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悪魔・十五号  作者: 小田中 慎
一九九四年十一月・中部地方某所
1/6

*

 

 おやまあ、こんなじいさんを訪ねて山奥までいらっしゃるとは、随分と奇特な方だ。

 え?あの化けもんみたいな車で麓から二時間掛かったって?やれやれ……。

 で、用件は?何?『ヒトゴゴウ』を知っているか、だって?

 はあ、それで私が知らんと答えたらまた二時間掛けて山を下るのかな?

 え?話してくれるまで帰らないって?そいつは困ったね。

 まあ、何だ、茶でも飲まんかね。この辺で出来る茶は美味いぞ。近所の農家が分けてくれてね。

 それともコーヒーの方がいいかね?インスタントではないぞ、ちゃんと深煎りにローストしたマンデリンを挽いとる。

 随分と昔になるが、南の方へ行っていたことがあってな。その時に一度だけお偉いさんのところで飲ませて頂いた。

 美味かったな、何もない時代でね、誰も彼もが飯を喰うのに難渋しとったから、あれは本当に美味かった。

 それ以来、私はこいつをもう一度飲むために生きて来たようなもんだよ。

 え?もう飲んでいるじゃないか、って?いいや。あの時の味には出会えていない。

 あの後、何度かあちらにお邪魔する機会もあったが、あの味は、ね……そうか、ではコーヒーにしよう。私も飲みたかったところだ。

 私のコーヒーは本格的だぞ、ほれ、このサイフォンで淹れる。見ていなさい。そこらの喫茶店のマスターには負けんよ。

 研究室ではこいつでコーヒーを淹れながらいろいろと考えたもんだ。

 え?著書が一杯ある?なあに、全部受け売りだよ。ちょっとばかり引用の才があったのか何冊か学生の参考書となってな、こんなところで悠々自適に送れる資源にはなった。

 今も売れている?まあ、忘れた頃に印税とか何かが振込まれているみたいだから……便利な世の中になったな、こんな老いぼれにも郵便が毎日来てね、配達の加藤君が振込みやら支払いやらを面倒見てくれる。こんな何もない場所でも金のやり取りに不自由せんし、宅配の運ちゃんには申し訳ないが何でも届く。

 ああ、出来た出来た。さあ、熱いうちに……。

 で、何の話だったかな?そうだそうだ、『ヒトゴゴウ』ね。まあ、もう誰にも迷惑が掛かる話でもないな、こんな老いぼれの話では信用もされないだろうし……。

 ただ、若いの、気を付けなさい。私もいろいろおかしなことを見て来たが、こんなことで人の命がやり取りされることもある。クニが絡むとややこしいからね。

 だから私が話したことも君が聞いたことも全てぼかしておくんだよ。何か書くつもりだろう?止めておいた方がいいがね。迷惑が掛からない、と言ったが、未だに拘っている個人なり機関なりがあるやも知れん。充分に気を付けるんだよ。

 え?用心はしているし危ない目にもあった、って?穏かじゃないね。

 まあ、分かっているなら、私が経験したことを一つだけ話してあげよう。

 いいかね、ひとつだけ、取って置きの話を。



 ――夜明けが訪れると再びサイレンが鳴り響いた。しかしこんな時間にやつらは来ない。来るのは高空の出歯亀だ。見えるのは一面黒と灰の世界ばかりだろう。人工物も自然も、全てがモノトーンのベールに包まれているはずだ。爆撃効果確認のために高空を航過する米軍の偵察機。写真撮影を開始した偵察士が眺める俯瞰風景。最早目標となるものがほとんど存在しない柔らかな線の連なり。あいつらはどんな思いで眺めているのだろうか。偵察機は厚木や調布から発進した三式戦が追い付く前に太平洋へと去って行く。

 地上の世界は頑なで、無情だ。沈滞する刺激臭。決して澄むことのない空気。酷い時はマスクやマフラー、タオルなどで鼻と口を覆わない限り、喉はいがらっぽく、真っ黒な鼻水と灰色の痰が出た。何百何千という数の250キロ爆弾やエレクトロン焼夷弾が街を、地表を焼き尽くし、その灰が大気を満たしている。灰は空に舞い、雨に混じり、雪に忍ぶ。

 降り積もり硬化した灰で街は黒く沈んで見えた。沈んだ黒灰の連なりが、空一面の灰色にグラデーションとして溶け込んで見える。灰色の中で殊更黒い焼け跡。黒い塊で残る遺体。正に地獄。

 その灰色の世界の夜が明けた。気温は夜明けを過ぎて上昇し、焼け出され寒さに耐えた人々が動き始める。夜を越えることが出来なかった者を葬り、空襲警報に怯えながらも瓦礫を片付ける一日がまた始まる。

 何の変哲もない一日の始まり。だが、私にとっては記憶に刻まれた一日となった――



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