第一話 プロローグ――最後の飲み会と謎の老人
設定回なので長いですね。2話から読んでも話分かります。
開場の拍手は、渦を巻くように天井へ昇っていった。
年に一度の日本最大のゲームイベント。巨大なホールの中に、ネオンのような熱気が漂っている。特大スクリーンに映る新作PV、試遊台の行列、限定グッズを抱えた来場者たち。歓声、シャッター音、そして、控えめなコーヒーの香りまでが、祝祭の匂いに溶けていた。
高坂真一、三十五歳独身。コンサル会社のシニアマネージャー。
「お疲れ、真一! 最後の試遊、どうだった?」
振り返ると同期の三浦が、大袋を抱えて笑っていた。袋の口からは、限定サントラ、アクリルスタンド、そして缶バッジが覗いている。
「最高だった。戦闘のチューニング、まじで神。あれは時間泥棒確定だわ」
「だよなー! で、夜は? いつものメンツで打ち上げだろ?」
「そりゃもちろん」
仕事は激務だった。平均退社時刻は日をまたぐことが珍しくない。プレゼンの締め切り、クライアントの無茶振り、会議の連鎖。
それでも彼は出世街道を順調に上がってきた。論理は鋭く、手は速く、人心のツボも心得ている。けれど女性運だけは、驚くほどなかった。飲み仲間は山ほどいるのに、恋の噂は砂漠の蜃気楼すら現れない。
――だからこそ、この日くらいは、全部を忘れて祭りに浸りたい。
真一は、肩にかけたトートの重さを心地よさと受け止め、会場を後にした。
***
夜。
打ち上げは、渋谷の雑居ビルにある居酒屋で始まり、二軒目、三軒目と梯子して、笑い声は濃く、脚取りは軽くなっていく。
ゲームの話をすれば語彙が爆発し、アニメの話をすれば引用合戦になる。男だらけの円卓は、オタクの天国だ。
「来期アニメ、どれ追う?」
「とりあえずロボ枠とスポ根枠、あと異世界のやつ」
「異世界はもう、ジャンルというよりインフラ」
そんな馬鹿話で午前一時を過ぎ、三時を越え、始発の文字が頭をよぎり始めたころ。
「じゃ、俺はここで」
終電をとうに逃した仲間たちと雑にハイタッチを交わし、真一は一人、路地へ出た。夜風が熱を冷やし、頬の火照りが少し引いていく。
コンビニの明滅、タクシーの灯、新聞配達のバイク音。町は眠っていないが、祭りは終わりつつあった。
――もう一杯だけ。
そう思ったのは、締めのラーメンへの理屈が欲しかったからだ。胃袋は塩分と炭水化物を求め、口は日本酒の名残を欲しがっている。
目に入ったのは、木の引き戸にすだれを下ろした、小さな居酒屋。白地の暖簾には、墨で「蓬莱」とある。
引き戸を開けると、ほの暗いカウンターに、先客は一人だけ。
背筋の伸びた白髪の老人。着流しのような薄い羽織。皿には昆布の佃煮、盃には透明な酒。横顔の皺には、達観と悪戯心の両方が刻まれていた。
「いらっしゃい」
店主らしき寡黙な男が、水とお通しを置く。
「熱燗一本と、浅漬けください。それと……この時間に〆行けます?」
「……ああ、煮干しの中華、やってるよ」
よかった、と胸の内で呟いたとき、隣の老人が目だけでこちらを見た。
「若いの、祭り帰りかね」
「ええ、まあ。年一のやつで」
「顔に書いてある。獲物を抱えた猟犬の顔だ」
「グッズのことなら、財布は瀕死です」
老人は喉を鳴らすように笑った。
「瀕死は生の兆しさ。死にかけているものは、一番よく生きている」
言葉の選び方が奇妙に胸に残る。酔いのせいか、妙に会話が滑らかだった。
「あなたは?」
「わしは旅の修理屋よ」
「修理屋?」
「世界の、ちょっとした歪みを直して回る。壊れた縁とか、捻じれた約束とか、ほつれた運命とか」
