前編
教室の中が、ざわめいた。
僕は最初、それがなぜかわからなくて。教室のざわめきを無視して板書きをする先生が、また不機嫌になって教室を出ていくんじゃないか、とヒヤヒヤとした。
その桜井先生も窓の外を見て唖然とした顔になる。
僕はそれでようやく窓を見た。
それはとても不自然な光景だった。
実写映画とかにCGで無理やりサクラの花びらが舞うエフェクトをかけたような。
そう、花びらだ。
空から金色の花びらが大量に降ってきている。それらは太陽の光を反射してキラキラと輝き。
確かに美しい光景だったけど、それ以上に不気味だった。
始めに席を立ったのは背の高い長い金髪の少女。仁熊恵麻だ。
それで、まるで堰を切ったように、他のクラスメートも窓辺に行った。
叱責するべき桜井先生も咎めるどころか、一緒になって窓にかじりつく。
僕はクラスメートたちによって塞がれた窓のわずかな隙間から、少し離れて、その異常な天候を見ていた。
花びらは空の本当に高いところから降ってきているみたいで、地上に落ちる前に溶けるように消えていた。
みんながスマホでそれを撮影する。
ふいに異常気象はおさまった。
花びらの雨は突然やんで。その後にはただ、今まで通りのよく晴れた空が広がっていた。
それでもクラスメートたちは、まだ窓辺から離れない。奇跡の続きを期待しているのかもしれない。
ふいに僕の目に赤い光を発する糸のようなものが見えた。異常はまだ続いているみたいだ。
真っ赤な色で光っている糸。それがクラスメートの手から伸びている。教室を横切って壁や天井や床をつらぬき、どこかへ続いている。
全員の手から伸びているわけではないみたいだ。
自分の左手を見ると、確かに小指の第二関節当たりから赤い光線が伸びていた。
触ろうとしても突き抜けてしまう。
ただ、小指を曲げると、それと連動するように光線もたゆったった。
自分の左手小指から伸びる赤い光の糸を目でたどる。それは他のクラスメートの糸よりも短いような気がした。窓のところまでのように見える。窓を突き抜けている感じじゃないから、そこが終点なんだろう。
なんだろう、と思って赤い糸の終わりを見ていると、一番最初に窓に駆け寄った仁熊恵麻がクラスメートたちを押しのけるように窓から離れた。
糸は彼女の左手の小指につながっていた。
仁熊恵麻が教室中に張り巡らされた赤い糸に気づいて、目を見開く。それから、自分の手から伸びる糸をたどり、その視線は僕にぶつかった。
僕と仁熊恵麻の目が合った。
この学校で絶対目を合わせたくない相手。
最凶の不良少女。
仁熊恵麻が笑った。
◇
空から降った黄金の花びらの雨。
それは世界中で大ニュースとなった。
そう、その美しくも不気味な異常気象は同時刻に世界中で起こったんだ。
その日の夕方のニュースでは、バンバン、その映像が流れ、様々な分野の専門家が興奮気味にその現象について意見を交わしていた。
ネット上にもその映像や写真は大量に放出され、宇宙人の攻撃だとか、神の祝福だとか、地球の涙だとか、実にいろんな意見が上がることになった。
さらに、花びらが降ってきた直後に奇妙な現象が起こったというニュースもでてきていた。
僕は自分が見たあの赤い糸のことが気になったので、そのニュースにたどりついたけど。もし、そうじゃなければ見逃していたかもしれない。
なにしろ花びら現象のニュースに比べて、その直後の超常的な現象についての報告はあまりにも少なかったから。
テレビ番組も取り上げていない。
つまり、あれが起こったのは全人類の中でも少数だったようだ(実際、クラスメートであの糸を見たのは僕と仁熊さんだけらしい)。
しかも、みんなが赤い糸を見たのかというと、そういうわけでもない。
ある投稿者は数分間だけ人の心の声が聞こえるようになったというし。
また、別の投稿者は数日前にタイムリープしたという。幽霊を見たという人もいれば、人の頭の上に数字、あるいはマークのようなものが見えたという人もいる。
僕のように5分とたたず、その超常現象が収まった人もいれば、未だ、継続中だという人もいた。
翌日も、相変わらずニュースは『ペトル(フランス語で花弁の意味らしい)』事件一色。
結局、あれがなんだったのか、まったく分からないらしい。
正真正銘の超常現象。
テレビニュースでも少しだけ、その後の不思議な現象について触れられていた。
ネットに比べると、断然、遅くて薄い情報だった。ネットではすでにその後遺症全般のことを『ペトル後遺症』と呼んでいる。
学校でもやっぱり『ペトル』の話題で持ち切り。ただ、赤い糸どころか、『ペトル後遺症』については誰も話していなかった。
クラスで唯一僕と同じ体験を共有したとおぼしき仁熊恵麻は学校に来ていない。彼女はサボりの常習犯で遅刻、早退は当たり前。
学校に来ても、授業中は机に突っ伏して寝ているか、スマホをいじっている。
教師たちも彼女を注意できないのは、下手に触れるとなにが起こるかわからないからだろう。
鮮やかな長い金髪はサラサラでまるで天然の金髪のようだ。
背が高くて身長は170センチ前後。顔が小さくて手足が長いから、まるでモデルみたいに見映えがいい。
顔も彫りが深い美人顔なので、もし、彼女の素行が悪くなければ大いに男子たちの好意を集めていたことだろう。
膝上20センチくらいに詰めた短い紺色のスカート。シャツの裾を出し、赤いリボンは結ばずにボタンを胸元まで外している。代わりに首には黒いチョーカー。そして、うちの学校の青いブレザーを肩にひっかけている。
以上がざっくりとした仁熊恵麻の外見。噂では背中に入れ墨が入っているとか。
その仁熊恵麻は学校一の不良だ。それどころか彼女の名前は近隣一帯の学校に轟いているらしい。中学時代の友人が、「リョーマ君の学校にニクマがいるって、マジ?」と聞いてきたことがあるから、本当に有名なのだろう。
仁熊恵麻の噂をあげたら切りがない。あまりにも数が多いし、荒唐無稽なものが多いから。
中学生の時にたった1人で20人近くの暴走族を全滅させた、とか。現役のボクサーと戦って勝ったとか。半グレのアジトに乗り込んで潰滅させたとか(その際、逃亡する半グレの車のルーフに飛び乗って、フロントガラスを割って車内に侵入したとか)。
彼女の噂の大半はバイオレンスなもので。
アクション映画さながらの色濃い内容のものばかりだった。
反対にパパ活とかそういう噂とはまったく無縁で、それどころか仁熊恵麻の側に男子はあまり寄りつかなかった。
入学当初は有名な仁熊恵麻に因縁をつける不良男子もいたけれど。彼女はそれをことごとく返り討ちにした。現場を見ていた人の話しによると、指一本触れさせることなく、圧倒的な戦闘力で叩きのめしたらしい。
彼女が喧嘩をする動画が生徒たちの間で出回ったことがあり、僕もそれを見たことがある。
それまで僕は仁熊恵麻のことなど知らず、まさか自分の近くにそんな恐ろしい女子が生息しているとは思いもよらなかった。
