第二話 選択
国家というものは実に厄介だ。
銃弾一発の価値は、銃砲店で買えば鉄塊と火薬分の価値しかないが、外交の場では国家予算と同等の価値を持つ。
ゆえに、銃を撃たずして戦う者。すなわち情報官僚は、常に最前線より前の矢面に立たされているのである。
黒田官英は、その夜、機上にあった。ジュネーブ発、成田行き。
ファーストクラス。とはいえ、通話に適した環境とは言い難い。
敵弾こそ飛んでこないが、無線越しの怒声が耳に届く。日本の官僚機構は、銃撃戦よりよほど無秩序である。
件の対象。コードネーム〈オメガ〉。
ロシア国防研究所所属、極超音速兵器の推進システム設計者。
端的に言えば、“文明の滅亡を百年早める頭脳の持ち主”である。
米国は彼を保護して利用したい。
中国は彼を消去して均衡を守りたい。
日本は…?
そもそも選択権など持ち合わせていない。
だが、それでも戦場は東京湾に現れた。
ーー
「黒田君、結論は?」
暗号回線の向こう、副長官の声が震える。
政治家は、弾丸が飛んでくる前から保身を図る。だから彼らは政治家なのだ。
「結論は明確です」官英は淡々と答えた。
「我々は彼を受け入れるべきだ」
公安の責任者が割って入る。
「科学者一人のために、国土を危険に晒すつもりか!」
官英は心拍を落とし、言葉を並べた。
「その科学者一人をめぐって、米中露が撃ち合う方がよほど危険です」
防衛省の分析官が頷き、ロシア側の暗号傍受を読み上げる。
「すでに暗殺指令が発令済み。〈オメガ〉は標的になっています」
つまり、黒田官英に求められているのは「選択」ではない。
選択できない日本に代わり、“戦争を始めさせない策”を用意すること。
調整官として、虚と実を操ること。
彼は静かに決意した。
「東京湾を使う。虚を現実に勝らせ、敵より先んじる。要するに、彼らには私たちの後を追わせれば良い」
機内の照明は薄暗く、隣席の乗客は酔いに沈んでいる。
だが官英の脳裏には、銃声にも勝る轟音が響いていた。
それは、合理をもって虚を紡ぐ、策士の戦場であった。