第四話 その7
石の蓋を頭にかぶり、殻に篭った亀のように攻撃を防ぎきっている大都市バージェス。
その周囲を取り囲む膨大な数のオルドビシア軍から、大きな喚声が上がった。
やがて一部が分離し、巌のような要塞に向かって、狂乱する雄叫びと共に一斉に駆け出していく。
それは吸血鬼ではなく、薄汚れた襤褸切れを身にまとった人間たちだった。
その大部分は男だが、中には女も、まだ幼い顔つきを残す子供さえも混じっている。
各々、ただ一本の剣のみを与えられたその集団は、オルドビシアにおける最下層であるただの人間――すなわち『国民兼食料』から、わずか一歩だけ這い上がった者たちだ。
『奴隷戦士』――と呼ばれる彼らは、貴族のようにオルドビシア社会上層に居座る吸血鬼たちに税を納めるだけでなく、剣を執り戦うことを、『許された』集団である。
オルドビシア軍では常の先手であり、行軍時には苦役を全て任される人夫でもあり、吸血鬼たちにとっての糧食の一つにもなる。
日々、晩餐や一時の現具に供されることに怯えて家畜のように暮らすのではなく、あえて積極的に血や命を捧げ、武勲を勝ち取り、優れたる者として認められることを望み。
いずれは、支配者たちのわずかな慈悲にすがって血を分け与えられ、吸血鬼の一人に加えてもらうことを夢見る。
――哀れな、人間たちの群れ。
いわば、使い捨ての駒だった。
肉薄しての攻城がはじまっても、弓による都市への攻撃は止まない。
時折、味方から放たれた流れ矢が、彼らを背中から打ち殺す。
皓、と目の前の城壁から、光が放たれた。
『――うぎゃああああーーーーっ!!』
『ぐべぇっ!?』
『うあっうああああーーっ!!』
爆炎。
奴隷戦士たちの鼻先で、いくつもの爆発が起き、悲鳴が上がった。
城壁の上から、ロディニア軍の魔導士が放った様々な魔法が、四方八方に向けて飛んだのだ。
爆発と共に、肉体を無残に四散させる者。火に巻かれ、一瞬で焼き殺され骨さえ残らず灰にされる者。
次に巻き起こった風にズタズタに裂かれて、四肢をもがれて崩れ落ちる者。高速で飛んできた丸太の槍の雨に貫かれ、潰され、砕かれる者。
さらには、空から襲いかかってきた巨大な猛禽に浚われ、高く連れ去られる者の姿もあった。すぐに首のない死体が落下してきて、衝突音を響かせ血肉を草原にぶちまける。
ほんの少しの時間に、無数の死が生まれた。
統制のない棄民の群れは、混乱して立ち止まる。
先陣を切る勇敢な部隊長すらつけられていない彼らは、あっという間に動きが取れなくなった。
しかし、その後ろにいるオルドビシアの本軍から、彼らに向けて矢の雨が飛ぶ。
戦士たちがばたばたと倒れた。
さらに、『督戦』の騎兵が彼らの背に襲いかかり、なぎ倒す。
奴隷戦士たちの顔が、恐怖に引き攣った。
戦わない奴隷には、敵に与えられるよりも確実なる死を――それは、オルドビシアの鉄の掟であり、伝統でもある。
もはや前に進むしか、生きる道はない。
再び彼らは鉄壁の壁と魔法の砲火という絶望に向かって、針の先を通すか細い希望に向かって走りはじめる。
攻撃の手が休まることはなかった。
ロディニア軍は城壁に向かってひた走ってくる、同じ人間である彼らに、一切の躊躇をしなかった。
数え切れないほどの死が、魔法によって次々と生み出されていく。
いや――数えきっていた。
正確に。
『サペリオン』の上で輝く『広域探知』の青白い灯火は、バージェスに近付く者を一つも取りこぼすこともなく、刻一刻と減っていく敵兵の数字を、正確に、冷徹に、事務的に見つめていた。
襲撃をかけてくる敵の数、最初は、10210。
一撃目の総砲撃で、8805。
一度止まって、同士討ちで8467。
再び向かってきた敵に砲撃を続行。数、8122、8009、7728、7654……。
血と肉片が飛び散る。
断末魔の声が、戦場に上がり続ける。
彼らはロディニアの魔導士たちを消耗させるための、体のいい肉の的としての役目が与えられていた。
つまり、生贄であり、オルドビシア本軍が攻城を開始した時に被害を抑えるための、事前の盾だった。
彼らの前からは魔法が飛び、彼らの後ろからは矢が飛んでくる。
量産されていく、人間の死体。
一方的な殺戮にも近い、狂った光景だった。
オルドビシアの戦争では当たり前の、ごく普通の光景でもあった。
しかしこの戦場において、吸血鬼はもちろん、ロディニア軍の兵士の誰もが、己の正気を疑うことなどない。
そんな余裕などなかった。自らの正気と狂気の狭間に疑問を抱く者は、わずかな例外を除けば、一人としていなかった。