動画の仁熊恵麻は確かにすさまじかった。その時は上級生の男子3人との立ち回りだったのだけど(相手はバットや竹刀で武装)、振り下ろされた竹刀をかわしてローリングソバットを叩き込み。
バットの横ぶりをかいくぐり、相手の腹に肘鉄を打ち込み。
残る1人は電光石火のストレートでノックアウトした。
ほんの1分くらいのその動画を見た僕は背筋が寒くなった。
当然だけど不良男子たちは仁熊恵麻に因縁をつけるのをやめた。あまりにも強すぎるので全面降伏といったところだろう。今度は媚びを売り始め、取り巻きと化した。
一時期、仁熊恵麻が上級生の強面男子に囲まれて歩いている光景をよく目にした。
ただ、それもすぐに見なくなった。
噂では仁熊恵麻は強面男子が嫌いらしい。
男子の取り巻きがいなくなったものの女子の取り巻きは、今も仁熊恵麻の側にいる。
派手なギャル。おかげでうちの学校の男子はそのギャルたちに頭が上がらない。校内で最強の一派と化している。
そんな仁熊恵麻が登校してきたのは2限終わりの休憩時間だった。
「エマ、また遅刻かよ」
取り巻き女子の1人、赤堀京子が甲高い声で迎える。明るいセミロングの茶髪に白いメッシュが入っている。
「あたしのせいじゃないよ。目覚ましが鳴らなかったんだから」
「それ自分で止めたんじゃん」
そんな話をしながら、エマは赤堀京子ともう1人の取り巻き、日藤美沙を引き連れて、僕の席の斜め前についた。そう、近いんだ、彼女と僕の席は。
おかげでいつも騒がしくて困っている。取り巻き女子に席が乗っ取られていることもあって、そのたびに僕はよそに避難しなくてはならなかった。
「てかさ、エマが昨日言ってたの、これじゃね?」
赤堀京子がスマホを見せる。ユーチーブ(超有名動画サイト)の動画で、『ペトル後遺症』について説明している。
いくつかの確認されている後遺症の後に、赤い糸の話が出た。
「どうも、これが運命の赤い糸らしいんですよ。この赤い光の糸を見た人は、夫婦同士やカップルでつながっているのを見たらしいんです」
仁熊恵麻が振り返った。僕は視線を感じつつも無視してスマホをいじる。なにも聞こえていない。視線も感じない。赤い糸? なんですか、それは。
動画での赤い糸の説明はそれで終わり。次の『ペトル後遺症』についての解説に移った。
「これ、マジ?」
仁熊恵麻言った。
「マジっぽいよ。運命の赤い糸で調べたら、結構、同じような話でてきたしさ」
取り巻き、その2、日藤美沙が言った。派手なアッシュブロンドの巻き毛に濃いギャルメイク。
「で、エマは誰とつながってたって?」
赤堀京子が言った。実に楽しそうだ。
「分かんなかったって言ってんじゃん。糸がいっぱいあって、そこまで見えなかったしさ」
僕とつながっていたことは秘密らしい。
まあ、そうだろう。
昨日の時点では赤い糸がなんなのかは分からなかったとしても、僕みたいなカースト下位とつながっていたって言いたくはないだろう。
「あたしのちゃんとチェックしとけよな」
日藤美沙が言った。
「あんた、ヒロ君いるじゃんか」とこれは赤堀京子。
「でも、なんかいいじゃん。運命の赤い糸とか? 超アガルじゃん」
日藤美沙が夢見るように言った。
もちろん、僕も赤い糸について調べているし、昨日の夜にはそれが運命の相手と結ばれている赤い糸ではないか、という説も出ていた。
配偶者、中でも老夫婦間でつながっていたという報告例が多いのは確かだから、それなりの根拠がある。
ただ、まず運命の赤い糸ではないか、という推論があって、その根拠として、そういう目撃例を集めたという可能性もあるので、断定はできないと僕は思っている。
というより、僕は絶対に信じたくない。
あの仁熊恵麻が運命の相手だなんて、あまりにもひどすぎる。
僕の人生はバイオレンスとは無縁でありたいと思っているというのに。
とにかく、僕は赤い糸については知らないことにしようと思っている。間違っても仁熊恵麻と赤い糸がつながっていたことなど話すまい。絶対に。
◇
昼休み、僕はいつも通り弁当を持って友人の席へ向かおうとした。自分の席の周辺には仁熊一党がはびこる。怖いのでいつも疎開している。
ところが、そんな僕の肩に後ろから手がかかった。細い指には、強い力がこもっていて。僕は痛みに顔を歪めた。
「ちょっと話があるんだけど」
仁熊恵麻が言った。
僕は振り返った。顔が恐怖で引きつっていることが自分でもわかる。
「お昼食べないといけないんですよ」
かすれた声で言った。
「すぐ終わるから」
仁熊恵麻はそれだけ言うと足早に教室を出ていった。
僕は立ち尽くすしたまま。
教室は静まり返っていた。仁熊恵麻が僕に接触したのを見て、トラブルの予兆を感じたのだろう。
廊下に出た仁熊恵麻が教室に顔を出し、僕を見る。
なにしてるんだ、殺すぞ、と言っているように僕には思えた。
走って教室を飛び出した。
仁熊恵麻は早足で廊下を歩いていく。僕は彼女に追いついて、3メートルほど後ろを小走りでついていった。
仁熊恵麻が向かったのは校舎裏の一角。校舎からは死角になっていて、よく不良の先輩たちがたむろしてタバコを吸ったりしているらしい。
僕らが行った時も4人の先輩たちがしゃがんでタバコを吸っていた。見るからに不良っぽい先輩たち。
よく、廊下を我が物顔で闊歩しているのを目にする。
その強面の先輩たちが、仁熊恵麻を見た瞬間、表情を凍り付かせた。
「に、仁熊さん、どうしたんですか?」
1人が、明らかに怯えた様子で言った。
「ちょっと場所貸してよ」
「は、はい。どうぞ」
先輩たちが一斉にタバコを消して、逃げていった。たぶん、先生が現れたって、ここまで一目散には逃げないだろう。
ひと言、すごい。
仁熊恵麻が舌打ちした。
「タバコ臭い」
仁熊恵麻はタバコを吸わないらしい。
「それで話というのはなんでしょう?」
仁熊恵麻が僕の前に立った。その距離30センチほど。
近い。
僕は思わず身を引いた。
仁熊恵麻がその鋭い目で僕を見つめる。いや睨んでいる。
怖い。
「草間さ」
僕は仁熊恵麻が自分の名前を知っていることに驚いた。彼女にとって僕などモブもモブ。存在すら認識されていないように思っていたのだけど。
「昨日の花びらの後さ。赤い糸見えなかった?」
「なんですか、それ?」
ちょっとわざとらしかったかな。
仁熊恵麻が困った顔になった。顔が少し赤い。
意外だった。いつでもどこでも誰にでも、ふてぶてしい態度をとると思っていたのに。
「えーと、なんかさ、あの花びらが降ってきたあと、変な超能力みたいなのが使えるようになるやつがいたんだって。それで、あたしは赤い糸が見えたんだ。それ、なんか、運命の赤い糸らしくてさ。ほら、運命の相手とつながってるってやつ。それが見えたんだ」
「へえ、そうなんですね」
僕はとぼけた。
「それで……草間とつながってたんだ。あたしの糸」
「そうなんですか?」
「そうなの。だから、草間竜馬は、今からあたしの彼氏ね」
「はい。えっ?」
僕の頭は真っ白になった。彼女は今、なんて言ったんだ?
