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所長が帰って来たのは丁度一時間後、ドアを開けた彼は暫く無言で、腕を組んだまま少佐を見降ろした。少佐は笑みを浮かべたまま立ち上がると、
「さて、行こうか」
と声を掛け、コートを手に廊下へ出る。黙ったまま二人が続いて廊下へ出ると、所長も押し黙ったまま、廊下を奥へと先導した。
やがて所長は廊下の突き当たり、屋根の付いた渡り廊下が別棟に繋がる前扉で立ち止まり、
「外へ出る。上着を着ろ」
と言いながら、自身も皮革のコートと制帽を被った。するとそれを合図にしたかの様に看守が四人、渡り廊下をこちらへとやって来る。彼らは扉を開けると一斉に敬礼し、所長は答礼しながら、
「軍曹、先導しろ」
と声を掛けると、看守は二列になって歩調を合わせ、歩き出した。
それまでしかめ面だった所長の表情が、微かに弛むのを少佐は見て取ると、独り言の様に、
「憲兵の好いところは、最早戦場ではお目に掛かることがない格式だな」
と呟く。
「大陸から帰って綱紀を護る組織に入った貴様と、中央へ戻ってこんな格好で飯を喰っている俺。どっちもどっちだとは思わんか?」
すると所長は、外気と室内との寒暖差に体を震わせながら、
「一緒にしないでくれ。貴様とは昔からそりが合っていた訳ではないぞ」
少佐はそれを聞くと、
「すまんな。出来るだけ二度と会わない様にするよ」
と本当に済まなそうに謝った。だが、少佐はその後も何度か所長と顔を突き合わす事となる。
「ここだ」
「ほー。これは中々宜しい」
少佐が感心して言うと所長の方は身振りで看守に命じ、その一見、倉庫と思しき独立した平屋のドアを開けさせる。観音開きの鉄製ドアの把手には、巻き付けた鎖に大きな南京錠が下がっていた。二名の看守が解錠する中、もう二名が拳銃を構え万一に備える。そのきびきびとした動きに少佐は感嘆し呟く。
「ほう、彼らはなかなか優秀そうだね」
しかし少佐の軽口に応える者はいない。鍵が開き、鎖を持って看守が離れると、薄暗い内部が見え、同時に男たちのむっとする体臭と、人息れに因って水蒸気となった内部の空気が立ち上る。所長は少佐に問い掛けるかの様に肩を竦めて見せた。そんな所長に少佐は、
「中に入っていいか?」
と聞く。
「構わんが用心しろよ。三十名丁度、全員男性、四十歳以下、健康だ、貴様の望み通りに、な。その中には五人以上殺した奴も複数いる。俺は貴様に何があっても構わないが、とは言っても貴様たちが中で人質にでもなったら俺の首も危ないからな。そんなドジだけは願い下げだぞ」
少佐は平然と朝日に火を点けると、
「そんなドジはしない、と約束しよう。それと、ちょっといいか?」
少佐は所長を手招きし、倉庫向いの建物の角まで誘う。開けた囚人で満杯の建物を油断なく見守る四人の看守と、相変わらず無表情の少女、無表情を装うものの様々な理由で不快感を隠し切れない国広中尉が視界から消えると、少佐は、所長が絶句する様な話を始めた。
三分後、銜え煙草の少佐は顔色の優れない所長を後に従え、戻って来ると国広中尉に、
「十分待て。寒かったら事務棟の中で待っていてもいいぞ」
中尉は少女をちらりと見やると、
「ここで待ちます」
少佐は眉を上げると、
「そうか」
煙草を水溜りに投げ捨て、そのままアヘン窟も顔負けの倉庫の中へと入って行く。看守が二人付いて行こうとすると、少佐は手を上げて制し、後から所長が、
「構わん、好きにさせろ」
と看守を止めた。少佐は看守に扉を閉じる様に合図する。看守たちは顔を見合わせ躊躇したが、
「いいから閉めてしまえ!」
と、所長が吠えると、慌てて重い扉を閉じた。
内に一歩入った少佐は、目が慣れるまで身動きしなかった。その建物は見掛けの通り倉庫で、今は使われていないのか荷物の類は見えなかった。
