第五話 科学者との対話
近代国家におけるもっとも恐るべき兵器は、大砲でもなく銃でもない。
それは「言葉」である。
言葉は血を流さずに人を従わせ、資源を巻き上げ、国家を崩壊させる。
外交官にとって、対話の場は最前線にも勝る死地なのである。
地下収容施設。
白色灯に照らされた部屋は、机、椅子、寝具のみの無機質な状態であった。
机の前に座る男、セルゲイ・ヴォルコフ。コードネーム〈オメガ〉。
音速を遥かに超える兵器を設計した亡命科学者にして、現代戦の「戦略核弾頭」と同義の存在である。
黒田官英が入室した時、オメガはすでに鉛筆を走らせていた。
紙の上に描かれるのは推進回路図。
拘束されようが亡命しようが、彼にとって「研究」こそ唯一の生きる理由であった。
「あなたは、ここでも研究を続けるのか」
官英が椅子を引くと、オメガは視線を上げた。
「研究は私の存在理由だ」
言葉は短く、抑揚に乏しい。だが語気は鋭利である。
「国家も亡命も自分の命も。研究のための条件にすぎない」
要するに、彼にとって国家は研究所の電源程度の価値に過ぎない、ということだ。必要であるが、こだわりはない。
実に合理的。だが、同時に危険な思想でもある。
「その頭脳が何万もの命を奪う」
官英が静かに問う。
「戦争は政治の選択であり、技術はただの触媒だ」
オメガは即答した。
「私は触媒であることを誇る」
合理主義の極北。
もし黒田官英が“人間性を捨てた場合の例”を探すなら、この男こそが鏡であった。
「…私は違う」
官英はあえて言葉を選ばず、直截に返した。
「私には守りたいものがある。合理は手段にすぎない。目的を見失えば、それは狂気だ」
オメガは紙をくるりと回し、机に突き出す。
そこに描かれていたのは回路の“欠陥”中央に赤の×が引かれていた。
「合理を超えるものなど存在しない。あなたが語る“守りたいもの”とやらも、虚構にすぎない」
灰色の瞳が、冷徹に光る。
官英は図面を見下ろし、あえて皮肉を返した。
「ならば、私はその虚構を利用する策士だ。合理を逆手に取り、あなたを守り、あるいは利用する」
沈黙。オメガの瞳が初めて揺らいだ。そして薄く笑みを浮かべる。
「…あなたは策士だ。だが策士は、いつか策に呑み込まれる」
言葉は刃よりも鋭く、血の代わりに理性を流させる。
この対話は、まさに言葉による肉弾戦であった。
黒田官英は理解する。この科学者は兵器ではない。兵器よりも恐ろしい「合理の塊」である、と。