「ずいぶん壮大な仕事ですね」
「酒の席の話だ。大目にみなさい」
熱燗が来た。盃に満たし、そっと口をつける。
米の香りが舌に広がり、肩の力が抜ける。
「君は楽しそうに生きておる。だが、ほんの少しだけ、足りぬものがある顔だ」
「足りないもの?」
「恋だよ」
酒が気管に入って咳き込んだ。
「いきなりですね」
「いきなり来るのが恋だろうに」
老人は涼しい顔で昆布を口に運ぶ。
真一は肩をすくめ、笑いに逃げた。
「モテないですよ、俺」
「女性には、だろう?」
言い当てられて、盃の表面がわずかに揺れた。
「まあ……男友達は多いですけど」
「君は人の燃料の継ぎ足し方が上手い。仕事もそうだ。困っている者を見れば、すぐに手順と道筋を描く。評価もされる。だが――」
老人はそこで言葉を切り、盃を置いた。
「君の心の設計図は、君自身の恋という案件に予算をつけない」
酔いのせいだろう。
それとも、この老人がただの話上手なのか。
胸の奥の、蓋をした引き出しの金具をカチ、と指で弾かれた気がした。
「じゃあ、どうすればいいんですかね」
「簡単だ。別の世界で、別の設計図を引けばいい」
隣で、時間が一瞬止まったように感じた。
「別の世界?」
「うむ……ところで、ちょっとした謝罪をせねばならん」
老人は、いたずらを白状する子どものように目尻を細める。
「君には申し訳ないが、わし、酔っぱらって仕事をしておってな」
「仕事?」
「修理屋の仕事だ。君の案件、本来は“貴族の子息”にする予定だったのだが、つい、性別を男女逆にしてしまった」
「……」
「さらに、地球ではない別の世界に送り込む手はずも、少し早めてしまってな。ほら、繁忙期というやつで」
「…………」
「ゆえに、謝罪だ。すまなんだ」
真一は、笑った。きれいな弧を描くくらい、気持ちよく。
「最高の与太話ですね、おじいさん。いいですよ、そういうの、好きです」
「そうか」
「むしろ、興味ありますよ。大金持ちで、何不自由なく暮らせて、モテモテの人生。今からでもなってみたいもんだ」
「言ったな?」
盃が重なり、ちいさく音を立てた。
その瞬間、店内の灯りが、わずかに色を変えた気がした。
「じゃ、約束だ」
老人は盃を取り上げ、真一の分に酒を満たした。
透明な水面に、天井の裸電球が逆さに揺れる。
「契約は、たいてい、乾杯で結ばれる」
「契約って……」
言い終えるよりも早く、真一は盃をあおった。
熱い。けれど、旨い。
喉を走り抜けた温度が、胸の奥に焚き火を作る。
――来い、ラーメン。
店主が丼を置く気配。透きとおった煮干しの香り。刻み玉ねぎ。表面の鶏油が、微細な星屑みたいに光る。
箸を取る。麺を持ち上げる。
湯気の向こうで、老人が目を細めた。
「よい旅を」
――視界が、白く弾けた。
丼の湯気が、まるで雪崩のようにこちらへ押し寄せ、音が消えた。
世界が二重写しになる。暖簾の白と、雪原の白。スープの塩味と、冷気の痛み。
床の感触が消え、代わりに、宙に浮いたような、やわらかな抱擁に包まれる。
遠くで、誰かの泣き声がする。
……いや、泣いているのは自分だ。
***
暖かい。
肌に触れるのは、上等なリネンの布。鼻に抜けるのは、蜂蜜とミルクの香り。
真一は、瞼を持ち上げようとして――自分の瞼が、信じられないほど重いことに驚いた。
世界は巨大で、光はやわらかく、輪郭は滲む。
誰かが覗きこんでいる。金の髪、瑠璃色の瞳、涙で潤んだ頬。
女だ。年の頃は二十代後半だろうか。
彼女は真っ白な指で頬を撫で、微笑みながら、柔らかな言語で何かを囁いた。
「……レティシア。……レティシア」
レティ……何だって?
