第三部・第十一話(第54話) 漁村の不安
港町からさらに南へ。
漁師たちが暮らす小さな漁村に足を運んだ。
そこはかつて、豊かな漁場として知られていた場所。
だが今、浜辺には干された網が虚しく風に揺れ、魚を積むはずの桶は空のままだった。
「……静かすぎる」
私は思わず呟いた。
出迎えた老人の漁師が、深い皺を刻んだ顔で言った。
「聖女様……今年に入ってから漁がまったく上がらんのです」
別の漁師が拳を震わせる。
「魚の群れが、海から消えたんだ。まるで誰かに奪われているように」
彼らの目は恐怖と怒りに曇っていた。
「噂では魚人族が……」
その言葉に、周囲がざわめく。
私は静かに問い返した。
「証拠はあるのですか?」
「……ない。だが、海で黒い影を見たという者は大勢いる」
隣で聞いていたセレナが、そっと私の袖を引いた。
「お姉さま。網を見てください」
漁師たちが干している網には、深く裂けた痕があった。
刃物のように鋭い切り口――だが自然に破れたものではない。
「……攻撃された?」
私が呟くと、セレナは小さく頷いた。
「魚人族の武器かもしれません」
漁師の妻たちが集まり、口々に訴える。
「子どもたちに魚を食べさせられない」
「畑も痩せてきて、米も足りなくなる」
「このままでは村が……」
セレナが唇を噛みしめる。
私は彼女の背に手を置き、静かに言った。
「大丈夫。必ず原因を突き止める」
帰り際、ひとりの少年が私の服を引っ張った。
「聖女さま……お父さんが、もう漁に出られないって」
震える声に胸が痛んだ。
「……約束するよ。きっと魚は戻る。あなたのお父さんもまた海に出られるようにする」
少年は涙を拭いながら、大きく頷いた。
その夜。
村の浜辺で、漁師たちが見張りをしていた。
「……見ろ、まただ!」
月明かりに、黒い影が波間を走る。
次の瞬間、網が音もなく切り裂かれた。
「魚人族だ!」
怒号と共に火矢が放たれる。
海は瞬く間に荒れ狂い、闇の奥から複数の赤い光が浮かび上がった――魚人族の瞳だ。
遠くからその光景を見守りながら、私はセレナの肩に手を置いた。
「……ついに始まるかもしれない」
「お姉さま……私も一緒に戦います」
彼女の小さな拳は、確かに震えていた。
だがその瞳には、強い光が宿っていた。
私は静かに頷いた。
「ならば、共に。領地も、この国も、海も――守ろう」
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次回予告
第三部・第十二話(第55話)
「海神の祭壇」
信仰の場で、獣人族と魚人族が正面から激突する。
海と精霊を巡る対立は、いよいよ避けられないものとなっていく――。




