するのも致仕方ないかもしれませんねぇ……」
「は!? おい先生アンタ、今度は俺に何をする気だよ!?」
「フッフッフ……まあまあ、そんなにひどいことはしませんよ。楽しみに待っていて下さい。私も楽しみにしていましょう」
「やめろ! 絶対やめろよ! 俺は実験動物じゃないっての!」
「まあまあそんなに言わずに。遠慮しなくていいですから」
「遠慮なんかしてるわけねーだろ!」
「はあ……。もう先生、だめですからね。トーゴの意思を無視しちゃだめです」
デーイィンに念を押して、リィーンは普段のような困った顔で言った。
その顔は、少し緊張が解けたようでもあった。
「……ふふ。さてさてリィーン、それではこれから仕事が山のようにありますよ。周囲一面湖ですからねぇ。これを引かせる作業が大変です」
ニコリと優しげに笑いかけ、それからデーイィンはグレイヴスの方を振り向く。
「ですねグレイヴス。これでは街の外にすら出られませんし?」
「……。とんでもない後始末だなこれは。どれほどの手間がかかるか分からんほどだ……」
「これはもう、全部引かせるのはちょっと無理でしょうねえ。どこかの川に繋げて新しく川を作りませんとね」
「……地図まで描き直しだな。まったく……。お前も手伝えよ、いいな」
「おっと。しかし私は大地魔法が不得手なんですよねぇ。貴方も知っての通り」
「……いいから手伝えと言ったら手伝え。お前が言いだしっぺだろう。まったく、本国になんと報告すればいいのか……。なんとか特別予算を回してもらわねばな……」
軽く頭を抱え、グレイヴスは背を向けた。
三人をその場に残し歩いていってしまう。すると遠くから走ってきた行政次官が書類を片手に、グレイヴスに並んで歩き報告を上げはじめていた。
「グレイヴスも大変ですね。出世するのもいいことばかりではないようで。あっはっは」
「元はと言えば全部、トーゴに『赤石』入れちゃった先生のせいなんですけどね……」
無責任に笑うデーイィンの姿に、リィーンが額を押さえて言った。
「そういえばそうですね、あっはっは。しかしまあ、今日のところは後始末より生き延びたことを喜びましょうか。では二人とも、そろそろ昼食でも取りましょう。もうお昼も過ぎていますし」
街の中に見える時計を眺め、デーイィンは頼りない見た目とは裏腹にタフなことを言う。
凄まじい戦闘が終わったばかりだというのに、平気で食事をするつもりらしい。
「え、でも先生。わたし、ちょっとあんまり食欲が……。疲れてるし、少し休みたいんですけど」
「ほらほら、ダメですよリィーン。戦いはもう終わったのですから、頭をさっと切り替えましょう。それに疲れた時は甘いものを摂るといいですから」
「わ、せ、先生ったら。もう」
強引にリィーンの背中を押して、デーイィンは歩いていく。
「ミシロくん、早く来ないと置いていってしまいますよ? 君も一緒に食べましょう」
「あ、ああ。今行く」
「『サペリオン』の近くにいい料理を出す店を知っているんですよ。今日は私の奢りです。とは言っても、今日だけはおそらく無料で振る舞ってくれると思いますが。はっはっは」
「え? ああ、そうか。戦勝、ってやつ……なのか。……」
リィーンとデーイィンを追いかけようとして、最後に東吾はもう一度だけ城壁の外を振り向いた。
吸血鬼の軍隊がいた場所に、いくつかの軍旗だけが水に揺られて浮いていた。
はじめから何もいなかったかのように、湖と化した街の外からは何の声も聞こえてこなかった。ただ、風の音だけがかすかに鳴っていた。
背後ではバージェスの住民たちの、無邪気な勝利の歓声が響いていた。
バージェスを攻撃した奴隷戦士一万余を含むオルドビシア軍、総数38989名は――完全に、壊滅した。
生存者は一人もいなかった。
翌年、バージェスのすぐ外では新しい豊富な水源を利用した耕作が営まれることになった。
収穫は例年になく大豊作であり、獲れた麦は山のようにうず高く積まれたが、場所が場所であり買おうとするロディニア人はほぼ皆無だった。
大量の麦は結局格安で国外に売却されることになり、第三国を経由して、先年の敗戦でひどく疲弊していたオルドビシアがそれと知らずに購入することになった。
価格の割に実りの良い良質な麦で作られたパンは、オルドビシアに住む全ての者の口に美味しく運ばれたという。