そんな僕の襟首を仁熊恵麻はつかみ、強い力で引き寄せる。
踏ん張る暇すらなく、抗う力も無く、僕は引き寄せられ、仁熊恵麻と顔面衝突をした。
「じゃあ、そういうことだから」
仁熊恵麻がくるっと背中を向ける。そのまま走っていってしまった。
残された僕は口を押さえて必死に混乱を鎮める。
仁熊恵麻の背中が見えなくなって10分ほどして、ようやく僕は彼女がキスをしてきたことに気がついた。
確かに唇は当たったけれど、他の部分もぶつかっていて、まったく接吻という様子ではなかったんだ。
◇
午後の授業内容はまったく頭に入らなかった。必死で仁熊恵麻のことを考えようにしたけれど、なにしろ彼女は僕の斜め前の席にいる。どうしても視界に入る。
彼氏? 彼氏と言った?
確かに言った。僕が仁熊恵麻の彼氏?
仁熊恵麻の言葉は誤解しようがないほどに簡潔で明瞭だった。解釈の違いなんてない。
それでも認めたくなくて、何度も何度も頭の中であの場面を繰り返し、再生した。
5限が終わったところで、仁熊恵麻は僕の机に椅子ごと近付いてきた。それに取り巻きの女子2人が訝しむ。
「エマ、なにしてんの?」
「草間だっけ? 超怯えてんじゃん」
「んっ? レイン(超有名SNS)交換しようと思って。あっ、あたしら、付き合うことになったから」
仁熊恵麻は実に自然な様子でそんなことを言った。
取り巻き女子が絶句。
僕の顔を凝視する。
その間に、仁熊恵麻は僕の机にスマホを置いた。画面には派手にヒビが入っている。
「そういうことで、登録ヨロシク」
「……はい」
僕は自分のスマホを出して素早くレインを起動。仁熊恵麻のスマホも操作し(ロックは解除されていた)レインを起動。
冷や汗をかきながらレイン交換をする。
仁熊恵麻のアイコンはテディベアだった。
「……マジ?」
赤堀京子がようやくそれだけ言葉を紡ぐ。
「嘘でしょ? なんで、こいつなん?」
日藤美沙が言った。
「リョーマとあたしは赤い糸でつながってるから」
仁熊恵麻は嬉しそうに笑った。顔が少し赤らんでいた。
休憩は終わり、6限目。
つい先ほどのやりとりは当然、他のクラスメートたちも目撃していた(教室の真ん中でのできごとだから当たり前だけれど)。たぶん、明日には学校中に知れ渡っていることだろう。
あの仁熊恵麻に彼氏ができたというニュースが。
どうしよう。
僕の頭の中は依然、混乱の極みにあった。
どうしようもこうしようも、僕に選択権などないのだけれど。それでも迷ったフリをし続けなくてはならない。そうしないと、暗澹たる未来を想像して、ひたすら憂鬱な気分に沈み込むことになるから。
六限が終わった。
仁熊恵麻が僕が動くよりも早くに寄ってきて肩をつかんだ。
「リョーマ、部活やってないよね。一緒に帰ろうよ」
「はい」
もちろん僕に拒否権はない。
いつも仁熊恵麻と帰路をともにしている取り巻き2人は遠慮したのか寄ってこない。
できれば、彼女たちも一緒に来て欲しかった。居心地は悪いだろうけど、仁熊恵麻と2人きりよりはよほど気が楽だもの。
僕は仁熊恵麻とともに教室を出た。その様は、彼氏彼女というよりもボスと手下という様子だったろう。仁熊恵麻から3歩遅れてついていく。
すると廊下で仁熊恵麻が振り返った。
「なんで後ろ歩いてるわけ?」
「いえ、なんとなく」
「彼氏なんだから隣歩きなよ」
「そんな恐れ多い」
僕は心の底から言った。
多大なる恐怖がある。
「そういうのいいから。ほら、手」
「手?」
戸惑う僕の手を仁熊恵麻がつかんだ。そのまま引っ張る。細い指のどこにこれほどの力が、というほどに仁熊恵麻の力は強くて。僕は引きずられるようにして歩かされた。
もちろん、学校一の有名人であるところの仁熊恵麻である。
すれ違う生徒達は目を見開いて僕らを見る。
それどころか教師たちも驚愕の表情で立ち尽くしていた。
その教師の1人、生活指導の滝中先生が、はっ、と気が付いて声をかけた。
「お、おい。仁熊。お前、なにやってんだ」
50過ぎの強面の先生で、空手3段、剣道三段という強者。剣道部の顧問もしている。
「なにって見ればわかるじゃん。これから帰るの」
仁熊恵麻が答えた。
「い、いや、だから、その男子生徒になにをするつもりだ。降りかかる火の粉を払うのなば仕方もないが、一般生徒に手を出すことは許さんぞ」
すると、仁熊恵麻は胸を張った。豊かな胸が揺れる。彼女のスタイルは抜群で、外見だけならばグラビラモデルにだって引けをとらないだろう。
「彼氏」
「はっ?」
「だから、これ、あたしの彼氏。ねっ、リョーマ」
心持ち、仁熊恵麻の顔が赤い。恥ずかしいは恥ずかしいみたいだ。
「はい」
僕はしぶしぶ肯定した。僕に拒否権はない。
「脅して無理やり交際などいかんぞ」
「そんなことしてないから」
確かに脅されてはいない。脅されてはいないけれど、誰が彼女の申し出を断れようか。いや、そもそも、選択権すら与えられていなかったけれど。
「君、大丈夫なのか? 嫌なようならちゃんと言うんだぞ」
滝中先生が心配そうな顔で僕に言った。
厳しいけれど情の熱い先生で、生徒たちからの評判も悪くないのだ。
「はい」
僕は蚊の鳴くような声で答えた。
以後、僕らに話しかけてくる者はいなかった。校門を出て、駅に向かって坂道を下りていく。
依然、僕の右手は仁熊恵麻にガッチリとつかまれている。彼女の握力はとても強く、僕はだんだんと指の感覚がなくなってきていた。
「なんか話してよ」
仁熊恵麻が言った。
結構な無茶振りだ。
「えーと」
緊張と手の痛みで頭が回らない。
それでも彼女の圧力は強烈で、なにかを話さなくては窒息死してしまいそうだった。