ただただ、街を守るために、迷いなく迫り来る敵を倒す者たち。
絶望のふちに立たされながら、それでも必死に小さな希望にすがる者たち。
その姿を感動もなく、時に一部が多少の愉悦を含んで眺め、都市戦力の消耗を待っている者たち。
強いて言えば、『広域探知』の青い輝きだけが、唯一、一切の狂気を孕んでいなかった。
戦場を一番よく観察している灯火はその役目の通りに、全く狂いの一つなく、人間の数が減少していく様を、機械的に数え続けていた。
魔法の砲撃の勢いが、弱まった。
砂埃が静まり、爆発と悲鳴が散発的なものになる。
奴隷戦士たちの前に、城壁が近付いてくる。
魔法というものは、そう何度も打ち続けられるものではない。
使えば、魔導士が消耗しいつかは打てなくなる――ということは、わずかな教育さえ与えられていないオルドビシアの人間でも、知っていた。
三分の一以上の大損害を出しつつも、ついに彼らは城壁に取り付こうとしていた。
あとは修復され続ける壁を強引に壊すか、壁を登って街の中へなだれ込むしかない。
もちろん、それは不可能に近かった。
はしごすら持たされず、やせ細り力もない彼らが、投石器による攻撃でもびくともしない延々と再生する巨大な城壁を突破することなど、無理である。
それが成功する確率などほとんどなくとも、ロディニア軍の魔法力を大きく消費させたという時点で、彼らの役目はもはや果たされていた。
彼らはもう――全滅しても、構わないのだ。
オルドビシア本軍から、撤退の命令は出なかった。
従って、無意味な攻勢が開始される。
すぐに防衛するロディニア軍から矢が飛び、石が落され、高熱の油壺が頭上に注がれ、終着点に着いたままどうすることもできない人々たちが、死んでいく。
その時、城門が開かれた。
中から喚声が上がり、馬に跨った騎兵たちが猛然と飛び出してくる。
同じ人間でも、生まれた場所が違うだけで全てが違うロディニアの兵たちは、煌びやかな軍装の一団だった。
陽光を映して輝く鉄鎧の騎士たちが、城門の前にいた地べたを這いずりまわる乞食の如き姿の人間の集団に襲いかかる。
血飛沫が舞い上がった。
突撃を受けた奴隷戦士の、部隊とも呼べない群れは簡単に蹴散らされ、瞬く間に壊乱した。
騎兵集団は戦士たちの群れをそのまま突っ切り、真っ直ぐに引き裂いていく。
それを見た後方のオルドビシア本軍は、ついに眺めているのをやめ、新たな手勢を繰り出してくる。
特権階級である吸血鬼のみで構成された、重厚な黒い鎧で統一された騎士団である。
その3000ほどの黒騎士軍団は、1000程度しかいないロディニアの騎兵団を殲滅せんと、土煙と怒号を上げて突っ込んでいく。
ロディニアの騎兵たちもまた敵の迎撃に対し、向きを変え、正面から黒い騎兵軍団に突進していった。
真っ向正面から、騎兵と騎兵が、ぶつかりあう――。
そう思われた瞬間。
ロディニアの騎兵の姿が、全て、消えた。
真横から、だった。
突如として消え去った鉄鎧の騎兵団が、黒騎士たちの真横に、いきなり現れた。
黒騎士軍団は正面にいたはずのロディニア騎兵団から、横合いから思いきり殴りつけられる格好になった。
同時に、虚空に無数の稲妻が生まれる。
幾筋もの光の柱が、黒い鎧の吸血鬼騎士たちを巻きこんで地面を穿ち、砕く。
先端に電撃の結界を纏ったロディニア騎兵は、無人の野を行くが如く、圧倒的多数の黒騎士軍団を両断し分解していく。
不意打ちを受けた黒騎士軍団はあさっての方向への突撃の勢いを消せないまま、まともな抵抗もできなかった。
陣形を崩壊させ散り散りになり、軍という体を為さなくなる。
それらの背中に、追い打ちの魔法が飛ぶ。ロディニア騎兵からだけではなく、城門側からも強力な攻撃が浴びせられた。
戦争が始まって初めて、吸血鬼にも等しく大量の死が与えられることになった。
しかし、ロディニア騎兵はそれ以上の追撃はしなかった。
突っかかってきた黒騎士軍団を大きく壊走させると、ぐるりと円を描くように駆けて速度を殺し、全員が敵軍の目の前で下馬して、フードをかぶった魔導士が魔法を唱える。
草原の茂る、地面に。
――堅牢な石の壁が、地響きを立てて生えてきた。
馬を下りたロディニア軍を守るように、その四方を覆う。
階段が生まれ、石の櫓が組まれ、尖塔が出現していく。
そこに、武器を持ち換えたロディニア軍の兵が、あらかじめ決められていたような素早さで、各所の配置についていく。
魔法で生み出した、即席の『砦』だった。