薄暗がりに目が慣れるに従って、荒く塗りたくったコンクリート張りの床と分厚い樫材の壁が見えてくる。天井は太い梁組みが剥き出しとなって、屋根のトタン張りが見えている。その屋根の部分も、雪の重みを考慮したのだろう、後から筋介を増やし補強材を加えたのが見て取れた。
倉庫の広さは幅十五メートル奥行二十メートルほどで、壁と屋根が接する部分に明かり取りの高窓が並んでいる。たとえ晴れていても決して明るいとは言えないだろう。ましてや曇り空の冬日、春まだ遠い三月中旬だった。
少佐はその空間に人の気配を感じていた。一番近いもので三メートル先、入り口を中心に半円状に取り巻いている。
「なんだ、お前は?」
それは平板な声だった。が、だからこそ、少佐はその場の空気も及ばない、殺気に似た底知れぬ冷気を感じた。感情が喪失した人非人に囲まれる恐怖。しかし少佐も唯の人ではなかった。彼の方も、全く感情を伺わせないポーカーフェイスで、雑多な防寒着で着膨れした人影たちを超然と眺めていた。
「おい、お前何様だ?」
先程の男が再び尋ねる。少佐はフッと笑うと、
「ひとつお前たちに提案がある」
と言い放つ。その言葉が全く無視された事にも少佐は頓着なく、
「お前らが釈放される条件について話し合いたい」
十五分が過ぎ、二十分が過ぎても少佐は出て来なかった。所長はちらりと腕時計に目をやり、中尉は倉庫に聞き耳を立てたが、元来厚い壁に覆われた倉庫からは物音一つ聞こえなかった。やがて三十分となり中尉が本気で心配し始めた時、扉が軋んだ音を立てて内から開く。少佐は倉庫から出て来るなり、少女を手招く。
少女は少佐の傍らに寄り、問い掛ける様に見上げた。すると看守や所長が驚いたことに、
「Get into the warehouse.」
少女は一瞬、狐に摘まれた様にきょとんとした。しかしそれは英語を使われたからではなく、指示されたことが想定外だったことに皆が気付く。少女の戸惑いは一瞬で、黙って倉庫に入ってから振り向いた。入れ替わりに外に出た少佐は、
「Five hours now are given to you. There is no change in the instruction at all. And, please do your best.」
「しかし工作は表からと言う話ではなかったので――」
思わず中尉が前に進むが、少佐は今までの態度を豹変させ、驚くほどの怒気を込めて、
「国広中尉!」
と一喝、中尉は弾かれたように気を付けをし、押し黙る。少佐は倉庫の中に向って陸軍士官の威厳溢れる命令口調で、
「では諸君!先程約束した通りだ。遠慮は一切要らん。始めろ!」
言うが早いか少佐は扉を思い切り閉めた。国広中尉は重い扉が閉まる瞬間、微かに驚きの表情を浮かべこちらを見る少女と、何か動物の唸り声に似た怒声を上げる男たちの声を聞いた。扉を閉め切ると少佐は、
「鍵を掛けろ!」
その有無を言わせぬ雰囲気に、看守たちは鎖を把手に回した。
「貴様。あんな小さな子を……」
所長が低い声で言う。国広中尉は未だ信じられない、といった風に立ち尽くす。
「一体彼女は何をしたんだ?何のためにこんなひどい事をするんだ、可哀相に」
所長は非難するが、それまでの厳しい表情を崩した少佐は皮肉混じりに笑い、
「ああ、確かに俺はかなりひどい人間だ。その通り、全く可哀相だな、あの囚人たちは」
「そんな、いくらヒトゴ号でもあの人数では無理です!」
国広中尉は少佐に詰め寄ったが、
「おいおい、中尉。軍機という言葉を忘れてしまったのか?いいから口を閉じていろ」
そして所長に、
「さて、確かどこかに俺たちが待っていられる場所を用意してくれたのだったよな?案内して貰おうか」
その時、厚い壁越しに何かが壊れる音がして、一同が不安げに倉庫を見やる中、少佐は朝日を取り出すと、淀みない動作で火を点け、満足そうに煙を吐き出した。