「仁熊さんは僕なんかでいいんですか?」
それは純粋な疑問だった。
「えっ? なんで?」
「いや、僕は喧嘩もしたことないですし。あまり仁熊さんと価値観が合うとは思えなくて」
「あたし、すぐ喧嘩するような頭の悪い男って嫌いなんだよ」
意外なことを言った。むしろ、自分より弱い男が嫌い、とか言いそうなのに。
「ヤンキーとかマジで無理」
まるで自分がヤンキーではないような口ぶり。確かに見た目だけならば、いわゆるヤンキーというよりもギャルに近いようだけれど。
「タバコ吸うやつも嫌い。臭いから」
「へえ」
そういえば先輩たちのたまり場でも、タバコの臭いを嫌がっていた。
「昔から、勉強できる男って、いいなって思ってたんだ。リョーマ、頭いいでしょ?」
「いえ、そんなことはないです。僕より頭の良い男子なら、学年にあと2人いますから」
ぜひ、そちらにしましょうよ、という願いを込めた。
「眼鏡かけてるしさ。眼鏡かけてる男って、カッコいいよね」
「近々コンタクトにしようかと考えてるんですよ」
「ダメ」
「ダメですか?」
「うん、リョーマには眼鏡が似合ってるから」
僕の顔を正面から覗き込んで言った。
自分の顔が赤らむのが分かる。
なにを照れているんだ、僕は。
「それにリョーマはあたしの運命の相手だし」
「それ、そこまで確証がないですよ。幻覚みたいなものだっただろうし」
むしろ赤い糸についてはなんの根拠もない話だ。
「あと、あたしもそろそろ彼氏とか欲しかったし。京子も日向も彼氏いるのに、あたしだけいないのは嫌じゃん」
「そんな周りに合わせる必要はないですよ」
「あたしが我慢できないの。あたしだって喧嘩より恋愛がしたい。彼氏と、こう、デートみたいなこととか? なに、その顔」
「いえ、意外だったもので。てっきり、喧嘩大好きなのかと」
「人を殴って楽しいわけないじゃない。やらなきゃ、やられるからしょうがなくやってるだけ」
本当かなあ、と僕は疑わしく思った。
仁熊恵麻が足を止めた。
僕の前に回り込むと鋭い目で睨みつけてくる。僕は恐怖のあまり息が吸えなくなった。
「あ、あの」
なんでしょう、と問う前に、仁熊恵麻が言葉をかぶせてきた。
「リョーマの気持ちは分かるよ。あたしはみんなに怖がられてるし」
分かっていたのか。これも意外だった。
「確かに頭にきたらリョーマのこと殴るかもしれないけど。浮気とかしたらマジで殺すし。だけど考えてみて。あたし、顔も体も結構なもんじゃない? バージンだし。その、キスだって、あれが初めてだったんだよ」
最後は照れ臭そうに言った。
「はあ」
「つまり、乱暴なのを我慢すれば、いい彼女じゃないかな」
その乱暴さがすべてを台無しにするほどひどいのだけれど。
コホン、と仁熊恵麻が咳払いした。正面から隣に移動し、また歩き始める。
「だから、その、なに? リョーマがその気なら、すぐにでも……いいかなって思ってる」
なんのことを言っているのか分からなかったが、仁熊恵麻が耳まで真っ赤になっているのを見て、察した。
性交渉のことだ。
「いえ、そんな」
そんな怖いことができるわけがない。自慢ではないけれど僕にそんな度胸はない。
途中の大型スーパーの前で仁熊恵麻が足を止めた。そちらへ進路をとる。買い物でもするのだろうか?
だが、彼女が向かったのは建物の横の駐車場。鮮やかな青いバイクが止めてあった。
詳しくはないけれど、たぶん中型バイクなのだと思う。彼女はハンドルに引っかけてあったフルフェイスのヘルメットを手にすると、それをかぶり、バイクに跨った。
「送る。乗って」
「い、いや、ダメですよ。2人乗りなんて」
「なんで? 別に法律違反じゃないじゃん」
「でもバイク通学禁止でしょう?」
正確にはある程度、最寄り駅から離れていれば、あくまでもその駅までは原付バイクに限り認められていた気がする。
「いいから乗って」
「ダメですよ。僕のヘルメットがないじゃないですか。それは違反ですよ」
仁熊恵麻がヘルメットのシールド越しに僕を睨む。それはさすがの眼光で、今まで彼女に向けられた視線の中で、一番、鋭かった。
しばらく僕を睨んだ後、彼女は無言でバイクのエンジンを始動させた。そのまま発進してしまう。
僕は大きく息を吐いた。
ようやく解放された。全身に疲労感が漂っていて、もう今にもベッドに倒れ込みたい気分だった。
◇
夜。仁熊恵麻からレイン(超有名SNS)が入った。それまで意識して彼女のことを頭から排除。要するに現実逃避していたのだけれど、それが現実に引き戻された感じだった。
――――――――――――
こんばんは
初めてのレインでなんか緊張する
だって彼氏にレインとか憧れてたし
これからよろしくね
あと
さっきはゴメン
確かにノーヘルはダメだよね
それで
今度の日曜日
リョーマのヘルメット買いに行かない?
――――――――――――
目を疑った。いや、スマホも疑った。
本当に仁熊恵麻からのレインなのか、彼女とのトーク画面なのか、何度も確認した。
それとも、誰かが代筆しているのかもしれない。
実にありそうだ。
とにかく放置しておくわけにもいかない。既読スルーなんてしてしまったら、どんなことになるかわからない。
――――――――――――
こんばんは
こちらこそ送ってくれようとしていた仁熊さんの申し出を断ってしまいすみませんでした
日曜日のことは考えさせてください
――――――――――――
硬い文章だと自分でも思うけれど、礼を欠くよりはずっといいだろう。下手なことを書いて仁熊恵麻の逆鱗に触れたくはない。
――――――――――――
なにか用があるの?
