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後編

 僕らは毎週デートをした。

 土曜日はエマに家庭教師のバイトが入っているため、会うのは決まって日曜日だった。

 付き合い始めてしばらくは僕らを奇異の目、あるいは畏怖いふの目で見ていた周囲も、いつの間にか慣れたようだ。校内で僕らが手をつないで歩いても今さら立ちすくむことも、二度見することもない。


 ただ、僕は男子から一目いちもく置かれるようになった。いや、一目どころか、相当、畏怖されているようだ。

 友人たちはどこかよそよそしい。

 その代わりにエマの取り巻き……いや、友人たちとは仲良くなった。


「マジでエマを泣かせたら許さねえから」とエマがトイレに行った時に、凄んできたのは、金髪巻き毛の日藤日向ひとうひなただ。


 かつて半グレにひどい目に合わされたのは彼女らしい。エマのためならなんでもする、と豪語する通り、その目は本気だった。

 もうひとりの友人、セミロングの茶髪に白メッシュの赤堀京子あかほりきょうこの方は迫力のある笑顔を向けてくる。


「山に埋めるね。間違いなく」


 こちらは昔ひどいイジメに合っていたところをエマに救われたということだ。

 エマを泣かせたら、彼女たちはきっと言葉通り、僕に復讐をするだろう。


 昼食はエマおよび、彼女の友人2人に囲まれて食べることが定番となり、僕と富樫たちとの距離はますます広がった。

 特に支障がないのは、もともとそれほど濃い関係性ではなかったということだろう。


 エマとは夜にレインや通話をするようになった。

 他愛のない話ばかりだったけれど楽しかった。話していると、早く明日にならないか、とそればかり思った。


 そうして、1ヵ月が経過。

 僕らの関係性はある意味では安定していた。キス以上のことはしておらず、そのキスでさえ、エマが最初に顔をぶつけてきたアレ以来していない。

 僕は性欲というものがあまり強くないので、まったく不満はなかった。


 むしろ、エマが先を求めているような雰囲気をかもしだしていた。デートの別れ際など、じっと僕を見つめたことがあった。

 家に帰った後に、僕はそれが男と女の接触的なものを求めていたことに気が付いたが、あとの祭りである。


 梅雨。

 毎日、毎日、雨が降り続く。

 週末も大雨ということで外にでかけるのはやめよということになった。


「リョーマの家に行ってみたいな」


 エマがそう言うので我が家へ招待することになった。

 家族にはあらかじめ、日曜日に彼女を招待するむねを告げておく。


「彼女? お前、いつのまに」と驚く父。「なに? 可愛いの? どんな子? どんな子」


「リョーマに彼女ができるなんてねえ。絶対、生涯独身だって思ったのに」

 母がしみじみという。


「いえ、別に結婚を前提とした付き合いではないのですが」

 今のところは、であるけれど。


「ねえ、どんな子? 写真ないの? 写真」

 父がしつこく詰め寄ってくる。


「残念ながら、ありませんね」

 言いながらも、恋人の写真の1つくらいは持っていなくていけないな、と反省した。


 エマも僕も写真を撮る習慣がない。

 SNSなどもレイン以外やっていないし、そのレインだとて、親しい間柄での連絡ツールとしてしか活用していない。


「日曜日に分かりますよ」


「父さん、仕事なんだよ。写真撮っといてよ、頼むから」

 大いに嘆いて父が言った。


「ホント、どんな子かしら。リョーマのことだから、真面目な大人しい子かしらね」


 母の言葉に僕は少しだけ不安を覚えた。

 エマがいい子なのは間違いない。噂のような粗暴さはないし、明るく、素直だ。

 ただ、真面目かというと、そうもいえない。僕と付き合うようになってから遅刻することはなくなったけれど、相変わらず授業中は寝ているか、スマホをいじっている。


「だって、つまんないんだもん」

 それがエマの言い草だ。


「テストで困りますよ」


「その時に考えるからいいの」


 授業を聞いてない以外は特に素行に問題はない。時々、街で不良に絡まれるけれど、エマは手を出したことがない。

 1回だけ、しつこく絡んできた不良の鼻先にパンチを寸止めしたくらいだ。

 あまりの早業はやわざに、僕にはなにが起こったのか分からなかった。

 その不良は尻餅をついて震えていた。


 彼を置いて僕らは退散したけれど、エマは目に見えて元気がなかった。僕が話しかけても、生返事ばかりだった。


 別れ際、エマは寂しそうな顔で言った。

「ごめんね、リョーマ」


 エマの周囲で起こったバイオレンスな事件といえば、それくらいだ。想像していたような毎日のように殴り合い、喧嘩しているということは、まるでなかった。


 そして日曜日。

 天気予報は当たり、朝から大雨が降っていた。約束通り最寄り駅までエマを迎えに行った。

 約束は午後1時だったのに15分前にエマは来ていた。彼女はいつも僕よりも待ち合わせに早く来ている。


 黒いシャツに黒いスカート。その上に白いジャケットを羽織る。頭には黒いベレー帽をのせていて、それがとても似合っていた。

 畳んだ傘を両手で持って、背筋を伸ばして立つエマはとても綺麗で、通行人の視線がことごとく彼女に吸い込まれる。

 僕はエマの彼氏であることを誇らしく思った。


 いつもはすぐに僕に気が付いて、笑顔を向けるエマだったが、結局、僕が声をかけるまで気が付かなかった。

 どこかぼんやりとしているように見える。


「おはようございます」


「おはよ」

 エマが挨拶を返す。やはり、表情が固い。

 緊張しているらしい。


「緊張しています?」


「うん。昨日はあんまり眠れなかった」


「大丈夫ですよ」


「あたし、変じゃない?」

 自分の体を見下ろして言う。


「いえ、ちっとも。今日も綺麗ですよ」


「リョーマはあたしに甘いから」

 やっと笑顔が現れた。


「本当によく降っていますね。濡れないようにしないと」


 2人で傘をさして家路を歩く。

 やはりエマは緊張しており、口数が少ない。こればかりは仕方がないかもしれない。僕も逆の立場だったら絶対に緊張するだろう。


 10分ほど歩き、住宅街の僕の家に到着。あまりにも雨足が強くて、僕もエマも少し濡れた。

 玄関のひさしで傘を畳み、いざ、ドアを開けようとする僕の腕を、エマがつかんで止めた。


 エマが目を閉じて深呼吸する。

 相当、緊張しているらしい。


「大丈夫ですよ」

 僕はもう一度、自信をもって言った。


 よし、とエマが気合を入れて、パンと頬を叩いた。


 ドアを開ける。

 ただいま戻りました、と僕が声をあげると、リビングのドアが開いて、母が出てきた。

 その顔がエマを見て一瞬、強張こわばった。彼女の鮮やかな金髪を見て驚いたのかもしれない。


「こちら、僕がお付き合いしている仁熊恵麻にくまえまさんです」

 僕は気にせず、そう紹介する。


 エマは実に礼儀正しく母に挨拶をした。

 祖父母に仕込まれているだけあり、その気になると彼女はしっかりとした態度をとれる。必要ないと言ったのに持参したお茶菓子を母に渡す。


「どうぞ、上がって。濡れたでしょう? タオルいる」

 母は最初にエマを見たときの驚きなど一切感じさせないいつも通りの態度で言って、リビングにエマを導こうとする。


「いや、僕の部屋に行きますよ」

 僕はそれを阻止した。緊張しているエマを早く安心させたかった。


「そう? せっかくだからお茶でも飲もうと思ったのに」


「お気遣い、ありがとうございます。いただきます」

 エマが言ったので、そのままリビングで母と3人でお茶を飲むことになった。


 さっそくエマがお土産に持ってきたロールケーキを母が切り分ける。有名な洋菓子店のものらしく母は大喜びだった。


 3人でリビングダイニングキッチンのテーブルについて紅茶を飲む。ロールケーキは確かに美味しかった。生地がふんわりとしていて、クリームも軽やか。いくらでも食べられそうだった。


