日常はいたるところにある
コンクリートで出来た道、近代建築で作られた家、化学繊維で作られた服を着ている人々。
そんな当たり前の光景すら懐かしく思っていた時期があった。犬や猫などの動物を見かけるたびに思わずと臨戦態勢をとってしまうようなことすら現実に帰ってきた当初は体が自然と行っていた。
『レジスタンス・オンライン』では犬や猫のような見かけをしたモンスターもおり、最初の頃は倒すのに忍びないとか思っていたのに、逆に現実で見かけても倒そうとしてしまうなんてことも1年近くにわたる仮想世界の幽閉が引き起こした弊害だろう。
濁った空気も心地よさこそ感じないものの体が懐かしいと感じている。残念なのは夜に綺麗な星空を見ることが出来ないことか。化学汚染とは無縁なVR世界の夜空は大概のプレイヤーにとっては大きな癒しとなっていた。
匂いにしても、道を歩いていれば出会う車からはきだされる排気ガスの鼻につく匂いが現実だと教えてくれる。
見慣れた通学路が懐かしいものとなって、最近ようやくまた見慣れたものとなってきた。
そんな風に感じる感性が、より現実に戻ってきたということをはっきりとさせそれが拓海にとっては嬉しくあり、硬いコンクリートで舗装された道を歩くごとに現実を認識させられる。
そんなVRとは違った感触を足で感じながら拓海は自身の通う高校へと歩みを速めていった。
校門の前には拓海のよく見知った顔があたりをきょろきょろと見渡しており、拓海を見つけるとにやっと唇の端を吊り上げて拓海へと声をかける。
「よお、後輩」
「おはようございます、先輩」
今は先輩となった中学時代からの悪友の皮肉ともいえる後輩呼ばわりに対して仕返しとばかりに全く心を込めずに先輩呼ばわりをする。
「かかっ、しっかりと先輩を敬えよ?留年生君」
「好きで留年したわけじゃないですよ。先輩こそ落第生候補なんですから今度勉強を教えてあげましょうか?」
事実、この男――田町正樹よりも留年生である拓海の方が学校の勉強だけでいうならば上だった。
拓海が勉強に秀でているというよりは正樹が勉強を苦手とするということの方が遥かに大きな要因であったが。
「まあ、そん時ゃよろしくお願いするぜ」
拓海の皮肉を全く気にせずに教えを請おうとするあたりに正樹という男の図太さを垣間見る気がする。
「っと、いけねぇいけねぇ。拓海に聞きたいことがあるからこうして朝からわざわざと待ってたんだった」
「ああ、通りで先輩がこんなに朝早くから学校に来ているなんておかしいと思いましたよ」
「………なんか調子狂うから普段どおりに話してくれ」
「正樹が最初に後輩呼ばわりしたんじゃないか」
「いや、このネタでからかわないで俺はいつ拓海をからかえばいい?」
「知るかよ…」
逆の立場なら間違いなく同じからかい方をしているであろう自分のことなど考えもせずに拓海は正樹に向って盛大にため息を吐く。
「で、何?聞きたいことって」
投げやりな態度で正樹に向って話の続きを促す拓海だが、正樹は歯切れ悪くなかなかと話し出さない。口を開くかと思えば思いとどまって口をつむぐ。そんなことを何度も繰り返していた。
それだけで、拓海には正樹が言おうとしていることの検討がつく。普段から人が気にしていることをずけずけというデリカシーがないというか、歯に衣を着せない物言いをする悪友が俺に対して言い出しにくいことなど1つしか思い当たらない。
正直、その話題を口にするのは拓海としても嫌な訳だがそれでも長年連れ合ってきた悪友が、その事に対して気にしているわけもよく分かるので拓海の口から切り出した。
「救出隊の噂の事か」
「………っ。ああ」
正樹は少しばかり肩を揺らして動揺を見せるが、すぐに拓海をしっかりと見据えて頷く。
「所詮は噂どまりさ。事実、俺のところにはそんな話は来てないし、仲間からもそんな事実は確認できていない」