デートしたいな
――――――――――――
こういう時、嘘がつけるといいんだけれど。
僕はどうも嘘が苦手なんだ。
――――――――――――
そういうわけではないのですが
そもそもバイク用のヘルメットというのは幾らくらいするのでしょう?
――――――――――――
経済的理由で断る。
これが一番角が立たないのではないだろうか。まだ高校生の身だから高価な物は買えないというのは納得がいくだろう。
――――――――――――
安いのだと5000円くらい
まだ買わなくていいから見に行かない?
リョーマとデートしたいよ――――――――――――
しまった。断る理由が無くなってしまった。文体が柔らかいから油断したけど相手は仁熊恵麻なんだ。
――――――――――――
わかりました
――――――――――――
今日が木曜日なのであと2日後である。
レインを打ってしまった後で、仁熊恵麻と2人きりで出かける様子を想像して、怯んだ。
大きなハートがバックにある可愛いクマのスタンプが送られてきた。レインだとずいぶんと雰囲気が違うのはなんでだろう。
◇
翌日。
思った通り、僕は噂の的になっていた。
やたらと視線を浴び、そこらかしこで声をひそめて噂話をされた。
それはそうだろう、と思う。
もし当事者でなければ、僕もあの仁熊恵麻の彼氏というものに興味津々(きょうみしんしん)だっただろうから。
教室に入ると友人たちが恐る恐る近付いてきた。
「よう。あの、さ。仁熊さんとはマジで付き合い始めたの?」
友人の富樫健一が言った。
教室中で僕らの会話に聞き耳をたてているようだ。
「そうみたいですね」
客観的な言い方をするのが精一杯の反抗だ。
「お前、すげえな」
もうひとりの友人、田中博が言った。
なおもなにか言おうとする友人たち。
だが、そこに仁熊恵麻の取り巻きのひとり、日藤日向が入ってきた。
白っぽい金髪巻き毛。メイクバッチリのまさにギャルという様子。
日藤日向は不機嫌そうに席についた。
彼女の登場で友人たちはそれ以上の詮索が危険だと感じたのだろう。話題を露骨に替えた。ほかのクラスメートたちから失望したような雰囲気が伝わってきた。
もっと色々な話が聞けると思ったのだろう。
日藤日向がいる中で仁熊恵麻の話はできず、表面上はいつもの朝の教室という様子になった。あくまで表面上のことで、誰も彼も浮足立っているようだった。
もうひとりの仁熊恵麻の取り巻き、赤堀京子も現れ、日藤日向と合流。なにやら2人で話していたかと思うと、彼女たちは僕の席へと近付いてきた。
僕の友人2人がそそくさと逃げていく。
「あんた、エマの彼氏になったんだから、もっとちゃんとしろよ」
日藤日向が僕を睨む。
「んだよ、その髪型」
「そうそう。エマが飽きるまでは彼氏なんだからさ。マジでダセーのやめてくんない。エマの株が下がんじゃん」
赤堀京子が言った。
そんな変な髪型じゃないと思うんだけれど。長すぎないし、寝癖も直してきたし、清潔感はあると思う。
「眼鏡も替えろよ。なんだよ、それ。地味なんだよ」
「コンタクトにしろ、コンタクトにさ」
いや、それは仁熊恵麻に断られたのだけれど。断固たる態度で。
仁熊恵麻の取り巻き2人は実に好き勝手なことを言った。あれを替えろ、それをやめろ。ダサい。地味。ありえない。
なにしろ交互に言葉を吐き出すので僕が口を挟むタイミングがない。ただひたすらに嬲られ続ける。
そんな彼女たちが同時に口をつぐんだ。
教室の空気が変わった。
僕にはなにが起こったのか分かった。
仁熊恵麻が現れると一気に空気が変わるのだ。
「おはよ」
仁熊恵麻は上機嫌な様子だった。
「エマ、早いじゃん。なに? 彼氏に会いたくて早く来ちゃったかあ?」
日藤日向がさっきまでの不機嫌顔から表情をコロっと楽し気なものに変えて言った。
「はっ? そんなんじゃないから。マジで」
仁熊恵麻が日藤日向を睨むが、それは日常のじゃれ合いの範疇のようだ。
「日曜日、どこ行くか、もう決めたの?」
赤堀京子が言った。
どうやら彼女たちの中で情報が共有されているらしい。
仁熊恵麻がバイクショップの名前を言って、その後は、あそこに行って、と次々と立ち寄る場所を並べていく。
すでにプランニングは終わっているようだ。
「リョーマは行きたいとこある?」
いきなり話を振られて戸惑った。
仁熊恵麻の計画はこのあたりでは一番、盛っている街の駅周辺の散策。強いていうなら駅ビルにある大型書店に行きたかった。
「しいて言うなら本屋ですが、別に無理に行かなくても大丈夫ですよ」
「じゃあ、本屋も行こうよ」
仁熊恵麻が嬉しそうに言った。
◇
授業中、仁熊恵麻はスマホをいじっていた。なにかを調べているようだった。
教師たちはいつも通り見て見ぬふりを決め込んでいた。
仁熊恵麻は授業をまともに受けていないけれど、勉強は大丈夫なんだろうか、と僕は疑問に思った。
学年で50位までしか張り出されないから、彼女がどれくらいの成績なのかは分からない。2学年に進級はしているのだから、最低限の学力はあるはずなのだけれど。
追試を受けるにしても、そもそもの学力が無ければどうにもならないはずだ。
うちの学校は公立だし、偏差値も高くはないけれど、それでも低いというほどではない。
ちょうど真ん中くらいだろう。仁熊恵麻は入学試験も受かっているのだから、潰滅的な学力というわけではないだろうし。
そんなことを考えていたら1限の授業が終わった。
仁熊恵麻が例によって椅子ごと寄ってきた。スマホを見せる。
この店とかいいんじゃないか、というように日曜日のデートで立ち寄る店を次々と見せてくる。
授業中、調べていたのはそれらしい。
休憩時間はすぐに終わり、2限の授業。また仁熊恵麻はスマホをいじり始める。
◇
4限は体育だった。
男女ともに体操服を持ってゾロゾロと体育館の更衣室へと向かう。
ここでも僕は仁熊恵麻にしっかりと確保されていた。手をギュっと捕まれ、クラスメートたちの視線の集中砲火を受ける。
仁熊恵麻はそんなものは意にも介さず、日曜日のデートについて話し続ける。
駅前の噴水前(よくデートの待ち合わせ場所に使われるらしい)に午前9時集合。解散は夕方6時頃のようだ。
てっきり、半日くらいと考えていた僕は、その長い拘束時間に意義を申し立てたくなった。もちろん、そんなことはできないけれど。