 母はエマがあんまり美人だったものだから驚いた、と言い、彼女を照れさせた。そこから次々と質問する。どこに住んでいる? とか、ご両親はなにをされているの? とか。

 

 そんなありがちな質問に交ぜて、こんなことも聞いた。

「その髪、すごい綺麗ね。どこでやってもらったの?」


 それまで同様、母は微笑んでいたが、目だけは真剣なものになっていた。

 やはり、母はエマの金髪が気に入らないらしい。今時、珍しくもないと思うのだけれど。ましてや、エマの髪は生まれつきのものだ。


「エマさんはハーフなんですよ。父親がアメリカ人で。だから、髪も自前のものですよ」

 僕はすかさず言った。

「6歳まではアメリカに住んでいたので、英語も話せますよ」


 それに母が驚いた。それからおもむろに英語でエマに話しかける。母は若い時分に海外留学をしていたことがあり、英語は堪能なのだ。

 エマが母に流暢りゅうちょうな英語で答える。


 僕は聞き取るのがやっとで会話に入っていくどころではなかった。ところどころ、理解できない単語もある。


「すごいわね」

 母はすっかり満足した様子だった。

 どうやら最初にエマへ抱いた悪感情は完全に払拭ふっしょくできたようだ。

「いつまでも邪魔しちゃ悪いわね。リョーマ、エマさんを部屋へ案内なさい。くれぐれも、変なことしないようにね」

 母はそう言って立ち上がった。

 トレイを持ってきて、食器やティーカップを下げていく。


 エマが肩の力を抜いたのを感じた。

 彼女にしてみれば面接のように感じたのだろう。僕も彼女の祖父母に挨拶するときは、さぞ緊張すると思う。

 

「そういえば前に仁熊さんを見かけたことがあったのよ。繁華街で、なんだかちょっとガラの悪い人たちと楽しそうに話してたのよね」

 母が何気なくそんなことを言った瞬間、緩んでいたエマの表情が凍り付いた。

「ほら、仁熊さんって、すごく綺麗だし、目立つじゃない。見間違いってことはないと思うのよね」

 母の目は笑っていない。


 そういうことか、と僕は今さらながら、母が最初にエマを見た時の顔を思い出した。母は人の顔を覚えるのが非常に得意だ。1回見た相手は覚えてしまうらしい。映像記憶能力が高いのだ。


「私で間違いないと思います」

 エマが言った。顔が青ざめている。

「恐らく友人たちと話していたのでしょう」


「エマさんは交友関係が広いんですよ」


「そうなの? 大丈夫? リョーマって、あまりアクティブな方じゃないじゃない。そういう人たちに囲まれたら、居心地悪いんじゃない?」


「僕がお付き合いしているのはエマさんであって、彼女の友人ではありませんよ」


「まあ、そうでしょうけどねえ」


「エマさんは真面目な人です。僕が保証します」

 言うと、僕は、まだ固まっているエマの手をとってリビングを後にした。


 僕の部屋に入るとエマは立ったまま両手で顔をおおった。

 泣いてるのか、と思い、なにか慰めの言葉をかけようとしたのだが、エマは手の平を顔からどけた。

 泣いてはいなかった。ただ血の気を失った顔には表情がない。


「大丈夫ですか?」


「あんまり大丈夫じゃないけど。仕方ないよね」

 わずかに微笑む。


 僕はエマに母の無礼を謝った。

 それから気にすることはない、と慰める。

「僕がしっかりと言いきかせておきますよ。エマさんはしっかりと自分を持った素敵な人です。恋人の僕が言うんだから間違いありません」


「ありがと。でも、お母さんの気持ちも分かるから。身から出たさびってやつだよね」

 エマは言って、ため息をついた。


 その後、気分転換にと本棚に収まった蔵書の話をした。お勧めの本のPRをする。

 すぐにエマも気分を変えて、2人で楽しく午後のひと時を過ごした。


 実は、この日、僕はキスをしようかと考えていた。もし、エマがそういう雰囲気を出したのならば、すかさず恋人としての役目を果たそうと決めていた。

 けれど、エマはついぞそんな雰囲気をかもしだすことはなかった。

 やはり、母とのやり取りが効いたのかもしれない。


 エマは3時過ぎに帰った。もう少しゆっくりしていくかと思ったので、僕は物足りない気持ちだった。駅まで送るつもりだったが、エマはそれをかたくなに断った。


「雨が強いからいいよ」


 エマは最後に母にしっかりとした挨拶をした。母は駅まで車で送ろうかと申し出たが、やはりエマは断った。


「ありがとうございます。けれど、それほどの距離ではありませんから」


 雨はエマを迎えに行った時よりもさらに激しくなっていた。僕が再三、送って行こうと言うと、エマは首を振って、言葉の代わりに僕の手をとった。母に見せつけるように。

 エマはすぐに手を離し、出ていった。


 エマが帰った後、僕は母にエマのことをたくさん話した。僕が知っているエマのことを、永延と話し続けた。ときどき、僕の言葉は強くなり、母をひるませたようだった。

 途中で、父が帰宅し、実に能天気な態度でエマのこと聞いてきた。


「なんだよ、写真撮ってないの? 楽しみにしてたのにさあ」


 少し険悪になっていた僕と母は、それによって新たな怒りの矛先を見出した。

 僕と母、2人から理不尽に責められ、父は少し泣きそうな顔になっていた。

 ただ、母が父を自身の援軍にしようと、エマを街で目撃した時のことを話した時、父は頭を軽く振って言った。


「別にいいんじゃないか。しっかりした子だったんだろ? リョーマが脅されてるとか、そういうんじゃないなら、俺たちが口だすことじゃない」


「でも、その子たち、すごい髪型だったのよ。服もすごくて。暴走族よ。暴走族」


「合わなけりゃあ、別れるよ。リョーマが誰かに染められると思うか? もっと信じてやれよ」


 いつもは軽薄で自堕落な父だけれど、こういうところは尊敬できる。

 母もそれ以上は言わなかった。説得はできなかったけれど、様子を見てくれることにしたのだろう。




 

 翌日、朝。

 僕とエマは毎朝一緒に登校している。エマが僕の乗る車両に乗り込んでくることになっている。朝から雨が降っているため、誰もが傘を持っていた。僕も傘を手にドアのそばに立っていた。


