第二話 転生――目覚めたら辺境伯令嬢
初回なので10話投稿しています。
光はやわらかく、空気は甘い。
目を覚ました瞬間、鼻腔に流れ込んだのは、ほんのりとした蜂蜜とミルクの香りだった。
温かい腕に包まれている。
抱き上げているのは、三十代前半ほどの女性――乳母だ。ふっくらした頬に優しい目元、清潔なリネンのエプロン。体温と香りは、母親とはまた違う種類の安心感を与えてくれる。
「レティシア様、今日もご機嫌ですね」
乳母は俺の名を呼び、母音を引き延ばすように歌った。赤子の俺にとっては意味を超えた音楽だ。
――俺の名前は、レティシア。
そうか、俺は本当にこの世界で「辺境伯の娘」として生まれたんだな。
乳母は温めたミルクを小さな角瓶に移し、布でくるんで俺の口元へ差し出した。
吸い込んだ瞬間、舌に広がったのは、ほんのり甘く、濃厚な味わい。前世で飲んだ牛乳や粉ミルクと比べて、圧倒的に「自然」だった。
――うまい。
俺は内心で唸った。これなら毎日飲んでも飽きないだろう。
いや、むしろ飽きる以前に、欲望が止まらない。胃袋が赤子用に小さいのが悔しいくらいだ。
乳母は俺がごくごくと飲む様子を見て微笑む。
「まあ、よく飲みますねえ……将来はきっと立派なお方になりますよ」
――立派かどうかは分からないが、内政改革で領地を建て直すのは決定事項だ。
だが今の俺にできるのは、このミルクを飲み干すことくらい。
飲み終えると、乳母が肩に抱きかかえ、背中をぽんぽんと叩く。
げふっ、と可愛らしい音が口から漏れた。……くそ、これを自分でやってると思うと微妙に恥ずかしい。
だが、この恥ずかしい仕草が武器になるのだ。
泣く、笑う、飲む、吐く。すべてが周囲の大人を動かすトリガー。
乳母は「可愛い」と言いながら俺の頬をつつき、額に口づけを落とす。
前世では三十五歳のおっさん。だが今は、周囲の愛情を一身に受ける「赤子の特権」を享受できる。
――これを利用しない手はない。
俺は赤子らしく「無邪気に笑う」ことを意識的に選択した。
すると乳母は気を良くして、自然と領地の話を口にする。
「北の村では、魔物が出たそうですよ……」
「塩の値段も高くなって、庶民は大変でございます」
「でも、辺境伯様はお強いですからね。必ず守ってくださいます」
なるほど、断片的ながら有力な情報が手に入る。
――やはり交易路の封鎖は深刻そうだ。塩の高騰は税収にも直撃する。
赤子であろうと、コンサル脳は止まらない。
俺は心の中でメモを取るように情報を整理し、「KPI:情報収集」を進捗度30%に更新した。
乳母の胸に顔を埋めながら、ふと思った。
前世では、誰かに抱かれて眠るなんて、最後にいつだったろうか。
自分の身体の大きさも重さも気にせず、ただ甘えられる時間。
それは、地球での三十五年の人生では、ほとんど味わえなかった感覚だった。
――悪くないな。
ほんの少し、心の奥が柔らかくなる。
だが、その安堵に浸るだけでは終われない。
この領地は問題だらけだ。疫病、交易、魔物、インフラ。
乳母の語った断片は、それを裏付けるものだった。
「レティシア様……」
乳母が再び俺の名を呼ぶ。
俺は小さな手をぎゅっと握り、内心で答えた。
――この腕が大きくなったら、必ず立て直してみせる。
辺境伯家を、そしてこの世界を。
ミルクの甘さがまだ舌に残るうちに、俺は眠りに落ちた。
それは未来への設計図を描くための、最初の静かな夜だった。
赤子の俺に与えられたリソースは極めて限られていた。
・泣く
・笑う
・指差す(※正確には“もぞもぞ動かす”レベル)
・つかむ
――以上。
これをどう組み合わせるかで、この世界での情報収集効率が変わる。
俺は心の中で、赤子専用KPIを設定した。
第一KPI:領地の情報収集(進捗0%)
第二KPI:両親・家臣の信頼獲得(進捗0%)
第三KPI:赤子としての可愛さ最大化(進捗50%)
……最後のは完全に武器だ。可愛さは権力。
おっさん時代に培った論理とプレゼン力なんかより、ここでは「ぷにぷにほっぺ」と「にぱーっ」という笑顔の方が、よほど説得力がある。
まず泣いてみた。
「ふぎゃああああ!」
即座に乳母が飛んできて、抱き上げられる。
「どうしました? お腹ですか? 眠たいんですか?」
おお、これはすごい。
泣く=緊急会議召集。
対応スピード、前職のブラック企業より速いぞ。
だが長く泣くと「具合が悪い」と誤解されるので、途中でピタッと笑顔に切り替えてみる。
「……あら? 笑ってる……可愛い!」
乳母のテンションが跳ね上がった。
――泣きは、注意を引きつける導入。笑顔はクロージング。
なるほど、プレゼンと同じ構造じゃないか。
次は指差し。
母が領地の地図を机に広げていたので、乳母の腕から手をぐいっと伸ばしてみた。
「まぁ、レティシアが指差しましたわ!」
母は嬉しそうに指先を追い、地名を口にする。
「これはノルダ村、こっちは鉱山の街アーデルよ」
来た来た来た! 音声解説付きの地理授業だ!
赤子一回の指差しで、村ひとつの情報が得られる。コスパ最高。
……ただし指の動きはまだ不自由なので、隣のカーテンを差してしまい、母が「カーテン? これが気になるの?」と首をかしげる事故も発生。
――まあ、リスクはつきものだ。
父が仕事帰りに俺の部屋へ寄ったときのことだ。
「レティシア、元気にしていたか」
鋭い眼差し、分厚い胸板、辺境伯アルノルトの登場である。
――ここは勝負どころ。
俺は必死に「おっさんスマイル」を赤子用にアレンジして発動。
「にぱぁぁぁぁ!」
父は一瞬呆気に取られ――次の瞬間、豪快に笑った。
「はっはっは! この娘は我が家の太陽だ!」
作戦大成功。
父の心を一撃で射抜いたぞ。
第二KPI:信頼獲得(進捗30%)
ただ、この「にぱぁぁぁスマイル」には副作用があった。
――やたらと男にモテる。
父はもちろん、家臣の若い騎士たちまでが「レティシア様の笑顔が今日も……!」と目を潤ませている。
中には「守るべきはこの方だ!」と本気で拳を握る兵士まで出てきた。
おい待て、俺の戦略はまだ領地内政だ。ハーレム構築は予定外だぞ!?
泣く → 注意を引く
笑う → 相手を掌握
指差す → 情報収集
この三点セットを回すことで、赤子でありながら俺は着々と領地の現状把握を進めていった。
ただし――。
「レティシア様はやはり神童に違いない」
「きっと将来は偉大なお方に……」
などと早くも噂が立ち始め、妙にハードルが上がっている。
俺は布団の中で、ちっちゃな手を天に伸ばし、心の中で呟いた。
――お願いだからプレッシャーはもう少し待ってくれ。
まだ俺、オムツのKPIすら改善できてないんだから。
次回予告
第三話 幼少期――チート知識と父母の驚愕
数字遊びを始めたレティシア、数の概念をいきなり百まで数えて周囲を震撼!? 母は「うちの子天才」と喜び、父は「……兵站管理を任せられるかもしれん」と真顔に。赤子の“算数チート”が、家中に波紋を呼ぶ――!