「超楽しみだね」
仁熊恵麻は本当に楽しみなようで笑顔が絶えない。
なんだか、その顔を見てると丸1日潰れても別にいいかな、などと思えてしまう。
まあ、どちらにしても断れないわけだから。
体育館の更衣室前で僕はようやく仁熊恵麻から解放された。
男子更衣室の中では男子たちから畏怖の視線を向けられる。
「マジで付き合ってんだな」
友人、富樫が言った。
「すげえな、お前」
他の男子たちが一斉にうなずいた。
体育は男子、女子ともにバスケだった。
コートが2面しかないから、それぞれ2チームずつしか試合ができず、残り2チームは待機になる。
「でも見た目だけなら、サイコーだよな。ニクマってさ」
同じく待機中の友人、田中が耳打ちする。
「あの胸。メチャ、揺れてんじゃん」
女子側コートでは仁熊恵麻が試合に出ていた。仁熊恵麻は体育は好きらしく、登校していればきちんと出ている。
そして彼女はその圧倒的な戦闘能力が運動神経によって裏打ちされたものだと知らしめるのだ。
仁熊恵麻がスポーツ万能だということは学校の誰もが知っていること。
去年の体育祭で彼女はまさに獅子奮迅の活躍を見せた。100メートル走で陸上部のエースを抜かして1位となり。
砲丸投げではやはり陸上部を抑えて1位となった。最後のリレーでは最下位から5人抜きをはたし、勝利へと導いた。
バスケでもその運動能力は発揮されていた。いや、それどころかその技術は素人の僕から見てもかなり高度なもののように感じられた。
ドリブルひとつとっても本職のバスケ部よりも堂に入っている。シュートのフォームも美しく、放ったボールは吸い込まれるようにゴールに入った。
「ヤンキーでさえなけりゃあなあ」
田中が、いかにももったいないというように言った。
それは僕も同感だった。
いや、仁熊恵麻の容姿のことではない。
バスケ部でもないのに彼女はあれほど綺麗に動ける。それはたぶん、経験によって培った技術ではなく、天性の運動能力のたまものなのだろう。
もし、彼女が本気でスポーツに打ち込んだら、プロの選手にも届くかもしれないのに。
仁熊恵麻と目が合った。
ぶんぶんと手を振ってくる。
「おい、手振ってるぞ」
田中が怯えたように言った。
僕は小さく手を振り返した。
仁熊恵麻のシュートのフォームが目に焼き付いている。本当に綺麗だった。
◇
昼休み。
僕は仁熊恵麻と一緒に食べた。4限が終わり、着替えて更衣室を出ると、仁熊恵麻に捕まったのだ。
そのまま教室まで手を握られて隣を歩き、その流れで昼食を一緒に食べることになった。
仁熊恵麻が僕の机に椅子を持ってきて、朝、コンビニで買ったサンドイッチを食べ始める。
なんとなく大食い(しかもコッテリしたものばかり)のイメージがあったのだが、そういうわけでもないらしい。
また、やはりこれは僕の勝手なイメージだったのだが、彼女は雑で早食いのように思っていた。実際はそんなことはく、ビニールの包装を丁寧に剥がし、ゆっくりと味わって食べていた。食べ方もどこか品があって粗暴さとはかけ離れていた。
「なに?」
仁熊恵麻が言った。
彼女の顔を見過ぎていたみたいだ。
「いえ、食べ方が綺麗だったので」
サンドイッチだから食べ方もなにもないのかもしれないけれど。ただ、僕はそう感じた。
「ばあちゃんがうるさいの。そういうこと」
「そうなんですか?」
「うん。あたしの両親、死んじゃってさ。じいちゃんとばあちゃんに育てられたんだ」
「へえ。なんか意外ですね」
「そう? あと、ばあちゃんにはナギナタ教わったよ」
「ナギナタ? 珍しいですね」
ナギナタが剣道同様武道として現代も残っていることは知っているけれど。身近ではない。
「おまけにじいちゃんからは剣道と合気道と柔術、教わったんだ。じいちゃん、メチャクチャ強くてさ。今でも勝てる気がしない」
仁熊恵麻の強さの秘密はそれが理由なのかもしれない。ただ、ナギナタや剣道や合気道でバスケットが上手くなると思えないので、彼女の運動神経が並外れているのは事実なのだろう。
そして放課後。
昨日同様、僕は仁熊恵麻によって確保され、そのままともに帰宅した。
「今日は電車で来たんだ」
だから、途中まで一緒に帰れる、と仁熊恵麻は嬉しそうに言った。
仁熊恵麻の家は僕の家の2つ手前の駅とのことだ。それはつまり彼女と一緒の時間が長くなるということを意味していた。ただ不思議と憂鬱さは感じなかった。
なにより、バイクの2人乗りに誘われて、それを断らなくて済むのは助かる。
仁熊恵麻にナギナタや剣道の話を聞いた。水を向けると彼女はとても饒舌になる。そこから彼女が戦国時代が大好きなことなども明かされた(特に島津家が好きらしい)。
戦国時代の話になると、仁熊恵麻は本当に生き生きとした。武将のエピソードなんかもしっかりと押さえていて、それを情感たっぷりに語る。僕も歴史はかなり好きなので話が弾んだ。
そうして気が付いたら駅に到着していた。
すっかり楽しい気持ちになっていた僕だったが、それは長続きしなかった。
駅のホームで電車を待っていると、改札の方から騒がしい集団が入ってきた。
学ランをラフに着崩した高校生たち。髪の毛が金髪だったり、茶髪だったり、中には真っ赤な髪を逆立てている者もいる。
見るからに不良高校生。その数5人。
うちの学校とは駅を挟んで反対方向にある高校の生徒のようだ。
彼らは僕ら(というよりも明らかに隣の仁熊恵麻)を見て、一度、立ち止まり、それからゆっくりと近付いてきた。不穏な空気をかもしだしながら。
仁熊恵麻が僕の手を離した。学ラン男子たちに向き直る。
「おい、ニククマー。誰だそりゃあ。ついに、彼氏できたのか?」
金髪の背の高い男が言った。
その言葉に、他の者が吹き出し、そのまま笑う。
「ねえだろ。そりゃあ。ニククマを彼女にする命知らずなんているわけねえだろ」
「動物園に行って、雄熊に相手してもらえよ」
僕はいつ、仁熊恵麻が男たちに飛び掛かるのか、と背筋に冷たい汗が流れた。
だが仁熊恵麻は静かだった。
「あたしさ。今、すっごい、いい気分なんだ。だから、安い挑発には乗らない。あと、これ、マジであたしの彼氏だから」
言った直後、僕は半歩下がった。