 エマの最寄り駅。僕は電車が止まる前に、ホームに待っている人たちの中にエマの姿がないことを見て取り、残念に思った。

 時間が合わないようなときもあるのだ。寝坊したのかもしれない。


 だから同じ制服の背の高い女子が声をかけてきたとき、僕は大いに驚いた。そこで始めてエマに気づいたのだ。

 恋人として不甲斐ない限りだけれど、僕にも言い分はある。

 エマは黒髪になっていた。あの鮮やかな美しい金髪が様変わりしていた。


 それだけではない。着崩していた制服をきちんと着こなしている。


「やっぱり変?」

 エマが自分の黒髪をいじりつつ言った。


「そんなことありませんけど。驚きました」

 エマの存在を見落としてしまったくらいだ。本当に分からなかった。


 あらためて見ると黒髪はエマに良く似合っていた。違和感が全くない。制服を着崩さずに着ていることもあいまって、優等生然として見える。


「本当に似合っていますよ。ひょっとして、昨日のことが原因ですか?」

 ひょっとしてもなにも、そうとしか思えない。エマなりに思うところがあったのだろう。


「まあね。ちゃんと真面目になってリョーマのお母さんに認めてもらわないといけないから」


 僕はなにも言えなかった。ただエマが僕のために変わる努力をするのならば、僕もエマに相応ふさわしい男にならないと、と強く思った。


「みんな驚きますよ」


「かもね。でも、リョーマが似合ってるって思ってくれるなら、どうでもいい」

 エマが僕の手を握る。

 僕は優しくその手を握り返した。


 予想通りといおうか僕らが登校すると、視線が磁石のようにエマに集まった。ほとんどの生徒は最初、エマだと気づかずやり過ごし、直後に目を見開いて凝視する。

 かと思えば、まったく気づかない者も多かった。


 教室に入った時も最初は誰も僕らに気づかなかった。すぐにどよめきが起こり、視線がエマに釘付けになる。

 ただ、何があったのか、と直接、彼女に問うてくる猛者はいなかった。


 友人の富樫と田中がなんとしても僕から情報得たいという様子で、近付きたそうにしていた。

 だが、彼らが来る前にエマの友人、赤堀が教室に入ってきた。

 エマを見て、大きく目を見開き、立ち尽くす。それから駆け寄ってきた。


「エマ、どうしたの? それ」


「うん。染めた」

 エマは言葉少なに答えた。

「変かな?」


「えっ、いや、すごく可愛いけどさ。なんか、別人みたいじゃん」


「真面目になろうと思ってさ。リョーマに似合う女にならないとね」


 それに赤堀が複雑そうな顔になった。強烈な個性を放っていたエマが僕と付き合うことで、僕色に染められていると思ったのかもしれない。

 そこに同じくエマの友人、日藤も教室に入ってきた。赤堀同じように驚いて立ち尽くしてから寄ってきた。


 やはり、エマにどうしたのか、と問いただした。エマは同じような答えを返したが、日藤の反応は赤堀とは違った。顔いっぱいに怒りをあらわわにして、僕を睨んだ。


「あんた、エマの髪に文句つけたわけ?」


「違うよ。リョーマも見て驚いたんだから。そんな興奮しないでよ。たかが髪じゃん」


「だって、エマ、自分の髪の毛、すごい気に入ってるじゃんか」


「まあ、そうだけど。今はリョーマの方が大切だから」


 すると日藤が今にも噛みつきそうな顔で僕を見た。実際、エマがこの場にいなかったら襲い掛かってきたかもしれない。

 教室は静まり返り、僕らのやりとりを興味津々と見守っている。


「とにかく、あたしは真面目になるんだから。普通の、女子高生にね」

 エマが言って日藤をなだめるように微笑みかけた。


 その言葉通り、エマは本当に真面目になった。

 授業中スマホをいじることも寝ることもなくなり、一生懸命にノートをとっている。しかし、今までサボタージュしていたせいで、ほとんど理解できないらしい。休憩時間になると僕の机に来て教えをうてきた。


 僕はエマの熱意を嬉しく思った。実は彼女の学力を心配していた。エマは地頭が良いので留年せずに2学年に上がれたけれど、次は落第する可能性もある。


 なんとか彼女に最低限の勉強はしてもらわないと、と常々思っていたのだ。

 だから、エマのこの変化は大歓迎だった。


「リョーマの教え方、分かりやすくていいね。あたしより家庭教師向てるんじゃない?」


「そうですか? でも僕じゃあ、小さい子がなつかないと思いますよ」


「そんなことないってば。あたしがこんなに懐いてるじゃん」


「エマさんは小さい子どころか素敵なレディじゃないですか」


「リョーマ、好き」


「僕もエマさんが好きです」


 咳払いが起こった。僕らの様子を近くで見守っていたエマの友人2人が呆れた顔をしている。


「あんたらいい加減にしろ」

 赤堀が言った。





 エマを更生させた立役者として僕は教師たちから過剰に評価されたようだ。

 担任の斎藤先生を始め、多くの教師によくやったと声をかけらた。

 中でも生徒指導の滝中先生は大喜びだった。


「恵麻……仁熊のことにはずいぶん心を砕いていたんだ。あまりこういうことは良くないのだが、彼女の祖父に私は大きな恩がってね。仁熊のことも、小さい頃から知っている。性質の良い子だが、中学ごろからどうも道に迷った様子で心配していたんだが」

 そんなことをこっそり言われた。


 ちょうど社会科準備室に授業で使った資料を片付けにきたところだった。歴史を教えている滝中先生だけが中にいたのだ。


「仁熊さんのお爺様はどんな方なんですか? エマから武道家だと聞いてはいますが、まだ会ったことがないもので」


 滝中先生が待ってました、と言わんばかりに目を輝かせて話し始める。若かりし頃の自分がエマの祖父と出会い、どれほど救われたか。彼を目標にして自己を鍛えた日々。


「とにかく、大きな人だよ。どんな人間でも受け止めるふところの広い人だ。男とはかくあるべしという理想のような人だよ」

 滝中先生は本当にエマの祖父に心酔しているようだ。

 抽象的すぎて僕には今ひとつエマの祖父の人物像がイメージできなかったけれど。


 今度は僕がエマの祖父母に挨拶に行く番だ。エマが変わってくれたように、僕も変わらないといけない。

 エマに相応しくなるように。


 髪の色が黒くなって、制服を着崩さなくなっても、エマはやはり畏怖の対象のままだった。

 ただ、以前に比べて周囲の緊張感のようなものが薄らいだように感じた。ひょっとしたらそれは僕の気のせいかもしれないけれど。


 一度、勉強に向いたエマは貪欲どんよくに知識を吸収し始めた。僕らは放課後、教室や図書館で勉強するようになった。

 エマは次々と質問してくる。それらについてきちんと教えていると授業の合間の休憩時間ではどうしても足りないのだ。

 一生懸命にノートに向かうエマは本当に綺麗で、僕は自分の勉強を進める合間に、彼女を眺めては見惚れた。


「なに?」

 エマが僕が見ていることに気づいて顔を上げる。


「エマさんに見惚れていたんです」


 するとエマの顔が赤く染まった。照れ臭そうに下を向く。そんな分かりやすいところもとても魅力的だ。


「リョーマは恥ずかしいことを平然と言う」


「それはエマさんも同じですよ」


 エマに素直な褒め言葉をぶつけられて、何度、赤面したことだろうか。

 エマがペンを止めて、ふう、と息を吐く。それから僕を見た。なにかを求めるように。

 僕はその視線に引き寄せられるように、顔を近付けて、彼女の唇に唇をそっとつけた。

 放課後の教室。僕ら以外には誰もなかった。





 日藤日向ひとうひなたから話がある、と言われた。ちょうどエマと赤堀がトイレで席をたっている時のことだ。


「土曜日、時間作ってくれない?」

 日藤はいつも僕に話しかけるときに目を合わせない。彼女のエマに対する憧れは強く、僕の存在が不快なのだろう。


「土曜日ですか? 別に構いませんよ」


 どうせエマのことで文句を言われることになるのだろう。ただ、日藤はエマにとって大切な学友である。無碍むげにはできない。


「じゃあ、詳しいことはレインすっから」


 以前、エマの2人の友人とは半ば無理やり、レイン交換をさせられている。エマは僕と行動をともにすることが多くなったので、エマに連絡がつかない時は僕に連絡をしてくるのだ。


 もともと、土曜日には特に予定がなかった。日曜日はエマと出かけるため(ようやく梅雨も明けたので、ついにツーリング)、家でゆっくりと過ごそうと考えていたくらいだ。


 日藤はそれ以後、特になにも言ってこなかったし、僕と約束を取り付けたことなどおくびにも出さなかった。

 僕もエマにそれを告げることはなかった。

 後からレインでエマには内緒にして、と釘を刺されたためだ。


 日藤から詳細の連絡が来たのは木曜日の夜だった。学校の最寄り駅のひとつ先の駅。僕は一度も下りたことがない。なぜ、そんなところで待ち合わせるのだろう、とは思ったが、不審というほどではない。きっと日藤の家から近いのだろう。


