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悪魔・十五号  作者: 小田中 慎
一九四五年三月・東京・渋谷宇田川町
5/6

****

 五時間が過ぎようとしていた。倉庫の前には看守が四名、歩哨の様に巡回して警戒していたが既に中からは物音一つしなかった。

 国広中尉は問題の倉庫に向かい合った別の倉庫の前、歩哨たちが休憩する焚き火の周りに椅子が置いてある場所で火に当たりながら、ぼんやりと倉庫を眺めていた。

 やがて、ライフルを下げた看守四名に続いて、所長と少佐、そして大尉には初見の男と女が並んで歩いて来るのが見え、巡回していた看守たちは、倉庫の四隅に止まって待機の態勢となる。

「やあ、中尉。変わった事は無かったか?」

「ありません。物音一つしません」

「よろしい。では開けて中を見てみよう」

 少佐の様子がまるで、誕生日にプレゼントの大きな包みを貰った子供が開けるのを待ち切れない、と言った風なので、中尉はまたいい知れぬ怒りを感じていた。

「開けてくれ」

 少佐が所長に言うと、

「軍曹」

 所長は傍らの看守長に声を掛け、男は頷くと、ライフルや拳銃を構えた看守たちが後ろを固める前で鎖に付いた錠を解き、鎖を外した。

 一瞬辺りが声もなく張り詰め、さすがの少佐さえ笑みを消す。扉が軋む音を立てて左右にスライドすると、

「うっ!」

 開けた軍曹は思わず声を上げた。靄の様な内部の空気が立ち上ると共に、ひどい臭いが、あの三十人の男たちが発する体臭すら比較にならない、強烈な異臭が漂った。それは、さまざまな排泄物や汗と血の臭い、人によっては『恐怖の臭い』と呼ぶ代物だった。


 少佐はたじろぐ看守たちを尻目に、倉庫の中へ進んだ。一瞬の間を置いて、所長と軍曹が続き、その後ろから中尉は手で鼻を押さえながら二名の看守と共に中へ踏み込んだ。

 後から入った若い看守の一人は、視力が薄暗い内部に慣れ、立ちこめる異臭の原因が解った途端、外へと駆け出し戸口の脇で激しく嘔吐した。

 もう一人の看守は同僚より一分長く保ったが、自分が大量の血液や髄液などの体液、大小便と吐冩物の海に浸かり、元は人間だったとは到底思えない凄惨な遺体の山を前にしている、という認識に耐えられず、その場で昼食を吐き出した。

 こうした光景は、大戦末期に各地で戦った者にとっては麻痺するほど見た筈だったが、戦場とこの倉庫では状況が余りにもかけ離れている。忘れ掛けた過去の悪夢を見るかの思いで国広中尉は我を忘れ、呆然と立ち尽くしていた。

「クソっ、ひでえ」

 所長は思わず乱暴な言葉を吐いたが、そこは正に地獄絵図だった。


 膝立ちでお互いに首を絞め合い、喉笛に絡んだ両手が白く硬直した二名の遺体。両目を指で潰され、頭を固い壁に叩きつけられた状態のままこと切れた遺体。引き千切られた誰かの右腕を銜えたまま宙を睨んでいる遺体。胸を掻き毟った格好で苦悩もあらわに白目を剥く遺体。何人もの人間に踏み付けにされたのか、身体全体が骨折して最早人間に見えないまでに変形したうつ伏せの遺体。不気味な死の展覧会。

 これだけの凄惨な光景だが、いくら壁が厚いとはいえ物音や叫び声は聞こえなかったという。何かが壊れる様な音だけが時折していた、と後に看守たちは語った。

 そんな地獄の中を、少佐は頓着なくどんどん先へと踏み込む。物音一つ、呻き声やのたうつ手足がばたつく音もない。革靴におぞましい液体が跳ね掛かるが、少佐は気に掛ける様子も見せなかった。

やがて少佐は探していたものを一番奥の隅で見つけた。壁は犠牲者の返り血や体液を浴びてどす黒く変色し、床は言葉にするのもおぞましい液体で覆われるその角に、身の丈一間はある巨漢が横たわっていた。更にその向う、床に横座りするちいさな影が見える。彼女は返り血で顔から衣服まで全て真っ赤に染まり、何人もの人間が、断末魔の声も封じられて最後の瞬間、手を掛け引っ張ったために、ぼろぼろに引き裂かれた衣服から、青白い肌が覗いていた。

