第三話 東京湾の攻防
戦場とは必ずしも砲煙弾雨の只中にあるとは限らない。
今回の戦場は、コンクリートの港湾倉庫と、監視カメラの曇ったレンズに潜んでいた。
事前に監視カメラのシステムをいじり、日本の機関以外の組織には5分遅れの映像が送信されているはずだ。
いつの時代も状況を理解できない者は、いつの間にか「敗北する」のである。
夜、東京湾。
雨に濡れたコンテナ群は、赤と青の迷路を築いていた。
クレーンの金属音がこだまする中、四つの勢力が同じ一点を目指して動いている。
アメリカ中央情報局――自由と正義を口にしながら、実際には「利潤と同盟の維持」を目的とする鍛え抜かれた商人集団。言わずと知れたCIA。
中国国家安全部――秩序と安定を謳いながら、実際は「覇権の均衡」を追い求める老獪な策士たち。
ロシア連邦保安庁ーー国家の安全保障というお題目を掲げてはいるものの、その実、KGBの流れを汲む秘密警察の家元。
そして日本。
残念ながら「今回の舞台」であるはずが、誰にも相手にされていない余計者にすぎない。
その余計者の軍師役を務めているのが黒田官英であった。
監視室の椅子に座り、官英は複数の無線回線を同時に制御する。
現場指揮官は、特殊作戦群上がりの古兵だが大国の特殊部隊を相手にするのは初めてである。また、麾下の兵卒は今にも引き金に指をかけそうだ。
そして、今、現場にいる全員が「撃ちたい」と思っていた。
「撃つな」
官英の声は冷ややかに回線を貫いた。
「ここで引き金を引けば、翌朝の新聞は“日本、外国要員を射殺”の見出しで埋まる。―そうなれば、勝利者は誰だと思う?」
沈黙。
合理的思考を持つ者でなくても、この問いの恐ろしさを理解する。
その瞬間、官英は別の策を実行に移した。
港湾照明のシステムを三分間だけ落とす。
亡命者が日本に保護して欲しいと考えているなら、この意味を理解するはずだ。
光が消えると同時に、倉庫の扉から一つの影が走り出た。
痩せた体躯、濡れたトレンチコート。
〈オメガ〉である。
各国兵士達の銃口は闇を彷徨ったが、発砲はない。
撃てば敵味方の境界は即座に崩壊する。
優秀な兵士ほど、引き金を引けなくなる。
そして照明が復帰する刹那、〈オメガ〉は立ち止まり、まっすぐカメラのレンズを見た。
灰色の瞳。
冷徹にして計算された眼差しは、まるでこう語っていた。
さて、日本よ。誰にこの駒を差し出すつもりか。
銃弾が飛ばぬ戦場も厄介である。
虚実の選択が、国家の未来を左右するからだ。
黒田は、呼吸を深めながら、思考を巡らせていた。
そして、改めて理解する。
いま自分が握っているのは、国家の命運そのものだと。