 駅前に午後4時。これまた妙な時間だけれど、日藤がアルバイトでもしているせいかもしれない。

 この時、僕は日藤からの呼び出しについて深く考えなかった。後から思えば、もう少し警戒するべきだったのだ。

 日藤日向ひとうひなたがエマをどれだけしたっていたか。どれだけ彼女に心酔していたか。それを考えるべきだった。


 そして土曜日。

 午前中、僕はエマから勧められた歴史小説を読んで過ごした。昼食をとり、ゆっくりと出かけるための支度を整える。

 あまり気が進まないために、どうしても行動が遅くなる。1時間もかけて支度を終えた後、小説の続きを読み、それをバックに入れて家を出た。


 出かける間際にエマからレインが入った。来週の日曜日に彼女の家を訪問する許可が取れたという連絡。



――――――――――――

じいちゃんがすごくはしゃいでるよ「

前からリョーマに会いたいって言ってたから

ばあちゃんも言葉には出さないけどウキウキしてる

あたしも楽しみでしょうがないけど


早く来週にならないかな

あたしの家古いからビックリしないでね

でもその前に明日のツーリング超楽しみ

もちろん安全運転でいくからね

――――――――――――



 エマのレインでの文面は話し言葉よりも柔らかくて今風だ。付き合った当初はこれに面を食らったけれど、今では慣れたもの。

 むしろ、そんなエマが可愛く思えてしまう。


 僕はそれに返信を返すと駅へ向かって歩き出した。

 頭の中には、これから会う日藤のことなど一切なかった。来週末の仁熊家訪問。このことばかりである。

 大丈夫だろうか、と不安になる。

 なにしろ、エマの祖父は武道家。僕のような軟弱な男をエマの恋人として認めてくれるだろうか。最近は、こっそりと腕立て伏せや腹筋をしているけれど、そんなものは焼け石に水ですらない。


 祖母の方もまた心配だ。

 とんでもない才媛さいえんだったようだし、礼儀にもとても厳しい様子だ。果たして認めてもらえるだろうか。


 少しばかり胃の当たりに重みを感じながら、電車に乗って日藤との待ち合わせの駅へ向かった。

 到着して改札を抜けると壁に背を預ける日藤が目に入った。

 金髪巻き毛。私服も派手だ。すごく短いデニムのスカートに半袖の白いニットのベスト。ヒールの高い靴。

 相変わらずメイクが濃く、いかにもギャルという様子だった。


 日藤の姿を見てからようやく彼女の要件について考えた。ただ、やはり思いつくのはエマと交際していることについての文句くらいだ。ひょっとしたらエマに髪の毛を戻すように言え、ということかもしれない。


 日藤は近付く僕を見て露骨に不快そうな顔になった。


「ホント、ダサい。なんでよりによって、こんな奴なの? マジ、意味わかんねえ」

 休日に呼びだしておいて容赦のない言い草だ。


 僕は日藤の言葉を聞き流して言った。

「どこかの店に入りますか?」


「金、もったないじゃん。いいとこ知ってるから、飲み物買って、そこで話せばいいよ」

 言って、僕の返事も聞かずに歩き出す。


 僕は日藤の後ろについて歩いた。

 隣を歩くという雰囲気じゃない。まるでエマと付き合った直後のように、彼女から少し距離を置いて、その背中を追った。

 途中のコンビニでジュースとポテトチップスを買った。


「いいよ。これくらい奢ってやるよ。呼びだしたのこっちだし」

 支払おうとする僕に日藤が言った。


 コンビニを出てまた歩く。一体、どこに行くんだろう、と不思議に思った。住宅街の中を突っ切っていく。

 やがて日藤が足を止めた。

 目に入ったのは古い工場。

 突き出た煙突に錆びた壁。白塗りのコンクリートはところどころ剥げている。閉鎖されているようで、鉄柵にはチェーンがかかっていた。


「なんですか? ここ」


「なんかの工場。今は使ってないから、大丈夫」

 日藤が言ってチェーンをまたいだ。スカートが短いものだから足を上げた時に下着が見えた。僕は目をそらしたけれど、彼女の真っ赤な下着が目に焼き付いてしまった。


「ここって、青野原高校の近くですか?」


「そう、早く来なよ」


「こんなところに不法侵入したくありません」


「いいから来いってば」


 さすがの僕もこんな怪しげなところにむざむざと立ち寄ろうとは思わない。かたくなに敷地内に入ろうとしない僕に業を煮やした日藤が、戻ってきた。

 その距離が妙に近い。僕の顔を下から挑むように見上げる。 


「ねえ、あんた、童貞でしょ」


「そうですけど。それが日藤さんになにか関係ありますか?」


「ヤラせてあげる。今日だけじゃなくて、あんたがヤリたくなったらいつでも。ここさ、青野原の連中がラブホ代わりに使ってるんだ。あたし、あいつらに顔が利くからさ、予約したといたってわけ」