仁熊恵麻から発された威圧感。ついさっきまでの彼女からは感じられなかった圧力が空気を変えた。
僕と同様にそれを感じ取ったのか。学ラン男子たちの顔が引きつった。
「だからさ。絡まないでくれない。マジで」
決して強い言葉を使ったわけではない。
だけど、そこに込められた意志には尋常じゃない覚悟があるように思えた。
学ラン男子の中でひと際、派手な赤毛の男がピューと下手な口笛を吹いた。僕に視線を向ける。
「マジで彼氏かよ。すげえな、お前。こんなおっかねえ女、どうやって手なづけたんだよ。マジ、尊敬しかねえわ。おい、邪魔しちゃ悪いから、離れてようぜ」
言って仲間を率いて僕らから離れていった。
「昔から頭の悪い男ばっかに絡まれる」
仁熊恵麻がつぶやいた。
◇
日曜日。
待ち合わせ時間の15分前に噴水前に到着した。周囲には同じように待ち合わせしている様子の男女が幾人もいて、皆、例外なくスマホをいじっている。
僕もスマホを出してネットニュースを閲覧して時間を潰した。
空は五月晴れ。出かけるには最高の天気だった。
人の流れを感じて顔を上げる。駅から人があふれ出てくる。まだ、10分ほど時間があるから、仁熊恵麻が乗ってくるのは次の電車だろう。
そう思ったのだけれど。
「あの子、超可愛くない?」
「モデルかもね」
そばにいた女子の2人組がそんな言葉を交わす。
僕は最初、それが彼女だとは分からなかった。
黒いスカートに白いシャツ。頭には黒いキャスケット帽をかぶり、ショルダーバックを下げている。
綺麗なストレートロングの金髪と首の黒いチョーカーが無ければ気づかなかったかもしれない。
仁熊恵麻は僕の元へと一直線に歩いてくると、少し強張った顔で笑いかけた。
「おはよ」
「おはようございます」
「なんか緊張する。あたし、変じゃないかな?」
「いえ、すごく似合ってます。大人っぽくて。綺麗です」
お世辞じゃない。本当にそう思った。
仁熊恵麻が顔を赤くして、彼女にしては珍しく、うつむいた。
「照れるじゃん」
つぶやく。
「むしろ、僕なんかが隣を歩いていいのかと思ってしまいますけど」
僕の方はブルージーンズにダウンボタンシャツ。シワになったりはしていないし、きちんと洗ってあるけれど、彼女と並んでも絵にはならなそうだ。
「ドクロのネックレスとか、変な指輪とか、チェーンでつながったピアスとかしてないから、いいと思うよ」
僕は思わず吹き出してしまった。
「なんですか? それ」
「そういう男に声をかけられること多いから。あれはなにをアピールしているの?」
「いや、パンクとかそういうファッションスタイルだと思いますよ。僕も詳しくはないですけど」
「リョーマは真面目そうで賢そうでいいよね」
真面目そうなのはともかく、賢そうというのは、単に僕が眼鏡をかけているだけだからではないだろうか。
そう思いながらも照れ臭いのは否めず。
自分の顔が赤くなるのを感じた。
「じゃあ、行こうか」
いつも通り仁熊恵麻が僕の手を握った。いつもより、彼女の手が熱いような気がした。
まずは目的のバイクショップへ。駅から少し離れた場所にあるため、10分ほど歩いた。話題は今年の大河ドラマのこと。
「どうしても違和感があってさ」
配役についてどうしても馴染めないという。
「うーん。そこは仕方がないのでは? メインの役者が見映えが悪いと視聴率もとれませんから」
「まあ、そうなんだけど」
仁熊恵麻との会話も当初のように緊張しなくなった。むしろ楽しい。
不穏な噂とは裏腹に仁熊恵麻は歴史好きのごく普通の女の子に思えた。もっとも、僕は女の子と2人きりで出かけたことはないし、こんな風に長く話すことなどなかったのだけれど。
仁熊恵麻は城や歴史博物館に行くのも好きらしい。やはり意外な趣味だ。
「じいちゃんが、そういうの大好きでさ。昔から色々連れてかれて。また、説明が長いの」
バイクショップでヘルメットを見た。フルフェイスではなく、頭部だけを守るタイプのものを買うことになった。僕はいつの間にかその気になっており(仁熊恵麻と博物館に行くのは楽しそうだ)、ヘルメットを買うことに躊躇はなかった。
ただ、支払いで少し揉めた。
「いいから。あたしが出すってば」
「いえ、そういうわけには行きません」
「女性に奢られるの嫌いなタイプ?」
「理由もなく奢られるのが嫌なんです」
「あたし、バイトしてるから」
「それは奢られる理由にはなりませんよ」
結局、僕が押し切った。
仁熊恵麻は少し呆れた様子だった。
「リョーマって意外に頑固」
「そんなことはないと思いますよ」
そういえば、と僕は思いついた。
「僕の話し方、気になりませんか?」
「なんのこと?」
「ずっと敬語でしょう? 昔からよく堅苦しいとか、よそよそしいとか言われていたんです」
僕は何も仁熊恵麻を恐れて敬語というわけではない。友人たちにもこんな風に敬語を使う。それどころか家族にも敬語だ。
「私は好き。ほら、富樫たちと話してるの聞こえるじゃん。なんかいいなって思ってたんだ。うち、ばあちゃんがリョーマみたいにずっと敬語なんだよ。だから好き」
それにまた僕の顔は熱くなった。
仁熊恵麻は簡単に好きと言うから、とても困る。
バイクショップの後は駅前に戻った。地下街には若者向けの衣料品店や雑貨屋なんかがある。
それらを見て回る予定だった。
仁熊恵麻はファッションにも十分興味があるらしく、ゆっくりと時間をかけて小物や服を選んだ。そうしていると本当に普通の女の子みたいだ。
普通の女の子がどういうものかと聞かれても僕には分からないけれど。
仁熊恵麻は真っ赤なベルトみたいなチョーカーを買った。
一説には、彼女のチョーカーの下には刃物で切りつけらえたような傷跡があるのだとか。さすがにそれは嘘だろうと、僕は思う。
カフェで休憩している時に、その話をすると仁熊恵麻は笑った。ただ、その笑顔はいつもの彼女の笑い顔とは少し違ってみえた。
「見る?」
嫌な予感がした僕は、つい、うなずいた。
仁熊恵麻が黒いチョーカーを外した。特になにもない。傷もタトゥー(もう1つの噂は刺青が入っているというもの)もない。
仁熊恵麻はそのまま買ったばかりのチョーカーに付け替える。
「噂は当てになりませんね」
「ほかにはどんな噂があるの? 暴走族を潰滅させたとか?」
「それ、やっぱり嘘なんですか?」