口を開こうとして、開けなかった。
黒曜石のような瞳の男――壮年、たくましい肩幅、豪奢な衣が、それに続いて抱き上げる。胸板は温かく、香りは革と香木。
彼は誇らしげに言う。
「我が娘、レティシア・フォン・グランツ。――辺境伯家に、新たな光が生まれた」
娘? 辺境伯?
心が、遅れて意味を掴む。
――赤子、なのか? 俺が?
笑い声。祈りの言葉。誰かが口づけを額に落とし、誰かが膝を折って敬礼する。
開いた窓から見えるのは、遠くまで続く森林と、白い雪嶺。
壁には、豪奢なタペストリー。床は磨かれた石。ベッドの柱には、蔓草の彫刻。
この世界の美術は、どことなく中世ヨーロッパを想起させるが、細部の文様は見たことのない秩序で編まれている。
――異世界。
老人の言葉が、にわかに現実味を帯びる。
しかも、性別を、間違えた?
手を見た。いや、見ようとした。
白く、小さく、柔らかい。握りこぶしですら、豆粒みたいだ。
何より、胸の上に置かれた布越しの違和感。わずかな膨らみの将来を、体は覚えている。
頭のどこかが悲鳴を上げ、同時に別のどこかが、奇妙な安堵を囁いた。
――まあ、面白いじゃないか。
泣きたいのか笑いたいのかも判然としないまま、視界はまた滲む。
ふと、天蓋の布越しに、あの居酒屋の裸電球が揺れた気がした。
耳の奥で、あの老人の声がする。
「契約は、盃一つで足りる。だが、支払いは、君の働きで」
だったら、払ってやろうじゃないか。
コンサルの血が静かに沸く。
視界の端で、若い男の従者が、帳面と羽根ペンを抱えて立っていた。記録役だろう。
――帳面。指標。現状把握。
「KPI」という単語が、遠い記憶の棚から落ちてくる。
この家は裕福だ。辺境伯ということは、王国の外縁の防衛と開拓を担う要職。資源はある。人もいる。だが、辺境は往々にして非効率や旧慣の塊だ。
――面白い。
やることは無限にある。
安全な水、作物の輪作、道の敷設、市場の整備、徴税の平準化。商会とギルドの関係性の再設計。読み書き算術の普及。
赤子の手で何を、と笑うか?
いや、だからこそ、時間がある。幼年期という、準備期間が。
瞼が重くなる。
最後に、母と思しき女性が額へ口づけを落とし、歌うような祈りを囁く。
異国の旋律なのに、なぜか懐かしい。
――今度こそ、泣いてもいいかもしれない。
真一――いや、レティシアは、すう、と眠りに落ちた。
***
どれほど眠ったのか分からない。
次に目を覚ましたとき、窓の外は桃色に染まっていた。
乳母が優しく抱き上げ、温いミルクの匂いが満ちる。
遠くで、父の低い声が響く。
「王都より急使。北の峡谷で魔物の出没多発――交易道の封鎖を検討、だと」
魔物。交易道。封鎖。
単語の並びだけで、経済の血管が詰まる音が聞こえる。
――やることが、また増えたな。
レティシアは、赤子らしく小さく手を握った。その小さな握りこぶしは、奇妙に頼もしかった。
耳元で、風鈴が鳴る。
窓枠の影が床に線を引き、朝の光が新しい一日を宣言する。
かつては、始発が新しい日を連れてきた。今は、鳥のさえずりがそれを告げる。
世界は変わった。設計図も変わる。
でも、やることは、いつだって同じだ。
――状況を把握し、課題を分解し、順序を決め、実行する。
レティシアは、まだ言葉も話せないくせに、心の中でだけははっきりと呟いた。
「この領地を、最強の事例にしてやる」
そして彼女の物語が、静かに動き出した。