「日藤さんは彼氏さんがいるのではなかったですか?」


「関係ないから」

 言った後、蠱惑的こわくてきな笑みを浮かべる。

「どう、マジで言ってんだよ」


「その代わり、エマさんと別れろと言うんですか?」


「そういうこと」


「お断りします」


 怒るか、と思われた日藤だったが、彼女はホッとしたような笑みを浮かべた。それからすぐに厳しい顔になり、僕を睨む。


「あんたなんかと付き合ってるとエマの格が下がるんだよ」


「その格というのは不良の中での上下ということですか?」


「そういうこと。舐められるだろ」


「そもそもエマさんは別に不良ではないと思います」


「はっ? なに言ってんだ。馬鹿じゃねえの」


「とにかく僕はこれで失礼します。エマさんには今日のことは話しませんから」

 言って、僕は日藤に背を向けた。


 壁があった。

 僕の視線を遮るように男たちが立っていた。僕の退路を断つように4人の男が立っていた。

 私服姿だが、すぐに見覚えがあることにきづいた。同じ学校の先輩。エマに話があると校舎裏に連れていかれた時にたむろしいた強面の先輩たちだ。


「はい、通せんぼ。さっ、入った入った」

 そのうちの1人、肩まである茶髪の男が言った。赤いパーカーを来て、キャップをツバを後ろにしてかぶっている。


「おら、ぼさっとしてんじゃねえよ」

 別の男が僕のももを蹴る。痛くはなかったけれど、衝撃で倒れそうになった。

 そこに別の大柄な男が組み付いてきた。

 僕は瞬く間に男に羽交い絞めにされ、無理やり歩かされた。


 キャップの男が日藤の肩に腕を回す。

「ナイス、ヒナタ。来なかったら、どうしようかと思ったぜ」


「別に。コイツが馬鹿なだけだし」


「おい、ザキ、チェーン外せ。マー、そのまま、連れてけっか?」


「落としちまった方が楽だ。いいか?」

 僕を羽交い絞めにしている男が言った。


「任せるわ」


 すると僕の首に巻き付いていた男の腕がぐいっと閉まった。力が強いというよりも、ツボを心得ているという絞め方。たぶん、柔道の経験者だろう。

 もちろん、絞められている僕はそんなことを冷静に考えられたはずもなく。必死に抗えど男の腕は首からはがれず。やがて意識が遠ざかっていった。





 かび臭い。それにタバコ臭い。

 ガヤガヤとしていて、大勢の人間がいるようだ。固くて冷たいところに体を横たえている。

 まぶたを開けた僕の目に入ってきたのは、林のように立ち並ぶ足だった。


「おっ、目開けたぞ」

 男の声。


 金髪の男が覗き込んできた。先輩たちではない。けれど、どこかで見た顔だった。


「じゃあ、そろそろ料理しちゃう?」

 別の声。


「待てって。そんなんじゃつまんねえだろ。せっかくのニククマパーティだぜ。楽しまねえとよ」

 ひょろりとした背の高い赤毛の男だった。剣山のように立てた鮮やかな赤い髪にははっきりと見覚えがある。


 そうだ、いつか駅のホームでエマに絡んできた学ランの男たちの1人。それで、あの時、彼らが着ていた学ランが青野原高校の制服だと思い至った。


「ほら、起きろよ。彼氏君」

 言って赤毛の男が僕の体を起こす。


 特に拘束されてはいないようだ。

 立ち上がろうとすると、パンと頬を叩かれた。強くはなかったが、頭が大きく振られ、意識が朦朧もうろうとなった。


「おい、椅子、椅子」


 赤毛の言葉で、すぐにパイプ椅子が持ってこられた。僕はそれに座らされた。


 広い場所だ。

 バスケットコートが入るくらいの広さはある。鉄骨の骨組みがき出しの天井、壁。暗いのはぶら下がっている備え付けの蛍光灯ではなく、無造作に置かれたランタンの照明だからだろう。上からの明かりではなく、下からの明かり。


 目の前には大きなエアーマットが広げられていた。僕は日藤の言葉を思い出した。

 青野原高校の生徒がラブホテル代わりに使っている。

 その日藤は先輩たち4人とともに立っている。僕の方を見もしないで、うつむいている。

 この場にいるのは赤毛の男と先輩たちを含め、40人くらいだろうか。

 ちょうど1クラス分の人数がいる。全員、強面で不良じみている。女性は日藤だけだ。


「よし、ヒロ君、撮影」

 赤毛の男が日藤の肩に腕を回しているキャップの先輩に言った。


「えっ、俺、マジ? 俺のスマホ古いからさ」

 キャップの先輩が言った。


 ヒロ君? 聞き覚えのある響きに、ああ、と思い出した。彼が日藤の彼氏のヒロ君か。


「あっ?」

 赤毛の男が低い声で凄む。


「あ、うん、オッケー」

 キャップの先輩がそそくさとやってきた。


「おら、ちんたらしてんじゃねえよ」

 金髪の男がキャップの先輩の背中を蹴る。

 それにキャップの先輩がヘラヘラ笑いながら、謝る。


 力関係では青野原高校の者たちの方が圧倒的に上らしい。


 キャップの先輩が八つ当たりのように僕を睨む。スマホを構えた。


「もう、撮っちゃっていい?」


「まだだっつうの。つうか、なに撮る気だよ」


「ニククマのAV」

 男たちの中の誰かが言った。


「みんなでニククマ、まわしちゃおうぜパーティ」

 別の声。


 それに僕の背筋にゾクリと寒いものが走った。なにを言っているんだ、彼らは。


「まっ、最終的にはそれなんだけどさ。まずは余興をしねえとよ。彼氏君、状況わかんないだろ? ただ、ボコってニククマをおびきだすのもつまんねえじゃん」

 赤毛が言った。


 派手な髪型だが顔立ちは整っていてホストのようにも見える。彼がこの場を仕切っているようだ。

 赤毛が僕に顔を近付ける。なにか蛇を連想させるような目つきだった。


「ここにいるのはさ。うちら、アオノのもんだけじゃねえんだわ。君の彼女さ、暴れすぎて、恨んでるやつらいっぱいなの。そいつらが集まってきてるわけ。わかる?」


「僕を使ってエマさんを誘い出すつもりなんですね」

 僕の声はかすれていた。悔しいけれど、この状況に身がすくんでいる。


「そうそう。そういうこと。でさ。ニククマ、顔も体も悪くねえじゃん。せっかくだから、全員でヤっちゃおってさ。その動画をさ、もうバラまいちまったら、あいつ、再起不能じゃん。どう?」


 僕はエアーマットを見て目の前が真っ赤に染まった。憎悪。怒り。それらが向かう矛先は目の前の赤毛の男ではなかった。


 僕は叫んだ。

「日藤さん。どういうことですか?」


 僕がいきなり叫ぶとは思っていなかったのだろう。赤毛の男が驚いた顔をして、それから、驚かされたことに腹を立てたのか、僕の頬を叩いた。パンパンと軽く、だが頭蓋ずがいに響くような重さがあった。


「なに? 裏切られたことに怒ってんの? カッコイイね。ああ、ヒロ君の彼女もさ、ある意味犠牲者なんだよね。ここにいるのヒロ君たちだけだと思ってたんだよ。彼女。ニククマを誘い出すなんて話聞いてないわけ。単に君をボコるだけって思ってたんだわ。だから、そんなに責めないでやってよ。彼女、これから前座でたっぷりまわされるんだからさ」


 それに反応したのはキャップの先輩、ヒロ君だ。

「ちょっ、そんなん聞いてないよ。キイチ君、マジ、ダメだって。ヒナタ、そういうのにトラウマあるし。マジ、ヤバいって」


 赤毛が首をかしげて、ヒロ君を見る。

「えっ、なになに? もう1回言ってちょうだい」


「えっと、だから、その、ヒナタは勘弁してほしいっていうか。ニククマ来るんだしさ」


 無言で赤毛が首を傾げ続ける。ヒロ君がうつむいた。

「マジで、あいつ、ホント、そういうのは……」


 話は終わったとばかりに赤毛キイチが僕に向き直った。

「まあ、そういう趣旨しゅしのパーティなんだよね。分かった? でさ、俺、思いついちゃったわけ。せっかくだから、さ。ニククマにミジメな気持ちにさせてーじゃん。絶望させてーじゃん。だから、彼氏君にニククマのことディスらせようと思ってさ」

 そこで、赤毛キイチは顔を近づけた。

「ホントはどう思ってんの? ニククマのこと。実はあいつが怖いから付き合ってやってんだよなあ」


 赤毛キイチは離れると、まだうつむいているヒロ君の頭を叩いた。ゴツンと音がするほど強く。


「ほら、撮影、撮影。お前、ホント使えねえな」


 ヒロ君がスマホを構える。その顔は、ひと言、悲痛だ。


「さっ、インタビュー開始。彼氏君、ニククマのこと、どう思ってんのか、全部、話しちゃえよ。インタビューの出来が良かったらさ、ボコるのやめてやるからさ。おい、ちゃんと撮ってる?」


「は、はい。撮ってます」

 ヒロ君が言った。


「さっ、全部、吐いちゃえよ。ぶっちゃけ、どうなの?」


 僕は目を閉じた。

 最初にあの『ペトル』の直後にエマと光の赤い線がつながっているのを見た時。僕は始めて仁熊恵麻にくまえまに本当に関心を持った。彼女の噂はたくさん耳に入っていたし、席も近かったから視界にも入った。

 ただ、エマはずっと僕とは別の世界の住人だという気がしていた。

 エマに話しがあると連れ出されたとき、怖くて仕方がなかった。

 エマに付き合うことを宣言されて絶望的な気持ちになった。

 エマと始めて一緒に帰った時、緊張して震えた。


「怖かったですよ」

 僕は言った。

「当たり前でしょう。いろんな噂を聞いていたんだから。付き合うことになったときも、本当に信じられなかった」


 怖かった。とても。

 けれど少しずつエマを知っていったら、彼女が粗暴さなんてまったくなくて、優しくて可愛い女の子だって分かってきて。


「だけど、すぐに怖さなんてなくなりました。エマさんのことを知っていくうちに。本当のエマさんが分かってくると。可愛い人だって思った。可愛くて素敵な人だって分かったんです。ただ、ただ、エマさんと一緒にいるのが楽しかった」