「でも、でもよ。お前が、お前らが実際に向えば………」
「正樹っ!!それ以上言うなっ!!あの地獄を知らない奴が軽々しくそんな事を口にするなんて許さねぇ!!」
「………っ!!」
拓海の怒号ともいえる声によって言いかけた言葉を遮られる正樹はビクリと震える。周りにいる登校途中の学生たちも何事かと一斉に注目する。
「………すまねぇ」
苦々しく、言葉を搾り出す正樹が口にできたのは短い謝罪の言葉だけだった。
「いや、俺の方こそむきになりすぎた。悪かった」
校門前の空間に沈黙によって支配されるが、誰も動こうとしていない。拓海も、正樹も、周りにいる学生たちも。
興味があるのだ、2人の話す内容に。未だに噂の域を出ていないが今、世間を賑わしているあのゲームに関するだけに。
救出隊――誰が言い始めたかのなどは全く持ってわからないが、『レジスタンス・オンライン・アゲイン(通称・ROA)』による最悪のゲームが再び幕開けた時から2週間ほどが経ったときにある噂がネットで流れ始めた。
世間の注目を独り占めしていると言っても過言ではないその事件に関わる噂だけにその噂はあっという間にネットを通して広がっていく。正式なニュースとして流れるなどしていないにも関わらず、今の日本には最早その噂を知らないほうが珍しいというまでに広がっていた。
その噂こそが救出隊というROAの世界へと続いてしまっている、2つのタイトルの二次出荷用のデータを使い、クリアの可能性のあるプレイヤーを送り出すということである。
普通に考えれば有り得ないその方法が妙に現実味を帯びて噂されるのにはROAの進捗状態にある。
前回の『レジスタンス・オンライン』の時と比べても被害者の数の多さ、圧倒的に遅い攻略ペース、死亡者の割合までもが前回よりも遥かに高い現状。
元々、ROAの世界が作られていた理由を鑑みればそれも当然のことであるのだが、ゲーム内での事情など、近しい人がVR空間へと囚われている現実に生きる人にとれば問題は別にある。
このままではクリアの前にプレイヤーの全滅、もしくは肉体の限界を迎えるという説すらも世間に広く流布しているのだ。
この現状を変えるためにゲームの外である現実から出来るのは新たなプレイヤーを送り込むことぐらいしかない。
現実で知りうる情報など攻略状態を知るための各地がプレイヤーによって解放されているか、魔王軍に制圧されているかということと、プレイヤーの現実での名とゲーム内でのレベルなど限られたものだけである。
そして、その情報から分かる限りでは幸福な未来図は描かれていない。
だからこそ、クリアが可能なだけのプレイヤーを新たに送り込む、そんな噂が流れ始めたのだった。
そうなれば、最初に確保される人材は自然と拓海たちレジィで死線をかいくぐり、ハードモードとも言えるROAでも十分に通じうるだけの経験を手に入れているかつてのトッププレイヤーこそが第一候補へと挙げられる。
「正樹が気にする理由も良くわかる。だけど、だけどな。あの世界からの脱出どれだけ大変でどれだけ死と隣り合わせかなんて実際に体験しないと分からないだろうが、2度と味わいたくないんだよ」
「………」
「確かに、行けば助けられる人がいるかも知れない。世論はそういった風にもなるかも知れない。だけどな、それはお前らにも分かりやすく言えば内戦真っ只中の国に行って1つの国としてまとまるまで出てこれないってぐらいに危険なんだよ」
「………」
「ましてや噂が事実だとすれば俺らに求められることは攻略。後ろでビクビクと引きこもっていることすら許されずに己の意思で、少し間違えば全てが終わっちまう場所へと行き続けなきゃいけない。それこそ、今度は自分の自由のためではなく、言い方は悪いが完全に人のためだ。苦労して手に入れた自由が、危険から遠ざかれた生活が、必死でリハビリして元に戻った体が、その全てをまた投げ出せなんて言われる方の身にもなってみろ。ふざけるな、その一言でお終いさ」