 彼女は、その小さな膝に横たわる巨漢の頭を抱え、右手は優しくその大きな禿げ上がった頭を撫でていたが、

「Thank you,Tsuyoshi. Please take a rest.」

 そう耳元で囁くと、突然、巨漢がふらりと立ち上がり、その巨体に似合わぬ素早い動作で土下座をする。その顔も血塗られていたが、何の表情も見えなかった――と、急に何かを思い付いたかの様に生気がその顔を過ると、ゆっくりと恍惚の表情となり、そして巨漢は思い切り上半身を反らせると、そのまま激しい勢いで額を……。

「ぐぇ!」

 国広中尉はその場で激しく嘔吐した。一部始終を全くの無表情で眺めていた少佐は、巨漢がぴくぴくとのた打つを止め、完全に動かなくなると、その遺体を跨いで少女『十五号』の前に立つ。『十五号』も無言で立ち上がり、少佐を見上げた。

 すると少佐は自分の防寒コートが汚れるのも構わずに、少女の身体の脇に両手を差し入れて抱き上げ、その顔を自分の顔の高さまで持ち上げる。目線が合うと『十五号』の顔に歳相応の無邪気な笑顔が浮かぶ。

「Major? The instruction was completed. All members were erased by your instruction. There is no damage to me.」

 それを聞いた少佐は、この上もなく優しく穏やかな声で、

「It was agreed. It went well you. And, the obligation is ended. You can take a rest.」

 するとその言葉を待っていたのか『十五号』は頭を後ろに反らし、気を失った。

 少佐は黙ってその身体を抱き締めると暫くそのまま立っていた。やがて少女の身体を横抱きに両手に抱え、ゆっくりと戸口を目指した。先程から声もなく、ただ呆然と突っ立っている所長と軍曹の脇で立ち止まると前を向いたまま、

「すまん、後始末をお願いしたい。上は承知している。跡形もなく頼む。守秘と隠蔽に完璧を期して頂きたい」

 少佐はそこで所長に向き直ると、

「申し訳ないがこれも国務だ、分かってくれ」

 その言葉に、今までにはなかった少佐の感情が滲んでいる事に気付いた所長は、浮かび掛けていた反発を押さえ、静かに、

「了解した」

 とだけ答えた。

「済まない。恩に着る」

 少佐は、そのまま外へと出て、顔が青醒める面々の中、先程所長に呼ばれて付いて来た刑務所の医務官と看護婦に『十五号』を渡す。

 軍医少佐の医務官は我に返り、『十五号』を受け取って倉庫の廂の下に敷かれたムシロに横たえる。彼女の目蓋を捲り、いつも持ち歩いている小型の懐中電灯で目を照らし、脈をとった。やがて少佐に正対すると、

「大丈夫、寝ているだけの様ですな」

「ありがとう。 医務室で寝かせて貰えますか?」

「勿論です。それにしても、えらいことをしてくれましたな。只でさえ忙しく休む間もないと言うのに仕事を増やしてくれた」

 興味と嫌悪がない交ぜとなった医師に、少佐は肩を竦めて見せる。

「申し訳ありませんな。これでも国務なんですよ、先生」

「まあ、仕方がない。で、この子は一体何」

「シィー」

 少佐は指を立てて黙らせる。

「済まないが先生。機密事項でしてね。今日の事は、また、これからもちょくちょくお邪魔するでしょうが、一切他言無用、夢に見てもいけません。さもないと……」

 少佐は思わせ振りに言葉を切る。ごくりと唾を飲み込むのをはっきりと見せた医務官は、

「勿論、守秘義務は承知している。では運んで良いかな?」

「お願いします」

 医務官は駆け付けた応援の看守に『十五号』を渡し、看守は恐る恐る、その血塗られた少女を抱えて医務室への道を辿って行った。

 少佐は彼らの後姿を見送ると、懐から朝日とオイルライターを取り出し、火を点ける。そして大きく吸い込むと、溜息の様にハアッ、と吐き出し、白い息と煙とが一緒くたに混ざり合った白い気体が立ち昇って行くのを眺める。すると空から白いものが落ちて来た。それはたちまち空を覆い、未だ衝撃の醒めやらぬ地上の人々に降り注いだ。


 降り出した雪を眺める少佐は、再び煙草を深々と吸い込む。

 ふと隣を見ると、そこに国広中尉が立っていた。顔は蒼褪めていたが、目が問う様に少佐を射竦めている。少佐は無言で朝日の箱から一本振り出して差し出す。少佐は中尉が煙草を吸うところを見たことはなかったが、それは自然と出た行為だった。中尉は目礼すると受け取って銜え、少佐が差し出すオイルライターの炎にその先端を翳した。煙草を挟むその指が震えているが本人は気付いていないだろう。それに気付いた少佐自身、勝手に指先が震え出すのを意思の力を総動員して抑えていた。

 二人はゆっくりと煙草を吹かし、時を忘れたかの様に並んで灰色の空を眺めていた。



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