 始めてデートした日。僕はもっと彼女と一緒にいたいと思った。

 いつの間にかエマの存在は僕の中で大きくなっていて。

 今ではもうエマのいない日常なんて考えられない。


「いつのまにか僕はエマさんに惹かれていて。好きになっていて。今では彼女のことが本当に大好きです」

 僕はヒロ君が構えるスマホではなく、赤毛キイチを見つめて言った。


 赤毛キイチが首をかしげて僕を睨む。

 やがて彼はおもむろに僕に近付くと、僕の頬に手を当てた。

「彼氏君、カッコイイね。マジ、すげえわ」

 

 次の瞬間、火花が散った。僕はなにが起こったか分からなかった。気が付いたら僕は横倒しになっていて、顔の感覚がなかった。

 頬の痛みが押し寄せてくる前に、今度は腹に衝撃がきた。痛い。すでに涙で視界はにじんでいる。口に込み上げてきた吐瀉物を必死で抑え込もうとしていると。

 赤毛キイチが足を大きく後ろに振り上げるのが見えた。まるでサッカーのシュートのフォームのように。

 僕は体を丸め、衝撃に備えた。


 だが、予想したような激しい痛みはこなかった。代わりに、側頭部に固いものが押し付けられる。

 赤毛キイチは蹴るのをやめて、僕の頭を踏みつけていた。


「で、どう? そろそろ、本当の気持ち、言いたくなった?」


 僕は殴られた頬と、蹴られた腹部と、そして踏まれている側頭部の痛みで、なにも考えられなかった。


「まっ、ちょっと待ってみようか」

 言って、赤毛キイチがようやく僕の頭から足をどかした。


 身を震わせながら痛みに耐える僕の耳に、キイチの大声が聞こえた。


「じゃ、まあ、とりあえず、パーティ始めっか。ニククマ来る前に、盛り上がってねえとなあ。おい、女、こっち連れてこい」


 男たちが歓声をあげる。日藤の悲鳴が聞こえた。ただ、僕に見えるのは反転した男たちの足ばかり。


「頼むよ。ホント、ヒナタはダメなんだよ。そういうの」

 つぶやくような声がした。キャップの先輩ヒロ君だ。

 

 本当に大切に思ってるんだな。

 こんな目に合わされているのに、僕は不思議とこの先輩に好感が持てた。

 日藤の悲鳴がどんどん近付いてくる。僕はなんとか体を起こした。動いたらまた吐き気が込み上げてきて、戻しそうになる。


 視界に男たちに胴上げされるみたいに運ばれてくる日藤が見えた。

 どさっ、と荷物でも放り出すかのように日藤がエアマットに落とされる。日藤は悲鳴をあげて、僕の方に助けを求めた。いや、僕じゃない。僕の側で、まだスマホを手にうつむいているヒロ君にだ。


 なにしてるんだよ。

 助けろよ。動けよ。


 僕のその思いはヒロ君に向けただけではかった。自分自身に対してもだ。

 なんとかエマに連絡をとって……。それから警察だ。そっちの方がいい。

 スマホはない。上着のポケットに入れていたが、気づいたら上着を脱がされていた。


 そうだ、先輩のスマホを借りて。

 僕が、かがみこんで顔に手を当てて現実から目を背けているヒロ君に目を向けた時。


 雷鳴のような音がした。

 大きな鉄の扉が勢いよく開いた音。そこから真っ赤な夕日が差し込む。

 見事な逆光の中、長い髪をなびかせたスラっとしたシルエットが見えた。


 ああ、間に合わなかった。

 来てしまった。

 彼女が来ないように連絡をしなくてはならなかったのに。


 日藤と寄ったコンビニ。

 トイレに行った時に僕はエマにレインを入れた。日藤に呼び出されたこと。それから現在地。

 念のためだった。

 日藤がなにを考えているか分からない以上、エマにも情報を伝えておいた方がいいと思ったのだ。

 こんなことで恋人を頼みにするのは男として少し情けないけれど、それ以上に僕がエマの足を引っ張ることを恐れたんだ。


 スマホはマナーモードにしてエマに電話をかけた。そのまま通話状態のまま、コンビニを出て、この工場へと歩いてきた。

 日藤は振り返りもせずに僕の前を歩いていたから、ときどき、独り言めかして場所を伝えることはできたと思う。


 そう、気を失う前の僕はエマが迎えに来てくれることを確信していたし、先輩に絞め落とされる直前まで、僕にはまだ余裕があった。

 たった5人くらいエマなら簡単に倒せるだろうと。


 けれど、工場には40人もの男がいた。

 いくらエマでも無理に決まっている。だから、なんとか彼女が罠にはまらないように連絡を取りたかった。


 それなのに。

 僕は間に合わなかった。


「エマさん、来ちゃダメです」

 僕は叫んでいた。それが意味のない咆哮ほうこう(であることはわかっていても。そうせずにはいられなかった。

「逃げてください」


 エマは無言だった。逆光で彼女がどんな顔をしているかわからない。ただ、あれほど騒がしかった周囲は静まり返っていた。


 ふいに髪の毛をつかまれた。

 僕の髪を乱暴につかんだ赤毛キイチが、楽し気な笑みを浮かべる。だが、僕にはその笑みが虚勢のように見えた。


「ずいぶん早いじゃねえか。まあいいや。呼ぶ手間がはぶけたもんなあ。ニククマちゃんよ。見ての通り、こっちには彼氏君がいるんだよね。動くなよ。動いたら、こいつの顔にでっかい傷ができるかもね」


 いつの間にか赤毛キイチのもう一方の手には大きな刃物が握られていた。軍人たちが持っていそうなナイフだ。


「お前がこいつ助ける前に、俺がバッサリいっちゃうよ。わかる?」


「言う通りにするよ。だから、リョーマとヒナタを解放してやってよ」

 エマが言った。


 逆光のまぶしさに慣れて彼女の顔が見えた。無表情。そこには怒りも絶望も浮かんでいなかった。能面のような無表情だ。

 ただ、なぜだか僕は寒気がした。


「もちろん、いいぜ。お前がおびき出せたんなら、彼氏君は用済みだからな。おい、手錠」


 あらかじめ打ち合わせしておいたのだろう。男の1人が恐る恐るとエマに近付き、両手に手錠をかける。

 一気に空気が緩むのを感じた。男たちはエマの強さを身に染みているのだろう。これほどの人数を集めても、まだ不安だったようだ。


「よし、よし、いい子だ。ほら、ニククマちゃん、こっち来いよ。彼氏との対面だ」

 赤毛キイチが言って、僕の髪をさらに引っ張る。

「おい、撮影。撮影。こっからが楽しいパーティなんだからよう」


 その言葉に男たちの何人かがスマホを出してエマに向ける。


 エマが男たちの間を歩いてくる。両手は手錠でつながれたまま。白いブラウスに青いスカート。襟には青いリボンを結んでいる。品の良い服装なのは家庭教師をしてきたからだろう。


「おい、代われ」

 赤毛キイチが僕の髪を放し、大振りのナイフをそばにいた金髪の男に渡した。金髪男が僕にナイフを突き付ける。


 赤毛キイチがエマを出迎える。彼女の前に立つと、その髪に触れた。

「なんで黒く染めちまったんだよ。俺、お前の髪、気に入ってたのによお」


「早くリョーマとヒナタを解放してくれない。2人は関係ないんだからさ」


 僕はその言葉にひどい胸の痛みを覚えた。

 関係ないと言われたことが切なかった。そんな場合でもないというのに。


「ダメダメ。彼氏君の前でヤった方がおもしれえだろ」

 言って赤毛キイチがエマの胸に手を伸ばす。


 エマは身を引いたが、後ろから別の男が彼女を羽交い絞めにした。

 赤毛キイチの手がエマの胸に乱暴に触れる。


 頭の中が焼き切れそうなほどの怒りが沸いた。

 クソ、クソ、クソ。エマが。


 ダメだ。

 怒るより、状況をどうにかするように考えろ。

 怒ったって状況は変わらないんだ。


 僕にナイフを突き付けている金髪の男。

 視線はエマに釘付けだ。


 ナイフを奪うことはできるか?