「……こっちは本当」
少し申し訳なさそうな顔で言った。
「あんまり、ブンブン、うるさいから。じいちゃんに黙らせてこいって言われて。あたしも受験勉強でイライラしてたし」
「じゃあ、中学の時の話なんですか」
「うん。でも、その後、そいつらと友達になったよ。バイク、その影響だし」
「ちなみにヤクザと喧嘩したっていうのは?」
「たぶん、おじちゃんの舎弟とのことじゃない。じいちゃんの弟子でヤクザやってるおじちゃんがいるんだけど。街でおじちゃんに話しかけたら、その舎弟に、舐めた口きいてんじゃねえって、怒鳴られて。それだと思うんだ」
「半グレのアジトに乗り込んだというのもありますよ」
「……それも本当、かな」
またしても仁熊恵麻は申し訳なさそうに言う。認めたくはないが嘘はつきたくないという誠実さの現れ。
「友達がさ。ひどい目に合わされてさ。頭にきて。あとで、それを知ったさっき話したヤクザのおじちゃんにすごく怒られた。カタギが首突っ込むんじゃねえって」
「じゃあ、車に飛び乗って、フロントガラスを割って中に入ったというのは」
「……」
仁熊恵麻は気まずそうに横を向いた。
カフェで休憩した後、また買い物に戻る。仁熊恵麻はワンピースを探しているようだった。
「少し明るい色のワンピースが欲しいの。黒とか暗い色ばっかだし」
「そうなんですか」
「ノースリーブもいいなあ」
「あっ、腕とか背中に入れ墨入ってるって噂もありますよ」
「墨なんて絶対入れないってば。温泉入れないの損じゃん」
「それはそうですね」
「消すのすごい大変なんだから。絶対やめとけって、おじちゃんが言ってた。あっ、これ、ちょっと試着してみようかな」
言って仁熊恵麻は淡いオレンジ色のノースリーブのワンピースを持って、試着室へと入っていった。
すぐに呼ばれる。
カーテンが開かれ、着替えた仁熊恵麻が姿を現す。ノースリーブ。裾は太ももの半ばほど。腰のところですぼまっていて、かなり細身。襟ぐいが深くて、彼女の深い胸の谷間がのぞいている。
僕はつい、目をそらしてしまった。心臓が激しく高鳴っている。
「よくない?」
「いえ、とてもお似合いです。ただ、露出が多すぎるかな、と」
「なに? もしかして照れてる?」
「まあ、僕も男なので」
「じゃあ、これ、買おうかな」
「なんでですか」
「リョーマが可愛いから」
それにますます僕の動悸は激しくなった。
顔どころか全身が赤く染まっていくのがわかる。
「もう少し暑くなったら着ようかな」
仁熊恵麻が言った。
確かに、まだノースリーブは肌寒そうだ。
昼食は駅地下にあるレストランで食べた。
やはり仁熊恵麻の食べ方は上品で綺麗だった。
僕がそれを伝えると仁熊恵麻は顔を赤くして照れた。
「そういえば、なんのバイトをしているんですか?」
「……家庭教師」
さすがに驚いた。
それが顔に出たらしく、仁熊恵麻は唇を尖らせる。
「やっぱりおかしい?」
「すいません。意外だったもので」
「あたしだって小学校低学年の勉強くらいみれるよ。ばあちゃんの友達の孫でさ。すごいヤンチャで手を焼いてたみたいで。双子の女の子なんだけど。可愛いよ」
ついでに合気道も教えてやっているそうだ。
「あと、その子たちの中学生の姉に英語も教えてるよ。英会話だけど」
「……えっ?」
さらに驚いた。英会話? 小学校の勉強を教えるのとはわけが違う。
「あっ、あたし、一応、バイリンガルだから。これでもハーフだし」
それから仁熊恵麻は語った。父がアメリカ人だったこと。6歳まではアメリカに住んでいたこと。父の死後、母方の実家を頼って日本に来たこと。だが、もともと病弱だった母は、父の死後1年ほどで他界。そのまま祖父母と暮らしているとのこと。
「じゃ、じゃあ、ひょっとして、その髪も」
仁熊恵麻の髪はそれは鮮やかな金色だ。
「うん。基本、母さん似なんだけど、髪だけは父さんからもらったみたい」
嬉しそうにサラサラの金髪を撫でる。
意外も意外である。
仁熊恵麻は彫りが深い美人顔。そして見事なスタイルも父親からの遺伝の影響かもしれない。
「教えられるのなんて日常会話くらいだけどね」
仁熊恵麻が照れ臭そうに笑った。
午後は僕の希望通り駅と併設されたデパートの大型書店へ寄った。
「仁熊さんは……」
言いかけた僕の言葉は、しかし途中で呑み込んだ。仁熊恵麻がつないだ手に力を込めたためだ。
「エマがいいな」
有無を言わさぬ迫力だった。
「エマさんはやっぱり読む方も得意なんですか? 英語のことですけど」
「うん。ばあちゃんが父親の国の言葉だからちゃんと覚えないなさいって。読み書き教わったんだ。うちのばあちゃんすごく頭が良くて、8ヵ国語くらい話せるんだよ」
「すごいですね」
「でも怒ると怖いんだよ。じいちゃんより怖い」
本屋では僕がお勧めの時代小説を教えたり、戦国時代の特集をしている雑誌を立ち読みするなど。やはり、仁熊恵麻……エマは付き合う前の粗暴なイメージとは裏腹に本も読むのが好きだった。
特に時代小説はかなり好きなようだ。
「じいちゃんが好きなんだよね」
今まで友達と一緒に本屋を見て回る経験なんてなかった。一緒に本屋に行っても見るコーナーがぜんぜん違っていて。
だから新鮮で楽しかった。
たっぷり2時間ほど本屋を見た後、喫茶店で休憩をとる。さすがに歩き疲れた。
「疲れた?」
エマが言った。
僕がぼんやりとしていたせいだろう。
「はい。少し疲れましたね」
「じゃあ、帰ろう。まわりたいところ、だいたいまわったしね」
予定よりもずいぶん早い解放。
嬉しいはずなのに寂しさを感じた。もう少し、エマと一緒にいたい。そう思った。
「いえ、ここでゆっくり話しましょう。時間は大丈夫ですから」
デートに誘われたときには、自分がこんなことを言うなんて思いもよらなかった。
エマの顔が喜びに輝く。彼女は子供のように感情表現が素直で、そういうところがとても魅力的だ。
夜。
ベッドに入って、瞼を閉じるとエマの顔が浮かんできた。そうすると自然と動悸が早くなり体温が上がる。
エマとつないだ手は、いつのまにか捕まっているという感覚から、結んでいるという感覚に変わっていた。
僕の彼女。そう実感すると身内に幸福感が広がった。
興奮していたせいか、その夜、僕はなかなか寝付けなかった。




