第三話 幼少期――チート知識と父母の驚愕
人間というのは、成長の速度に「常識的な限界」がある。
歩き始めるのは一歳前後、言葉を話し始めるのは一歳半から二歳。数を数えるのは三歳を過ぎてから。
――だが主人公は違う。
前世三十五年の知識を抱えている主人公にとって、数の概念など呼吸のようなものだった。
乳母や母の口真似を繰り返すうちに、俺は言葉を覚えていった。
最初に口から出たのは「ま……ま……」
母は感極まったように微笑み、俺を抱きしめた。
「レティシア……! 初めての言葉が“ママ”だなんて!」
――いや、正確には「マーケティング」って言いたかったんだけどな。
だがそんな事情を説明できるわけもなく、母の感動に流されておくことにした。
次に発したのは「ぱ……ぱ……」
父アルノルトは大いに喜び、兵士たちを呼んで酒盛りまで始めた。
「聞いたか! 娘は私を“パパ”と呼んだぞ!」
――いや、ほんとは「パラメータ」って言いたかったんだ。
こうして俺は、意図せずとも両親の心を鷲掴みにしていった。
ある日、母が俺に木製のブロックを渡してきた。
「レティシア、これを数えてみましょう」
母の声は期待に満ちていた。
普通なら「いち、に……」と数えられれば十分褒められる年齢だ。
だが俺は、にやりと心の中で笑った。
「いち、に、さん、し、ご……ろく、しち、はち、きゅう、じゅう」
その瞬間、部屋の空気が止まった。
母は目を見開き、乳母は口を覆い、見回りに来ていた執事まで固まっている。
「……十まで、数えた……?」
母の声は震えていた。
だが俺は止まらなかった。
「じゅういち、じゅうに、じゅうさん……」
そのまま二十まで、三十まで。
「……四十、五十……」
数字が滑らかに口から出ていく。
前世の知識を持つ俺にとっては当たり前のことだったが、この世界の幼児教育レベルではあり得ない光景だった。
母は感極まったように涙を浮かべ、俺を抱きしめた。
「……レティシア、あなたはやはり特別な子なのね」
その声は愛情だけでなく、どこか畏れも混じっていた。
父アルノルトが部屋に入ってきたのはその直後だった。
母から事情を聞いた父は、俺を抱き上げ、鋭い眼差しで見つめた。
「……数を、数えたのか」
低く唸るような声。
俺は笑顔を作りながら、もう一度木のブロックを指差して数えた。
「ろくじゅう、ななじゅう……」
父の表情が一瞬だけ崩れた。
「……兵站管理に必要な算術を、理解できるかもしれん」
兵站。
戦場に物資を送り続ける、その血管を守る知識。
父の口からそんな言葉が出た瞬間、この家がどれだけ戦に備えているかを実感した。
数日もしないうちに「辺境伯家の令嬢は神童」という噂が屋敷中に広まった。
乳母は誇らしげに「レティシア様はきっと偉大なお方に」と言い、執事は「学者を呼ぶべきでは」と提案してきた。
俺は布団の中で小さな手を握りしめながら思う。
――俺はまだ赤子だ。けれど、この“神童”という評価を利用すれば、領地改革の下地を作れるかもしれない。
ただし、期待値が高すぎるのはリスクでもある。
成功すれば救世主。失敗すれば異端。
俺の人生は、もうただの赤ん坊ではなくなってしまった。
夜、父が俺の寝室を訪れた。
「レティシア……お前が我らの未来を変えるのかもしれん」
その言葉に、俺は無意識に小さな手を父の指に絡ませた。
父の指は岩のように硬く、温かかった。
――俺はやる。
内政チートでこの家を、領地を、必ず繁栄へ導いてみせる。
だが同時に、胸の奥でひっそりと囁く声があった。
「神童」と呼ばれるたびに、前世で築けなかった“自分らしい幸せ”が遠のいていくような、不安の影が。
次回予告
第四話 初めての社交界――王都デビューと男たちの視線
幼少期を経て、いよいよ王都の社交界へ。辺境伯令嬢として初めての舞台は、陰謀と利害の渦巻く世界。だが、彼女に注がれるのは「令嬢」への視線ではなく――「なぜか男たちの熱いまなざし」!?