 いや、僕の腕力だと難しい。

 不意をつくならチャンスは一度だけだ。成功確率の高い方法を取るべきだ。


 逃げる? 

 僕の背後には人はいない。全力で走れば逃げられるかもしれない。ただ、出入り口の扉は1ヵ所のようだし、奥へ逃げても意味がない。

 スマホを手に入れて警察に連絡を入れないと。


「ホント、いい体してるよなあ。ニククマ。オッパイ、何カップよ?」

 赤毛キイチの声が僕の思考を乱す。


 どうする。どうする。

 エマを助けないと。助ける? 僕が? どうやって? 逃げることすらできないのに?


「よし、じゃあ、ストリップといきますか」


 赤毛キイチの声に、僕の思考は途切れて、注意がそちらに向く。エマは依然いぜん、羽交い絞めにされており、赤毛キイチが彼女の襟のリボンを解いたところだった。


 エマは僕をまっすぐに見ていた。目が合う。何かを僕に訴えかけている。それがわかった。

 彼女の視線が、そっと横にそれた。一点を見ている。僕は彼女の視線の先を見た。

 なにか大きな機械に立てかけられた木刀。エマに暴行する際に使用するつもりだったのだろう。男たちの中にはバットや警棒を持っている者もいた。


 エマがもう一度僕と目を合わせる。

 木刀を取ってくれ、そういうことだ。


 僕は小さくうなずいた。

 正直にいえば木刀1本で状況が変わるとは思えないけれど。エマがそういうなら僕は信じるだけだ。


「服はいいけど。チョーカーはやめてくれない。頼むからさ」

 エマが言った。それは少し芝居気がある口調だった。


 それでも、赤毛キイチはそれに気づかなかったようだ。

「そういや、お前の首、気になってたんだよね。いろんな噂があんだよな。すげえ、傷があるとか。入れ墨が入ってるとかさ」


 赤毛キイチがエマの首に巻かれた黒いチョーカーに手をかける。


 今だ。

 僕は静かに金髪男のそばから離れた。

 そのまま全力で走る。飛びつくように木刀を手にすると、そのまま機械の上に登った。

 その頃になって金髪男が逃げた僕に気づいた。だが、自分の失態を知られたくないのか、声をあげずに僕にせまってくる。

 僕はそんなものは構わずにエマに向かって木刀を投げた。


 次の瞬間、エマがお辞儀をするように体を折った。エマを背後から羽交い絞めにしていた男が、背負い投げのように宙で一回転して、そのまま床に叩きつけられた。

 それに巻き込まれかけた赤毛キイチが尻餅をつく。


 エマは跳躍すると背負い投げて転がった男を飛び越え、着地。ちょうど、僕が投げた木刀が落ちた場所だ。


 エマが木刀を手にした。エマの顔に笑みが浮かぶ。それは凄絶なまでに美しい笑顔だった。


「てめっ、なにやってんだ。おら」

 エマのそばにいた男が警棒を振りかぶる。


 さっ、と風を切る音。


 男が倒れた。

 どこを打ったのか、さっぱり見えなかった。それほどの速い一撃。

 エマはすでにその場にいなかった。スカートをひるがえし、髪をなびかせ、駆ける。

 駆けながら、斬る。


 それは打撃ではなく斬撃だった。

 エマの操る木刀は風を斬り、男たちを斬る。エマが木刀を振るうたび、その切っ先が男たちの体を斜めに、あるいは横にかすめる。男たちはその衝撃で床に崩れているらしい。


 男たちは各々持参した得物をエマに振るうが、まるで届かない。


 僕は木刀があれほど伸びるものだと初めて知った。軽やかに走りながら斬撃を繰り出すエマ。ほんの1秒にも満たない間に、5メートルもの距離をつめ、攻撃する。


 しかも、その攻撃たるや変幻自在。上下左右どころでではない。あらゆる角度から敵に襲い掛かる。

 それも神速の一撃が、だ。


 警棒やバットなど相手になるはずがない。

 同様に木刀を持っている男もいたが、素人の握るそれなど、本物の前には武器ですらないかのようだった。


「おい、ニククマの彼氏だ。そいつをやれ」

 赤毛キイチが叫ぶ。


 エマの様子に呆気にとられていた金髪が、ナイフを持ったまま僕の立っている機械によじ登ろうとする。

 僕は全力で金髪男の顔を蹴飛ばした。とても嫌な感触だった。

 金髪男は一度、倒れたが、すぐに立ち上がる。鼻血をダラダラ垂らしながら、僕を睨む。

 僕は睨み返した。


 金髪男が再び倒れた。

 いつの間にかエマがそばにきていた。

 エマは僕を見上げる。

 僕もエマを見つめる。


 エマの顔がふっと悲しそうに歪み、顔を背けた。

 彼女は僕を守るように僕に背を向けて、木刀を構える。


「女だ。そっちの女を捕まえろ」

 赤毛キイチが叫ぶ。


 しかし、日藤はすでに奥の隅の方に逃げていた。そのそばにはヒロ君が彼女を守るように立っている。今まで、戦いには加わっていなかった先輩たち、要するにヒロ君の仲間3人が意を決したように、ヒロ君と合流する。