「………」
ただ顔を下に向けて黙りこくる正樹。拓海自身言いすぎだとは分かってはいる。が、周りの注目を受けている今だからこそ強く言わねばならない。
わかってないのだから、あのVR世界の脅威を周りの連中は。
だからこそ、強く言う。簡単に救える力があるならば救いに行って欲しいと思っている周りの人たちに対して。
拓海――いや、元プレイヤーたちには救える力など無いのだ。あの世界では圧倒的なステータスと卓越したプレイヤースキルがあろうとも少しの事で命を散らす羽目になる。
最強と呼ばれたプレイヤーはレジィでは沢山いる。実力の拮抗もあるが、最強の死により次に強いものが最強と呼ばれることなんて日常茶飯事のこと。あるプレイヤーがレア武器を手に入れて最強と呼ばれるようになった次の日にはVR世界から姿を消していたことなんかもあった。
トッププレイヤーで居続けると言うのは同時に命の危険と常に隣り合わせであることを意味しているような世界。普通ならば許される死を許されない状況で戦い、鍛え続ける心労は凄まじいものがある。
途中でその重圧に耐え切れずに脱落して、後ろのほうでこそこそと暮らし始めたプレイヤーなど掃いて捨てるほどいる。
拓海自身も自分でよく最後まで最前線にいたな、と思い返すことも多いし、それを夜中に夢見てうなされ、飛び起き、眠れなくなるというコンボを何度と無く体験していた。
「すまん、言い過ぎた。最近周りから期待するかのような視線を浴びることが多くて疲れてるんだ」
「………、いやこっちこそ無神経だった」
誰も何も話さずに、視線を拓海に向けることも出来ずに、それでも去ることも出来ないそんな空気を変える為に拓海が口を開く。
普段は見せないような落ち込みようを見せる正樹は親友とも言える相手に無神経なことを言ってしまった事を気にしているのか、それともROAに囚われてしまっている自身の妹の救出に対する可能性が低いままのことが原因だろうか。
おそらくは、その両方だろう。
「こら!貴方たち校門の前で何してるのっ!?もうじき始業の時間よ」
そんな怒声になってない怒声をあげならばこちらにやってくるのは拓海の担任でもある榊原理子女史である。まだ教員3年目の新米では威厳をかもし出すことは難しい。
校舎に備え付けられた巨大な時計を見てみれば、急がなければ朝のHRが始まってしまう時間であり、それを確認すると同時に校門前にたむろした格好となっていた生徒たちが一斉にと校内へと駆け出す。
拓海と正樹のせいでこれだけの生徒が立ち往生していたのに驚きつつも、拓海と正樹も遅れてはまずいと駆け出すが理子先生によって呼び止められる。
「あっ!待って、佐久間君にはお話があるので教室ではなく、校長室に行って下さい」
「へ?」
拓海から漏れ出たのは間抜けな声。それも仕方がないだろう。
今から呼ばれるということはもちろんHRにはでれない。すぐに済めばよいが、校長室にまで呼び出された内容がすぐに終わると考えるほど拓海は楽観的でもない。
おそらく、1時限目は潰れること確定である。
実際のところ、留年生である拓海が呼び出しを受けるのを珍しくない。されども、放課後に進路指導室と相場は決まっていた。
授業中に校長室でなんてことは今まで1回たりとも無かったのだ。
「あの…HRが…」
「HRは出なくて大丈夫です。授業も間に合わなかったとしてもちゃんと出席扱いになります」
拓海の機先を制すように言う理子先生の言葉の端からはさっさと校長室に行けというニュアンスがたっぷりと含まれている。
「………わかりました」
拓海は生徒であり、先生である理子には学校という場では敵わない。ましてや、その上にいる校長からのご指名であることは疑いないのならば拓海には最初から選択肢など1つしかなかったのであった。