変わりゆく日常
次の日の朝、拓海は昨日のことを引きずっていないかのように、いつもと変わらない時間に起床し、朝食を食べ、家を出た。
それは拓海にとって1つで意地であったのかも知れない。手に入れた現実が自分から逃げようとしているのを感じながらも認めずにいるからこそ、せめて自分がいつも通りでいることが1つの防衛線となっているのだろう。
そんな風に装う拓海が家を出るときには夕実と文也の心配そうな視線が拓海に向けられていたが、あえて気付いてない素振りをしたのは認めたくなかったからだろう。
宗平は心配していないわけじゃなく、ただ単にすでに出社しており居なかったというだけのことだ。証拠に家を出る前に『今日は休んだらどうだ?』と拓海に訊いている。
だが、拓海は学校へと行くことを選んだ。確かに政府から『ROA』での異常は発表されたが、まだ直ぐに急激な変化は起こるまいと楽観視しているのもあったが、何よりも拓海自身が日常が変わらないように望んでいたことが大きかっただろう。
だが、拓海の目算は甘いと言わざるを得なかった。10万を超える被害者を出しているこの事件の続報にどれだけの人が注目しているかなど少し考えれば分かるもので、例え噂程度のものであろうとも人伝で世間への浸透には時間がかからない。
ただそれも仕方の無いことだった。前回の犠牲者である拓海にとっては忌避するべき事件である以上は積極的に関わりたくないことで、自然と耳に入れないように話題なのだから。
その日の登校途中に拓海に向けられた視線の数はいつもより多く、込められる感情も強くなっていた。
しかし、拓海はそれを昨日の話を聞いたからそういう風に感じているだけだと自分に思い込ませて、いつも通りのペースで通学路を歩き続ける。
いつもはちらりと目を向けてくる近所のおばさんが拓海の姿が見えなくなるで視線を送り続け、見えなくなったら1人、2人と集まってきて井戸端会議が開催される。
隣近所の話題やテレビがどうたらと言ったことを話しているおばさんたちの今日の話題は拓海のことであり、その話題の熱が冷めるのはしばらく先のことになるだろう。
もっと細かに言うのならば、巷を騒がすROAの新しい情報がもたらせたからあり、おばさんたちにとっては最も身近で話題にし易いのが拓海であったというだけのことであった。
ただし、それでも拓海はまだ恵まれているのだ。もし、近所のおばさんの知り合いに被害者がいたのならばもっと酷い状況になっているに違いない。
しかし、学校ではそうはいかない。幸いにして、未だ死亡者こそ出ていないが、VR世界へと囚われている被害者はでているのだから。
校門の前には昨日と同じ様に正樹が立っていた。
「………よぉ」
「おはよ」
何かを切り出したそうな話しかけ方をする正樹に対して拓海は朝の挨拶を返す。
「…ニュース見たか?」
何のニュースかは言う必要がない。今この場で拓海を待ってまで聞こうとするニュースなど1つしかない。
正樹の顔色が優れないのは妹の身を案じていることの表れだった。正樹と妹の仲は良好といってよく、拓海も正樹の家に遊びに行った時に知り合っている。
言うなれば、拓海も軽度ながらも知り合いの安否を気にする日常生活を余儀なくされているが、より近い分だけ正樹の心の負担はより大きいだろう。
「…見てない」
少しの躊躇いの後に拓海が口にしたことは嘘ではない。実際に拓海はニュースを見ていない。
だが、正樹の問いの正確な意味は『現状を知ってるか』というものでそれに対しての拓海の応えはイエス以外は有り得ないのだが。
拓海はあえて質問の意味を正面からとってそれに対する事実だけを告げることを選んだ。ただの屁理屈であろう事は拓海自身も気付いているが、それでもこの後の話の流れを考えるに拓海にとっては素直に頷けないことだったのだ。
「そう、か。…でもよ、知ってはいるんだろ」
思わず、びくりと拓海の体が震える。それは後ろめたさからなのか、触れて欲しくない話題だったからかは分からないが、拓海の動揺は顔へと現れていた。
「一応、中学からの付き合いだ。それぐらいはわかる」
そう言う正樹の顔は朗らかさすら浮かんで見えるがその声から余裕というものが微塵も感じられなかった。それだけ今の現状は不味いということを理解しているのだろう。
「それで、よ。経験者としてはどうなんだよ?実際にプレイしたことの無い俺じゃあ、今の状況がヤベェってことぐらいしかわかんねぇ。けどよ、拓海なら違うだろ?少なくとも俺よりは詳しく分かるよな」
拓海が正樹の言葉から感じられた感情は懇願。妹の危機に何もできない自分の愚かしさを呪ったかのように沈んだ顔色と聞き取りづらい声だった。
そんな正樹の言葉は拓海から救いの言葉を待っているのだろう。『まあ、騒ぐほどでもないことだ』そんな楽観的ともいえる希望の言葉を聞きたかったのだろう。
「………6分の1の確立だ」
「は?」
「6分の1の確立、と言ったんだ。つまり、残りの6分の5に属している可能性の方がよっぽど高い」