 おかげですでに半数以下に減っていた赤毛キイチの軍勢がさらに減った。


「てめら、なに遊んでんだ。一気にいけ、手錠してんだぞ、ニククマはよっ」

 赤毛キイチが怒鳴る。


「リョーマ、大丈夫だから。そこでじっとしてて」

 エマが背中で言った。


「分かりました」


 今の僕にできることはエマの足を引っ張らないようにすることだけだ。やはりそれが情けない。


 エマが気合の声をあげた。

 それは赤毛キイチの怒号などよりもよほどとどろき渡り、工場内の空気を変えた。


 エマが動いた。

 彼女をじりじりと囲んでいた男たちの一角に飛び掛かる。跳躍で一気に距離を詰めた上に、そこから雷光のような突き。それを肩に受けた男が吹っ飛ぶ。


 男が床に転がった時には、エマの次の攻撃が別の男を斬った。直後にもう1人を、斬り上げる。

 瞬く間に3人が倒れた。男たちがひるんで下がる。


 エマは止まらない。

 僕は剣道というものをろくに知らない。実際に試合をしているところを見たこともない。

 ただ竹刀を振り下ろした後には、必ず隙ができるものだと思っていた。なにしろ、あんな長い武器だ。再び構えるにはどうしてもロスタイムがあるだろう、と。


 だが、エマのそれは、僕のイメージを完全にくつがえした。速い。隙などまるでない。

 木刀を振り下ろした一瞬後には、すでに次の攻撃に移っている。これでは人数を頼んだ戦法は通じないだろう。

 両腕をクロスにしてガードしようとしても、エマの剣は軌道を変えて別の弧を描く。


 本物武術というのは喧嘩とはレベルが違うものだと見せつけているかのようだ。

 木刀を持ったエマの立ち回りに比べれば、以前、動画で見た彼女の喧嘩など児戯じぎのようにすら思えた。


「ひっ、ま、待て、おいっ」

 赤毛キイチが手を前にして下がる。

 残っているのは、もう彼1人になっていた。

「悪かった。謝るからよお。お前の彼氏には大したことしてえねし。なあ」

 赤毛キイチが僕を見る。顔が青い。


「命だけはとらないでやるよ」

 エマは吐き捨てた。

「当分、ベッドからは出られないだろうけど」


「ま、待てって」


 外からけたたましい音が聞こえてきた。

 ラッパ音のような。それにエンジンの排気音。

 赤毛キイチの顔が緩む。どうやら彼の増援が来たらしい。


「族やってるダチにも声をかけたんだよ。さあ、第2ラウンドと行こうぜ」


 ところが、大挙して入ってきた特攻服の男たちは、赤毛キイチではなく、木刀を構えたエマに声をかけた。

「よう、クマ。応援にきてやったぜ」


「てか、もう1人しか残ってねえじゃん。マジ、鬼だな」


「なんだよ。もうちょっと早くくりゃあ、クマの戦いが見れたってのによ」


 特攻服を着た男たちはそう言って、退路を塞ぐように赤毛キイチを囲む。


 エマが動いた。

 一瞬で赤毛キイチとの間合いを詰めると、その肩を斬る。

 その斬撃は本当に美しく。僕はもとより、特攻服を着た男たちも見惚れてしまった。





「遅くなったお詫びに、後始末は俺たちがやっとくぜ。二度と、お前に手、出さないようにキッチリ、ヤキ入れとくからよ。彼氏、送ってやれよ」

 暴走族のリーダー(かつてエマが潰滅させたチームのリーダーらしい。別のチームを結成したとのこと)がそう言ってくれたので、僕とエマは先に工場を出た。


 すでに日は落ちていて周囲は暗くなっていた。


 エマはずっと無言だ。

 大丈夫? と僕に一度声をかけたきり。


 暴走族の人たちのバイクのそばにエマの青いバイクが止まっている。


「ヘルメット、あたしのしか持ってきてないんだ。だから、ここでお別れ。1人で帰って」

 僕に背中を向けたまま、エマは言った。感情を感じさせない固い声。

「ごめんね。つまんないことに巻き込んじゃって」


 僕はそれほど察しのいい方ではないし。

 女心なんて、さっぱりわからない。

 だけど、エマの気持ちは手に取るように分かった。彼女が言おうとしていることが。

 僕を巻き込んだことの自責の念が、関係を終わらせなければならないと彼女をき立てていることが、分かった。


「これからも、きっとこういうことあるかもしれないし。だからさ、もう……」

 そこで彼女の言葉は途切れる。


 僕がその先を言わせなかったから。

 彼女を背中から抱きしめる。身長は僕の方がやや高い。本当にわずかな差だけれど。


「明日はヘルメットを忘れないようにしますね。楽しみにしているんですから」


 エマの体が震えている。僕はそれをしずめるように強く抱きしめる。

 エマが上を向く。それから彼女は子供のように声をあげて泣いた。

 僕はそんな彼女を抱きしめ続けた。


 さて、その後のことだけれど。

 顔を腫らして汚れに汚れたかっこうで帰宅した僕に、当然、母親は詰め寄ってきて。

 僕はその言い訳にずいぶんと苦労させられた。

 翌日は予定通りのツーリング。

 エマはずいぶんと僕の母親のことを気にしていた。


「やっぱり、あたしのこと嫌がってた?」


「大丈夫です。僕がエマさんの良いところを毎日毎日話し続けますから」


「あたしにそんなに良いところ、ある?」


「まず優しいところですね。いつも僕のことを気づかってくれて温かい気持ちになります。小学校でも中学校でもイジメを許さなかったって正義感も素敵です。情に厚いところもいいと思います。でも、特に素晴らしいのは、まっすぐで素直なところでしょうか。いや、姿勢が良いところと、声が綺麗なところも捨てがたい。あっ、努力家のところも忘れちゃダメですね」


「て、照れるから。それに絶対、買いかぶりすぎ」


「そんなことないと思いますけどね」


 情に厚いところといえばエマは日藤のことをあっさりと許していた。

 むしろ彼女のことを心配してすらいた。


「電話に出ないの。たぶん、自分が自分を許せないんじゃないかな」


 日藤は本当にエマをはめるつもりはなかったのだろう。僕を先輩たちに痛めつけさせ、エマと付き合うのはこりごりだと思わせたかったのだと思う。結果、エマを裏切ってしまった。エマを慕っている日藤には辛いだろう。


 月曜日、日藤はエマを見ておびえたような顔をしていた。エマはそれに気づかない振りで普通に彼女に近付くと、そのまま抱き着いた。


「エ、エマ?」


「あたし、友達少ないんだから。あんたまでいなくなったら困る」


 感極まった日藤は泣いて何度もエマに謝った。

 僕には一度も謝ってくれなかったけれど。 

 それでも僕のことは認めてくれたらしい。以後、日藤は僕に対する態度を軟化させた。

 エマのことで、何度か相談に乗ってもらったこともあった。

 ちなみに日藤と彼氏のヒロ君とは、何度か別れたり、やり直したりをしながらも結局は20代半ばで結婚した。


 僕とエマはどうなったかって?


 事件の翌週、僕はエマの家を訪問した。

 これがまたすごい豪邸で。平屋の日本家屋をイメージしていた僕は呆然と立ち尽くした。そんな僕にエマは恥ずかしそうに言った。


「古い家だって言ったじゃん」


 いや、確かに古いのだろうが。博物館のような外観の洋館を中心に敷地内にはいくつも建物があった。そのうちの1つには道場のようなものまであった。

 

 あとで知ったことだけれど、エマの祖母の出自は華族らしく、彼女の他に受け継ぐべき子もおらず、親から莫大な資産を受け継いだようだ。


 ただ、エマの祖父母は使用人が多いのは気を遣うから、と時々、造園業者や清掃業者を頼むくらいで、あとは自分たちで屋敷を維持していた。

 エマも子供の頃から掃除ばかりやらされていたと、よくボヤいていた。


 僕は初対面の場でエマの祖父に弟子入りした。せめて自分の身くらい自分で守れるようになりたくて。そして、できればいつか、エマを守れるようになりたかった。

 僕がとつとつと、自分の気持ちを話すと、エマの祖父は大いに喜んだ。


 そういうわけで、僕は毎朝4時に起きてはエマの家までバイクで行き(中型二輪免許を取得した)、そこでエマの祖父と朝稽古をし、放課後もやはりエマの家に寄って、夕稽古をつけてもらうという日々を送ることになった。


 その習慣は大学へ進学してからも続き、ひいては社会人となってからも続いた。

 大学生となってからはエマの家に泊ってしまうことも多く(エマの祖父母は理解のある方々だった)、社会人となってからは実家に戻ることの方が少なくなっていたけれど。


 結局、『ペトル』がなんだったのか、10年たった今でも解明されていない。それによって起こった後遺症についてもいわずもがな。

 ただ、ひとつはっきりしていることは、やはりあの時に見えた光の糸は、運命の赤い糸で間違いなかったということだ。


「どうしたの?」


 エマがいつの間にか僕の隣にきていた。

 ぼんやりと窓から晴れた青空を見上げている僕を不審に思ったのだろう。


 僕は愛する妻の顔を振り返る。

 エマの父親譲りの美しい金髪が日差しを受けて輝いている。

 いつも思う。彼女は本当に綺麗だ。


「花びらが降ってはこないかな、などと思いまして」


 僕の言葉にエマがクスリと笑う。

「奇跡なんて1回で十分」


「確かにそうですね」


 僕にとってあの1回の奇跡は本当におつりがくるほどの恩恵を与えてくれた。

 それを言うと、エマはまた笑った。

 それは私も同じよ、そんな言葉をささやいて、キスをしてきた。


 開けっ放しの窓からは風が吹き込み、その風に乗ってサクラの花びらが流れ込んできた。

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

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