拓海から出た言葉は救いを与えるものではなく、可能性に望みを託すものでしかなかった。
日本国民――厳密に言えば、すでに世界が注目しているが――が知らせれたのは漠然とした状況の悪化でしかない。
事態が悪いほうに傾いたということは分かっても報道された情報だけでは分からないことも多々ある。
それはニュースを見た一般人だけではなく、実際に事件の対応に当たっている人でさえわからないことだ。
今現在において知りえる情報から最も正確な未来を予想しうるのは間違いなく拓海を始めとしたROAのプレイヤーたちであろう。とはいえ、続編であるアゲインにおいてどこまでその知識と経験が当てはめられるかは定かではないが、それでも現状の把握にかけては担当者よりも分かっているのは確かなことだった。
そして、その知識と経験が紡ぎだした答えは口に出すのをはばかれるものであり、だからこそ正樹の問いに対して逃げるかのような答えしか返せなかった。
嘘をついてしまえばそれで全てが終わる。正樹の心配は取り除かれるとまでは言えなくとも、朝ニュースを見た時よりもはるかに楽な気持ちでいただろうし、拓海にとっても正樹からの追求はなかっただろう。
しかし、拓海は嘘をついてまで正樹を安心させることを選ばずに真実を口にしたのは純粋に妹を思う親友の姿を見て思うものがあったからだった。そして、漠然としてだったが隠しても隠し切れないことの様な気がしていたのが決定打となっていた。
「じゃあ、じゃあよ。もしその6分の1に当たっちまってたらどうすんだよ?どうなるんだよっ!?」
「………」
拓海の答えは沈黙。それは応えるべき答えを持っていなかったからではなく、過去の忌まわしき記憶を引き出していたからだった。
ゲーム開始とともにプレイヤーがランダムに配置される出発点。その場所は安全を確保なはずの場所であり、安全を確保されるべき場所のはずだった。
しかし、このゲームでは違っていた。最初の場所ですらプレイヤーへと牙をむく場所へとなりかねない。
そして、実際にその問題は起きてしまっている。前回は起こらなかった事態だが、それがもたらす結果は拓海が思っていたよりも早くたどり着き、自然と口に出てしまっていた。
「本当の意味でのデスゲームが…始まる」
「………は?」
口にしてからしまったと拓海は思う。幸いにして正樹に意味が伝わっていないのを見て内心ほっとする。
拓海を始めとした一部のプレイヤーたちが考えていた1つの疑問がある。
それはROAは始めからデスゲーム――24時間ログインしているのを前提にしたゲームではないかということだ。
そして、それは悪夢のゲームを終わらせようと最前線で戦い続けたプレイヤーならば誰しもが1度は考えたことがあることでもあった。
特に未攻略のフィールドにおいてはそれが顕著であり、モンスターの出現率、索敵範囲の狭さ、マップの広大さなど原因となって攻略の妨げとなっていた。
ボスキャラクターを倒せばモンスターの出現率も減り、索敵範囲も広がり、馬車などの移動手段も使えるようになり問題という程でもなくなるのだが。
フィールドの攻略に乗り出していたプレイヤー曰く、『ボスキャラクターの討伐よりも野営の方が辛い』と皆が口を揃えていた。
それこそ未攻略のフィールドを攻略しようと思えば、パーティメンバー全員が同時に休むということは出来なかった。
魔王討伐に参加したあるプレイヤーの『これがデスゲームじゃなかったらきっとクリアされることはなかった』という台詞には拓海も深く頷いたものである。
簡単に言ってしまえば未攻略のフィールドとは24時間ぶっ続けの緊張を強いられる場所であり、ROAでの現状はそれと全くといっては語弊があるが、それに近しいものと見て間違いなかった。
状況だけで言うのならば余計に悪い。常にそういった場所での戦いをしている者ならばともかく、6つある最初の都市の1つがフィールドなりえたことは戦うことを選ばなかった者、逃げた物、攻略済みのフィールドにしか足を運ばない者たちを強制的に24時間常に戦いの危険が付きまとう安らぎの場所すらないゲームへと参加させる。
中川の話では近くの町がプレイヤーによって解放されているようだからそこまで行けば問題はなくなるだろうが、戦わずに初期レベルのままのプレイヤーの内どれだけがそこにたどり着けるかは疑問が残る。
「いや、なんでもない。俺の時には起こらなかったことだからな、どうなってるかなんて分からん」
先ほどの言葉を正樹が理解していないのをいい事にはぐらかす様な答えを拓海は吐き出した。
それは当たって欲しくない未来しか考えられない思考から拓海自身が逃れたいが為の答えでもあった。
「………そうか」
答えをくれぬ拓海に対して失望の色濃くうなだれる正樹。
そんな正樹を前に拓海はかける言葉を持っていなかったのは、気休めの言葉が思いつかないわけではなく、仮想世界を現実として味わった者としてその言葉が簡単に吐けるほど軽いものではないと知っていたからだった。
昨日よりも事の成り行きを見守る生徒の数が多い中で、正樹の瞳は不安に揺れ続けていた。